第50話:蘇る兄の記憶
その夜、久しぶりに出張から如月家へと戻った父・如月丈は、居間の古びた畳の上に、いつもと違って志馬の好物として用意したカツ丼にも手を付けず、出張から戻ってきた時に楽しみにしている六王子ラーメンを作ることもなく、一人で静かに座っていた。
「……親父。今夜こそ、逃げずに、昔のあの路地裏の真実の話をしてくれ。俺ももう、自分の宿命から逃げたくないんだ」
17歳になった志馬の、真っ直ぐで一切ブレない強い視線を受け、丈は深く、長く重い溜息をつくと、我が家に伝わる血の歴史の重みに耐えるようにして、静かに口を開いた。
「この話を聞けば……志馬、お前はいよいよ、天魔理心流の本当の『伝承者』としての重荷を背負うことになる。その宿命は、お前のこれからの人生にとって、決して容易なものではないかもしれんぞ……。お前に、その本当の覚悟があるか?」
いつになく真剣で、武人としての威厳を宿した父親の問いかけに対し、志馬は言葉による返事をせず、無言で、しかし、しっかりと力強く顎を引いて頷いた。
「龍鷹が、6年前にこの家から突如として姿を消したのは……志馬、お前が悪いわけじゃない。だがな、アイツは……間違いなく、お前のこれからの未来を守るために、自ら進んで闇へと消えたんだ」
出張がちだった父・丈の口から語られたその真実は、志馬の脳内の奥底で頑強に封印され続けていた、12歳の記憶の重い扉を、凄絶な暴力の質量をもって強制的にこじ開けた。
居間の畳の目を血眼になって見つめる志馬の視界が急速に歪み、白黒のノイズの向こう側から、6年前のあの雨上がりの薄暗い路地裏の情景が、生々しい色と匂いを伴って蘇る。
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1991年秋。夏休みが終わってしばらく経った頃。小学校の帰り道。
「じゃあね、志馬! また明日!」
と手を振る親友の奨と分かれ、家路を急いでいた小学校6年生の志馬の幼い耳に、夕闇の静寂を切り裂くような、少女の悲痛な叫び声が届いた。
「おじさん、いやぁ! きすみを放してっ!」
志馬がランドセルを揺らして猛然と駆けつけた、薄暗い路地裏。
そこには、大雨の水溜りの地面に無残に転がる赤色のランドセルと、志馬の同級生で、誕生日を迎えて12歳になったばかりのまだ幼い大川輝澄を、背後から強固な羽交い締めにして、自らの下劣な劣情を爆発させている、薄汚れたジャージ姿の中年男のシルエットがあった。
「えへへっ。きすみちゃんっていうのかー。可愛いねー。これから、おじさんと気持ちいいこと、いっぱいしよーね……」
「輝澄!! お前、何してやがる! その汚い手で触るな、離れろ!」
怒りに任せて真っ正面から殴りかかった12歳の志馬だったが、大人の圧倒的な体格差と筋力の前には抗えず、男の容赦ない蹴りによってコンクリートの地面へと無残に吹き飛ばされ、尻餅をついた。
「邪魔すんじゃねーよ、クソガキ! この可愛い子は今から、俺の特別なお嫁さんになるんだぁ!」
男は口元から下劣なヨダレを垂らしながら、恐怖で涙を流して震える輝澄の細い首筋に自らの汚い舌を伸ばし、彼女の衣服の下のまだ幼い膨らみへとその指先を強引に掛けそうになった、まさにその刹那――。
志馬の脳の細胞の奥底で、何かが完全に「弾け飛んだ」。
ドクンッ!!! と、心臓の鼓動が生命の限界を超えて跳ね上がり、網膜の視界のすべてがおぞましい真っ赤な血の海の色へと染まり上がる。
修行による制御を一切持たない、怒りの感情のガソリンだけで強制解放された、不完全で圧倒的な『引導』の覚醒。
刹那、志馬の幼い肉体から放たれた、予備動作を完全にゼロにした神速の突きが、中年男の顎の先端へと爆発的な質量を伴って炸裂した。
あまりの衝撃波により、男は自らの噛み合わせの圧力で自らの舌を根元から強制的に噛み切り、真っ赤な鮮血の残響が中空に舞う。
男が激痛のあまり輝澄の身体をパッと離して地面にのたうち回ったその瞬間、路地の入り口から、衣服の摩擦音とともに一人の青年が猛然と飛び込んできた。当時18歳、誠修館高校の最高学年だった実の兄・如月龍鷹だった。
龍鷹は一目でその戦場の異常性を察知し、まずはまだ幼い輝澄の心の平穏を救うべく、暴走する志馬との間に立ちはだかるようにして割って入った。
「輝澄ちゃん、大丈夫? ……ここはもう危ないから、何も見ないで、早くあっちの明るい大通りの所に行ってなさい」
優しく、だが武人としての有無を言わさぬ圧倒的な威厳に背中を押され、輝澄は涙を拭いながら自らの赤いランドセルを掴み、夜の街へと一目散に走り去っていった。
直後、人間の理性を完全に焼き切り、我が家に伝わる天魔の獣と化した志馬の狂気の拳が、実の兄である龍鷹の肉体へと容赦なく襲いかかった。
引導の暴走状態にある志馬の脳内には、目の前の人間が他校の不良か、中年男か、あるいは大好きだった実の兄であるかという認識すら、一切判別できてはいなかった。
だが、18歳の如月龍鷹は、当時すでに父親の丈にすら匹敵する、天魔理心流の真の達人へとその肉体を到達させていた。
彼は自らも瞬時に『引導』の出力を解放して潜在能力を引き出すと、志馬の放つ狂気の『疾風』の突き線をスッと最小限の体捌きで紙一重で躱し、人差し指の第二関節を限界まで鋭く突き出した天魔理心流の一本拳の突きを、志馬の正中線の急所へと、衣服の布地越しに寸分の狂いもなく的確に穿ち通した。
中枢神経を強制シャットダウンされ、一瞬にして意識を完全に断ち切られ、人形のように崩れ落ちていく12歳の志馬。
弟の身体を優しく畳の上の代わりのコンクリートへと抱きとめた龍鷹は、その場に倒れ伏して呻いている中年男の肉体を、冷徹な達人の目で静かに検分した。
志馬の放ったあの顎への一撃の凄絶な破壊力。そして、吹き飛んで倒れた際に後頭部をコンクリートの角で強烈に強打した作用。男の脈拍は、すでにその時点で完全に止まっていた。
だが、龍鷹は昏倒して何も聞こえないはずの弟の幼い顔を見つめながら、静かに、そしてどこまでも残酷な「優しさ」をその瞳に宿して低い声で呟いた。
「志馬……聴こえてねぇだろうが、お前は……人殺しなんてしてねぇぞ。なぜなら……」
龍鷹は一切の迷いなく、自らの足の裏に全体重の質量を乗せ、すでに息絶えていた男の首の骨を、バリキィッ!! と生々しい硬質音とともに、コンクリートの床の上で粉々に踏み砕いた。
「……今、ここでこいつを殺したのは、他でもない……この俺だからな」
それが、如月龍鷹が「如月龍鷹」という一人のまっとうな人間の名前として生きた、最後の日常の瞬間だった。
彼は死体の処理と事の仔細を父親の丈に告げると、志馬の戸籍と未来に一切の泥を塗らせないため、自らすべての罪の泥を背負ってその日のうちに、この六王子の街から消息を完全に絶った。
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「『志馬の罪は、俺が全部持っていく。こいつには、これからの人生で何も思い出させないでくれ』……アイツは、そう言い残して……それ以来、何の音沙汰もねぇ」
丈は寂しげに天井を見上げ、静かに言葉を繋いだ。
「アイツは、龍や鷹……本来なら天高く昇るはずだった最高の男が、お前という弟の未来を守るために、自ら進んで裏社会の泥を傷う魔道を選んだんだ。
いままで周囲に言ってきたように、高校を無事に卒業してどこかに進学したんじゃねえ。……あいつは、高校を卒業するその前に、消えた……。これが、如月龍鷹失踪の、本当の、血塗られた真相だ」
父・丈が持つ写真では、優しく笑う兄・龍鷹と、その胸元で鈍い銀光を放つ『龍の紋章のネックレス』が妖しく輝いていた。




