↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

50/57

第49話:実戦とスポーツ 矜持の違い

「空手と正林寺拳法……。東洋の『ドウ』の悩みも随分と深いようだが、私の祖国の失われた古代の叡智も、決して彼らに負けてはいないよ」


涼やかな声とともに、金髪を夜風に揺らして、空手道場の床を大きな歩法で歩み寄ってきたのは、2年生の留学生、ルーカス・アンティゴニデスだった。


そのすぐ後ろには、まるで自分のことのように鼻を高くしたお調子者の和雄かずおと、相変わらず複雑なツンデレの表情をウルフカットの奥に隠した本居真一もといしんいちが続いている。


「おい志馬さん、水島さん! また始まったよ、ルーカスのやつ。この前、神聖なボクシング部とレスリング部をハシゴして道場破りみたいな真似してさ、両方の主将を完全に怒らせて、無期限の出禁を喰らってきたんだぜ」


和雄が呆れたように頭を振って笑うが、その言葉を聞いた瞬間、志馬の垂れ目の奥の瞳が、わずかに鋭く動いた。


ルーカスの目指す、古代オリンピックの伝説の武術「パンクラチオン」は、既存の現代のあらゆるスポーツ競技の枠に綺麗に収まるような生易しいものでは決してなかった。


パンクラチオンとは、古代ギリシャのオリンピックにおいて紀元前648年から正式種目として実施されていた、打撃、投げ、そして関節技のすべてを極限まで駆使する、人類の歴史上最も過激な総合格闘技である。


ルールは極めてシンプルで、「目突き」と「噛み付き」以外のあらゆる破壊攻撃が全面的に認められ、対峙したどちらか一方が右の人差し指を天に突き上げて降参するか、あるいは肉体的に完全に戦闘不能になるまで戦いを止めることは許されない。


現代の総合格闘技や、ボクシング、レスリングなどのすべての西洋格闘技の真の「源流」ともされている。


そんな伝説のパンクラチオンの現代における完全なる再興を掲げるルーカスが、格闘の基礎を学ぶための最初の標的として、ボクシング部とレスリング部の門を叩いたのは、彼にとっては至極当然の帰結とも言えた。


彼はまず、ボクシング部のリングへと土足同然で上がり、自らの両手の分厚いグローブを強引に脱ぎ捨てて、3年生になった中村主将の目の前で言い放った。


素手ベアナックルの本当の戦いにおいて、その大きなグローブを嵌める前提のガードは1ミリも意味をなさない。そして、相手を掴んではいけないという不自然な競技のルールこそが、人間の拳の真実を遠ざける」


散々御託を並べてボクシング部にシステム的な勝負を挑むと、部のトップエースを相手に、ルーカスは競技ボクシングのルールでは100%反則となる「左手で相手の頭の髪の毛やクビを強固に掴んで完全に固定しての、右手の一方的な素手の連打」や、ガードの隙間から喉元や側頭部の急所へと放たれる、正確無比な「点」の衝撃の点打を容赦なく披露してみせた。


素手の拳の面積はグローブよりも遥かに小さく細いため、現代ボクシングの大きな盾のような防御の隙間を容易に潜り抜ける。


中村は、かつて廃工場で学んだ「路上の距離感」で致命傷の直撃こそ躱したものの、ボクシングのリングという四角いキャンバスの中で、ルールをハナから無視してクリンチから殴りつけてくる188cmの怪物の暴挙に、流石に激しい怒りの焔を燃え上がらせた。


中村は、バンテージの巻かれた自らの拳を固く握りしめ、リング上でルーカスの胸元を強烈に押し返すと、3年生の絶対的なエースとしての威厳のまま、低い声で鋭く言い放ったという。


「……おい、転校生。お前が格闘家として非凡な実力を持ってるってことだけは、今の数発を見て嫌ってほどよく分かったよ。たしかにお前なら世界ランカーだって目指せるかもしれねぇ。だがな、ここは俺たちが命がけでインターハイの頂点を目指す、神聖なボクシング部のリングだ。テメェがそのルールを一切守るつもりがないってんなら、二度とこのリングに上がるんじゃねえ!」


その中村の、気迫に満ちた言葉の重みに、ルーカスは一瞬だけ碧眼の瞳をパチリと瞬かせ、それ以上の追撃を止めてリングを降りた。


だが、ルーカスの暴走はそれだけでは終わらなかった。


彼はそのまま、コンクリートの隣にあるレスリング部のマットへと向かったのだ。


ポイントを奪い合うクリーンなアマチュアレスリングのマットの上で、彼は「相手を物理的に戦闘不能に追い込むこと」だけを唯一の信条とした。


自慢の高速ボクシングの打撃を起点として相手の意識のガードを上段へと散らし、相手の重心の防御が崩れたその一瞬の刹那、強引に低空タックルで足元の骨格の軸を刈り取ってから、逃げ場のない冷たい地面へと強烈に叩きつけ、そのまま上から巨体でマウントを取って呼吸を完全に止める。


通常のアマチュアレスリングにおいて、打撃の突き蹴りは厳禁の最も重い反則だが、ルーカスのパンクラチオンにおいてはすべての打撃が、最強の組みタックルへと移行するためのシームレスな伏線に過ぎなかった。


マットの上で、打撃からの強烈なマウントパンチの風圧を寸前で浴びせられた、3年生のレスリング部主将・高橋。


高橋はあのスタンガンの男をバックドロップで沈めたほどの圧倒的な鋼のインナーマッスルを誇るが、レスリングのルールを完全に無視して上から殴りかかってくるルーカスのその型破りな戦闘スタイルに、ユニフォームを激しく正して立ち上がった。


高橋は、マットの上に強固に仁王立ちになり、ルーカスの大きな胸元を真っ正面から見据えて、地鳴りのような低い威圧の声で宣告した。


「お前、ボクシング部でも随分と暴れてきたらしいな。俺も中村も、昨年、本当の実戦の怖さを味わったから、お前の求める強さからすれば、バカバカしく感じる気持ちも分かる。だがな、俺たちはルールの中で切磋琢磨する中で、そうしなければ決して辿り着けない境地まで至ることができる。この競技格闘の素晴らしさが分からねぇって言うなら、俺たちの練習の邪魔でしかねぇ。二度と来るんじゃねぇ!」


3年生の二人の主将たちから、全く同じ「武人としての毅然とした拒絶」を叩きつけられたルーカスは、さすがにそれ以上の道場破りのような行為を止め、大人しく引き下がるしかなかった。


彼ら各部の主将たちは、かつてあの最悪の夜にリアルな実戦の洗礼を受け、ルール無しの恐怖をその肌で知っているからこそ、あえてルールのある競技スポーツの世界で頂点を目指し、その中で自らの技術を極限まで尖らせようという、揺るぎない覚悟と看板を背負っていた。


それを1ミリもリスペクトしないルーカスの傲慢な暴力を、彼らは部の規律として、そして一人の3年生の格闘家としてのプライドとして、真っ向から厳格に叩き潰したのである。


「ルールという不自然な鎖を解き放てば、ボクシングの打撃とレスリングの組技は、最初から一つの美しい円運動になる。それこそが、私の目指すパンクラチオンの理合りあいだよ」


ルーカスは空手道場のサンドバッグの前に立つと、しなやかな踏み込みのステップから、鋭い素手のワンツーパンチを打ち込むと同時に、その放った左手でバッグの革をガシッと力強く「掴み」、自らの懐へと強引に引き寄せながら、強靭な大腿部の質量を乗せた右の膝蹴りを、ドガァッ! と爆音を立ててバッグの中央へと叩き込んでみせた。


「今はまだ、ミーの中でもパンチ以外の打撃と、組技の連動が100%完璧ではない。だからミーは、この誠修館を卒業したら、すぐにタイへと渡り、立ち技最強と名高いムエタイの破壊的な打撃技法をすべて学ぶつもりだ。それが加われば、ミーのパンクラチオンは、本当の意味で完全なる完成を見る」


何やら格闘家としてものすごくカッコいい未来のビジョンを語っているが、見方を変えれば、自分の無茶な戦い方のせいで他すべての練習場所を奪われ、放課後にやることがなくなって空手部の道場へと邪魔をしにきているだけという、おバカな側面もあった。


3年生の志馬は、ルーカスの1ミリの迷いもないその碧眼の横顔を、特等席からじっと静かに見つめていた。


「……ポイントを奪う競技じゃない、相手を確実に壊すための技術か。ルーカス、お前も……『そっち側』の住人なんだな」


「Oh、シバ。ミーはただ、古代のオリンピアの戦士たちが見ていた、あの本物の戦闘の景色を取り戻したいだけだよ。君だって……そんな小さなルールの中に大人しく収まるような器の人間ではないんじゃないのかい?」


ルーカスの屈託のない純粋な言葉が、志馬の胸の奥深くで疼いていた「記憶の棘」を、容赦なく逆なでする。


志馬の脳裏に、再びあの失踪した兄・如月龍鷹の大きな背中がよぎった。


自分はルールのある試合に喜んで逃げようとしているのではないか。


その自問自答の問いが、志馬をますます、深い沈黙の淵へと追いやっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。