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第48話:武道の形骸化を憂う少女二人

1997年、初夏。誠修館高校の旧武道棟にある空手道場は、傾きかけた西日が窓ガラスを真っ赤に染め上げ、部員たちが流す汗の湿気と熱気で不気味なほどに蒸し返っていた。


「……っ」


ガシィン! と重厚な革の音を響かせ、天井から吊るされたサンドバッグを叩いていた志馬しばの手が、ふと止まる。


ブレザーを脱ぎ捨て、スラッシュメタルの帝王・SLAYERスレイヤーの名盤「Reign In Blood」の黒Tシャツの上からでも容易に伝わる彼の引き締まった右の拳が、微かに、しかし確実に震えていた。


それは、単なる肉体的な疲労によるものではなかった。


あの冬の廃工場での富田英次との死闘――白い煙幕の中で『引導』が暴走しかけた瞬間の、あの肉体の感触がまだ指先に残っている。


(あの時……俺が見たのは……)


白黒のノイズのような記憶が、脳裏に走る。

返り血を浴びて立ち尽くす幼い自分。

そして、その隣に静かに立つ“影”。


あの影は、志馬と同じ――いや、それ以上に鋭い「天魔」の型を描いていた。


志馬は拳を握りしめたまま、わずかに震える指先を隠すようにポケットへ押し込んだ。


その様子を見ていた僕――水島奨は、ノートから顔を上げる。

「志馬、顔色が悪いぞ。昨日、またメタル聴きすぎで寝不足か?」


志馬は垂れ目をさらに下げ、力の抜けた苦笑いを浮かべた。


志馬がここ最近、この1997年の春に北欧フィンランドからリリースされたばかりの、メロディックパワーメタルの至高の名盤、ストラトヴァリウスの新作『Visions』を部屋のスピーカーで狂ったように聴き込んでいるのは確かだったが、今の震えの原因がそれではないことくらい、僕の分析眼には一目瞭然だった。


「……いや。ちょっとワサビ漬けの夢を見て、夜中にうなされただけだよ」


「お前の苦手なもの、夢のなかにまで出るのかよ」


冗談を言い合いながらも、僕は見逃さなかった。


彼が僕の視線から隠すようにポケットの奥へと強引に握りしめた、左手首の震えが、いつまでも、なかなか収まらないのを。


その時、道場の奥から道着が風を切る音が響く。


………………………………………………


一方、放課後の空手道場では、1年生の平坂(レン)が、3年生の大川輝澄の正式な妹分になってからというもの、部活の合間を縫って、二人が純白の道着を激しくはためかせながら、実戦的な乱捕り稽古(スパーリング)に励む光景がすっかり日常となっていた。


初日の突発的な手合わせでは、正林寺拳法特有の『柔法』の罠である袖巻返しを鮮やかに決め、レンが輝澄を寄せ付けない圧倒的な実力を見せたようにも思えた。


だが、放課後の乱捕り稽古の回数を重ねていくうちに、次第にレンの側に、若き拳士としての「構造的な弱点」が徐々に、しかし明確に浮き彫りになってきた。


それは、レン自身が最初の手合わせの後に、師匠である森田鉄之助・道院長の言葉を借りて語っていた「実戦経験の絶対的な不足」だった。


初日の手合わせは、あるいは3年生の新主将である輝澄が、可愛い新入生のレンに対して胸を貸す形で、あえて彼女の構えのあからさまな「誘い(隙)」に真っ正面から乗ってあげていた側面が極めて強く、何より輝澄は相手が正林寺拳法という日本独自の武道であることすら、その術理をハナから1ミリも知らなかったのだ。


だが、ひとたびあの廃工場の夜を生き抜いた「路上実戦の心構え」のスイッチを入れれば、輝澄は一字構えの誘いの罠に対して極めて慎重に、ミリ単位で運足をコントロールし、その裏をかくサバきの手順を冷徹に模索し始める。


「――っ!」


バサバサッ! としっかりとした綿の空手着が激しく風を切り、輝澄の放つ鋭いフェイントを幾重にも交えつつ間合いを盗んだ刹那、松濤館流特有の、遠い間合いから一気に踏み込む直線的な連撃が、レンのガードへと襲いかかった。


突きや蹴りなどの「剛法」と、掴まれた手を外して投げる「柔法」の攻守の役割があらかじめ精密にパッケージ化された約束組手(攻守交代の練習体系)を中心に修行してきた正林寺拳法の使い手にとって、ルールという安全装置を外した予想外のタイミングで距離を限界まで詰められ、自らの反撃のカウンターをも恐れぬ圧倒的な初速の突撃を仕掛けられると、自慢の「技の応酬」の展開に持ち込むことすら容易ではない。


いくらかの打撃の攻防の後、輝澄の鋭い左回し蹴りを、十字受けで捌き同じく左の回し蹴りで蹴り返すレン。それに対して、輝澄は蹴り足をそのまま落として踏み込むことで蹴りの威力を殺し、輝澄の上段突きが放たれた。


突きは寸止めでレンの眼前で静止した。

勝負ありだった。


レンは厳しい拳士としての表情を崩さぬまま、開き下がって距離を取り、合掌礼をするのが稽古終了の合図だ。


レンは合掌礼を解くと、すぐに満面の笑顔となり口を開いた。


「輝澄先輩さすがです!私の剛法も捌かれちゃうし、得意の柔法もなかなか綺麗にかけられないですぅ……」


剛法の形がどれほど美しく洗練されていようとも、百戦錬磨の武道家の肉体を一撃でノックアウトするだけの絶対的な体重移動の質量インパクトを乗せるのは難しく、また柔法の関節投げも、死に物狂いで打撃を放ちながら抵抗してくる本物の相手に対しては、教科書の理論通りに技が極まらないことも多々ある。


もちろん、正林寺拳法の膨大な体系の中には、このように相手に泥臭く抵抗されたらこう返す、といった裏の対応技(変化技)も数多く存在するが、それを淀みなく路上の実戦で体現できる本物の拳士は、開祖・宋道心の直弟子時代から孫、ひ孫弟子へと世代のバトンを重ねるごとに、非常に希少な存在となりつつあった。


「でもね、それは私たち空手も全く同じかも」


首筋の汗をタオルで拭いながら、輝澄がレンのその危うい言葉に深々と深く頷いた。


「綺麗な型ができる人は星の数ほどいるけれど、それを本物の実戦の死線で100%活用できる人は本当に少ないわ。


競技としてのスポーツ性を高めすぎて、ポイントを奪うだけのルールに縛られると、空手の本来の突き技が、フットワークを使ったキックボクシングやテコンドーのような、ただの速いだけの打撃の動きに寄っていってしまうし……」


武のさらなる高みを目指す者として、お互いに共通の深い悩みを分かち合う、3年生の輝澄と1年生のレン。


だからこそ、流派の垣根を超えて互いを限界まで磨き合える今の最高の環境に、輝澄を心から狂信的に慕うレンはもちろん、輝澄自身もまた、これまでにない深い武道家としての充足感を感じていた。


レンたちが今直面している課題は、戦後の現代武道が等しく抱えることになった、避けては通れない共通の宿命だった。


レンは息を整えながら、袖口を軽く握り直した。


「正林寺拳法は本来、剛柔一体の優れた実戦護身術です。でも、練習体系が「二人一組の約束組手」が多いので、暗黙のルールに縛られない実戦的な相手が圧力をかけてくると、なかなか対応が難しいです」


それは、レンの師である森田鉄之助道院長が危惧する「形骸化」の根本でもあった。


「そうだね。空手もね、競技になると“型”の本当の意味が抜け落ちていくの」


輝澄は汗を拭いながら、レンに向き直った。


「本来は、掴みや投げ、関節の固めや急所攻め……武器を持った相手の制圧も含めて全部“実戦の技”だったのに、試合の安全性のために封印されちゃった」


輝澄が今回、レンの持つ正林寺の柔法の術理との乱捕りを通じて、自らの空手をさらに「進化」させようと泥臭く他流稽古をしているのは、競技という洗練された伝統の殻を自ら破り、かつて琉球の先祖たちが命を懸けて磨いた『武術としての根源的な強さ』を、この1997年の現代に手探りで取り戻そうとする、孤独で、そして気高き試みだった。


道場の壁際に腰掛け、そんな二人の少女の汗まみれのひたむきなやり取りをじっと見つめていた3年生の志馬もまた、その格闘の熱量から静かに強い刺激を受けていた。


我が家に伝わる天魔理心流の、自らの『引導』のコントロール技術は、父との日々の站椿の修行の成果もあり、以前に比べれば確実に、進歩している。


(……だが、この先へ進むには、俺のあの路地裏の記憶の棘を、はっきりさせないとな)


幼い自分と、鼻をつく血の匂い、そして失踪した兄・如月龍鷹(りゅうよう)の消えない影。


志馬は、出張のたびに自分からその話題をはぐらかし続ける父・如月丈と、今度こそ一人の男として、真剣に真っ正面から向き合う決意を、その胸の奥で新しく固めていた。

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