第46話:柔法『袖巻返し』
だが。
それこそが、平坂恋の、いや、正林寺拳法という武道が真骨頂を発揮する関節・投げの領域――『柔法』への最悪の入り口に他ならなかった。
正林寺拳法では、突きや蹴りなどの打撃を「剛法」、掴まれた手を外して投げる関節技や締め技を「柔法」として、明確に、かつ緻密に体系立てて修行している。
レンは、輝澄に右袖を掴まれた瞬間、骨盤をひねって体重を乗せた。
その回転力を腕へと伝え、下から巻き上げるようにして手首を絡め取る。
「マジかよ、嘘だろ!?」
観戦していた3年生の志馬が驚愕の声を上げて立ち上がる。
あの廃工場の激戦を経て、目覚ましい実戦的成長を遂げていたはずの輝澄の身体が、まるで風に舞う一枚の木の葉のように中空で綺麗に円を描いて舞い、板の間の上へと強烈に叩きつけられた。
輝澄の身体が円を描いて床へ叩きつけられる。
それは、正林寺拳法の関節捕縛投げ――『袖巻返し』。
掴んできた腕を逆に極め、そのまま投げ落とす柔法の代表技だ。
だが、数々の出稽古での打って打たれる死線をくぐり抜けてきた輝澄も、ただでは転ばなかった。
鮮やかな受け身を板の上で取ると同時に、レンが投げの勢いのまま床の上での『固め技』へと移行しようとした、そのコンマ数秒の一瞬の隙の残響を絶対に見逃さなかった。
輝澄は右手を突き出し、中指の第二関節だけを鋭く立てた。
伝統派空手の秘拳――中指一本拳。
その一点が、レンの親指の付け根の急所・合谷を正確に撃ち抜いた。
「あぅっ……!? 手のひらが、痺れ……っ!」
合谷の急所を具体的に突かれた凄絶な激痛と神経の麻痺により、レンの指先から一瞬にしてすべての腕力が完全に抜け落ちる。
そのわずかな解放の隙に、輝澄は床の上を転がるような素早い身のこなしで間合いを大きく離すと、再び美しい直線運動の戦闘態勢へと素早く立ち上がった。
これは、輝澄にとってはこれ以上ない紙一重の幸運だった。
彼女の野性的な格闘の勘が、レンの袖巻返しが完璧に100%極まりきる直前のタイミングで、自らその投げの軌道に合わせて跳んで受け身をとっていた。
そのわずかなコンマ数秒の軸のズレが、レンの側にも「投げきった」という感覚のズレを生じさせ、投げ技の後の床での最終固め技の始動が一瞬だけ遅れてしまったが故に、この中指一本拳による劇的な脱出が可能となった。
もし、最初から100%完璧なタイミングと角度で袖巻返しが極まっていたならば、輝澄の右手首の骨構造は常に床の上で完全にロックされ続け、急所を突くその反撃の自由さえ、ハナから一切許されなかっただろう。
激しい攻防の余韻が、ようやく道場から消えていく。
レンはぱっと表情を明るくし、輝澄へ駆け寄った。
「大川先輩……あ、いや、輝澄先輩! 投げられた瞬間に合谷を突くなんて、さすがですー!」
さっきまでの道場を支配していたピリついた緊迫感がまるで嘘だったかのように、恋はパッと愛らしい笑顔に戻って声を弾ませた 。
「いいえ、私の方こそ本当に驚いたよ、レンちゃん……! 今の、空手の受けとも柔道の組みとも違う不思議なサバきの武道、一体何なの?」
「はい! 『正林寺拳法』です!」
レンは道着の袖を正しながら、15歳らしい真っ直ぐな瞳で誇らしげに語った 。
「「よく『中国の少林寺のアレ?』って聞かれるんですけど、実は戦後に香川県で日本人の開祖・宋道心が創始した、完全な日本発祥の武道なんです。
技術としては、空手のような『突き・蹴り』と、合気道や柔道のような『関節技・投げ技』の両方が合わさったような合理的な護身術です。腕力任せじゃなくて、テコの原理や急所を使うので、体力に自信がない人や子ども、女性でも無理なく学べます。
一番の特徴は、『誰かを叩きのめすための強さ』ではなく『自分を守り、人を助けるための強さ』を目指している点ですね」
「でも、私の通う道院の森田鉄之助先生が、いつも稽古の時に苦言を呈しているんです。
『我が正林寺拳法は優れた護身の技術だし、二人一組の組手主体という思想も素晴らしい。しかし、ルールのある実際の乱取り稽古を怠って、お決まりの型の演武だけで満足している甘い拳士があまりにも多すぎる』って。
この学校には正林寺拳法部がないので……、輝澄先輩、これからも放課後、私と空手道場でたくさん実戦的な自由乱取り稽古に付き合ってもらっていいですか?」
輝澄は、いま空手部の新主将という立場にありながら、誠修館の綺麗な道場でのこれまでの空手の単調な練習メニューだけでは、あの廃工場の夜の先にある実戦へ、自分の空手を進化させるのには超えられない限界があると感じていた 。
若かりし頃の金山先生のように、看板のルールに縛られず、いろいろな他流派の武道を体験して術理を吸収してみるのも、自分の空手にとって絶対に悪くないはずだ 。
「もちろんだよ、レンちゃん! こちらこそ、その柔法のサバき、私の空手にもぜひ勉強させてね!」
「きゃぁぁ、うれしー! 輝澄先輩大好きですー!」
そう言って、喜びのあまり体験入部の道着姿のまま輝澄の細い腕に思いっきり抱きつく1年生の恋 。
レンが勢いよく抱きつく。
輝澄は、その圧倒的な“存在感”に思わず言葉を失った。
同じ女子とは思えない迫力だった。
「それと、大川先輩……、これからも、親しみを込めて『輝澄先輩』ってお呼びしてもいいですか?」
「う、うん……全然、輝澄先輩でいいよ……」
輝澄は、世の中の思春期の男子高校生たちが、なぜこれほどまでに胸の大きな女の子に対して理性を失って夢中になるのか、その男の子の気持ちが人生で初めて少しだけ分かったような不思議な気分になった。
そして、自らのそこそこの胸元と、レンのしっかりとした綿の道着を弾き飛ばしそうなそれとを少しだけ悲しく見比べ、新しくできた健気な妹分の小さな肩を、道着越しに優しく抱きしめるのだった 。
3年生の志馬は、道場で仲良く道着の襟を正し合っている二人の少女のシルエットを特等席で眺めながら、どこか遠い目をしてポツリと低い声で呟いた 。
「……ルーカスにレンちゃん。誠修館、今年も化け物揃いだな……」
3年生編の新キャラ第2弾。
新入生として入ってきたロリ巨乳キャラの平坂恋ちゃんです。
彼女が用いる正林寺拳法については、フィクションであるということで、一応漢字を変えてありますが、そのモデルは、もちろん少林寺拳法です。技術体系も教えも、ほとんどそのままです。
作中でも言及していますが、よく誤解されることなので、ここでも書いておきます。少林寺拳法は日本人が作った日本発祥の武道であって、中国の少林拳や少林功夫とはまったくの別物です。
そして、彼女は、原作にはいない完全な新キャラです。
というのも、原作を書いた後に、私自身が少林寺拳法を学んだこともあり、原作執筆時の私は少林寺拳法についての知識はあまりありませんでした。
リバイバル版として再構成する中で、最初は最も詳しく書ける少林寺拳法の使い手を主人公にしようかとも迷ったりもしましたが、それはそれでストーリーの根幹にもかかわることなので止めました。その上で、少林寺拳法のキャラを登場させたいという思いはあり、彼女が誕生しました。
これまでの女性キャラと被らないキャラとして妹的なロリキャラがいいと思い設定構築しましたが、彼女も輝澄を巡って真一と絡むようになり、書いているうちに、どんどん魅力的なキャラとして勝手に成長していっている感じがします。
コンセプトアートには、道着に正林寺拳法の双円のマークがありますが、このマークは2005年からのものなので、この時代であれば本当は卍マークでした。卍がナチスの鉤十字に似ているということから、世界的な普及も考えて、双円になったという経緯があります。
https://kakuyomu.jp/my/news/2912051606247072554




