第45話:正林寺拳法 vs 松濤館空手
放課後の誠修館高校、空手道場 。
「よろしくお願いしまーす!」
という平坂恋の快活な発声の声とは裏腹に、放課後の道場には、糸が張り詰めたような静かな緊張感が漂っていた。
先ほどのはち切れんばかりの白いブラウスの制服姿から、黒い卍のマークの刺繍が左胸に綺麗に縫い付けられた正林寺拳法の道着へと着替えているが、その溢れ出る彼女の身体的な存在感は隠しきれていなかった。
(輝澄はまだ、その卍の刺繍が、正林寺拳法の正統なる証であることを知らなかった)
道場の隅でいつものコロッケパンを脱力顔で齧る3年生の志馬と、格闘ログのノートを広げる僕の目の前で、白い空手着を纏った輝澄と、サイドポニーを揺らすレンが、板間の上で静かに対峙した。
レンはまず、合掌礼の美しい所作から、足を大きく開き下がって基本の左前の「中段構え」を形成。
そこからさらに身体を半身に鋭く開き、前手を漢数字の一のように水平に構えて、今度は右前の防御主体の構え――『一字構え』へと、滑らかに移行してみせた。
「……ん?」
対峙する輝澄が、道着の奥でわずかに美眉をひそめた。
レンの一字構えの右上段のガードの空間が、まるで素人のような、あからさまな「誘い」の隙としてガラ空きになっていたからだ。
さらにレンは、右手を顔の横へとゆったり滑らせ、左手を腰前に据えて、今度は左上段を大きく開けてみせる。
「なるほど……変わった術理の構えだと思ったら、あれは意図的に自分の肉体に『隙(餌)』を作っているんだね。
相手がその隙に釣られてどこを攻めてくるかがあらかじめ100%分かっていれば、その突き線をサバいてカウンターの反撃(剛法)を合わせるのは極めて容易だからね」
僕は眼鏡を押し上げながら分析を口にする。
志馬はコロッケパンを飲み込み、垂れ目を細めた。
「自らを護るために、あえて相手に先に攻めさせる構えってわけか。あの見た目に反して、武術の性格がめちゃくちゃ冷静に出てるなぁ……」
輝澄は、その正林寺の一字構えの誘いの罠にあえて真っ正面から乗ることを選んだ。
松濤館流特有の、遠い間合いからの爆発的な直線運動の踏み込みとともに放たれた、一撃必倒の右上段ストレート突き。
瞬間、恋の右手が、下から跳ね上がるような鋭いパリングでその突き線を完璧にサバいた。
右手は突きを払った直後、衣服の摩擦音を残して鋭く軌道を反転させた。
まるで空中で燕が向きを変えるような素早さで、輝澄の頸動脈へ手刀が走る。
「――っ!」
しかし、川住尊との出稽古で実戦の勘を極限まで磨き上げていた輝澄は、間一髪で左手のガードを間に合わせると、伝統派の高速のバックステップの運足でその反撃の間合いから瞬時に離脱した。
直後にレンが追撃としてノーモーションで放ってきた、正林寺の鋭い「中段逆突き」の風圧を、身体をひねる紙一重でかわす。
「サバきからの突きの回転、速ぇな!」
それは少林寺から着想を得て日本で独自に進化した正林寺拳法における剛法の代表的なカウンター技――『燕返し』の術理だった。
志馬が驚きの声を上げるのを余所に、レンは今度は両手を大きく八の字に広げ、自らの腹部の中段の空間を完全に露わにしてみせる。
(あからさまな誘いなのは100%分かってる。……でも、私の踏み込みなら、その守備壁の上から正面突破できる……!)
輝澄は鋭い前蹴りのフェイントを一発入れ、レンの重心を揺らした。
その瞬間、一気に懐へ踏み込み、渾身の上段突きを放つ。
フェイントに一瞬の反応を見せたレンだったが、そもそも八の字に開いたその両手は、顔面への突撃をいつでも叩き落とせる最強の防御壁として機能しており、輝澄のストレートはクリーンヒットしない。
レンが常に自身の得意とする「一拳一足の間合い」を精密にキープし続けている。
踏み込みをしない限りは絶対に攻撃が当たらず、前足でも後ろ足でも、半歩踏み込めば攻撃の当たる間合い。正林寺拳法の攻防は、まずその間合いの見極めから始まる。
武道や武術はそもそも相手が素手であることを想定していない。つまり一撃でも攻撃を貰うことは死を意味する。なので、拳一つ分の距離を盗むことが生死を分けるほど、間合いの管理はシビアなものである。
輝澄がどうしても大きく踏み込んでからの直線攻撃しか選択できないという物理的制約が、レンの空間反応を完全に可能にしていた。
「このままの単発の打撃の応酬じゃあ、いつまで経っても平行線で終わらないわね……!」
膠着状態の展開を嫌った輝澄が、ここから空手着をはためかせて大きく動いた 。
打撃のサバきが通じないならと、鋭い踏み込みからレンの道着の右袖をその強靭な指先でガッチリと掴み取り、強引に彼女の高速の機動力を止めにかかった。




