第39話:武術家としての覚悟
一方、その頃。
床一面に工業用ジェルが撒かれた、不気味な円形の部屋。
ブラジリアン柔術家マルコ・デ・ソウザは、完全にマウントポジションで組み伏せた輝澄の自由を奪い、いたぶる自分自身に完全に酔いしれていた。
富田からは「誠修館のメンバーを動揺させるため、トドメを刺すことは極力遅らせて弄べ」と卑劣な指示を事前に受けていたが、辱める分にはいくらやっても構わない。
そう確信したマルコは、さらにこの高潔な女子高生のプライドをズタボロに引き裂くため、そして自分の欲を満たすため、輝澄の着用する空手着のズボンの紐へと、下劣な劣情とともにその手を伸ばした。
だが、それこそが、南米から来た寝技師が犯した、最初で最後の致命的な「油断」に他ならなかった。
マルコがズボンに手を伸ばすために上半身の強固なクラッチの体重移動を一瞬だけ緩めた、そのコンマ数秒の刹那。
輝澄の両腕のホールドが、物理的に完全に自由になった。
彼女の白くしなやかな右の指先が、迷わず自らの「黒帯の結び目の裏側」へと滑り込んだ。
しっかりとした芯のある空手着の帯の重なりの隙間――そこには、出発前に生徒会室で奨から「輝澄、もし万が一、寝技とかで身動きを封じられたら……躊躇わずにこれを使って」と、密かに手渡されていた「ある物」が、誰にも気づかれずに完璧に隠匿されていた。
――古流暗器――『角手』――。
指輪の内側に2本の鋭い金属の鉄棘が強固に植えられた、日本の古流武術に伝わる最小の部類に入る暗殺用打突具だ。奨が真一から何か暗器を持っていないか聞き、輝澄のためだと言って借り受けた逸品だった。
空手とは、唐手(中国から伝わった拳術という意味合いを持つ)の文字が変化しただけでなく、手に何も持たないことを意味するという説もある。そういう意味であれば空手家の輝澄にとって、本来なら拒絶すべき「卑怯な凶器」だ。
だが、出稽古を重ねて路上の現実を知り、今まさに蹂躙されようとしている極限の死線において、彼女の武道家としての甘さは完全に削ぎ落とされ、生き残るための「本物の武術家」の目が冷徹に目覚めていた。
マルコは彼女をただの「無力な女の子」と侮り、武術家としての牙を完全に舐めきっていた。
その致命的な驕りの隙を、輝澄は見逃さない。
わずか数センチの、密着状態の超至近距離の極小空間。
指に角手をハメ直した輝澄の右拳が、信じられない速度でマルコの肉体へと突き出された。
「……なめるなーーっ!!」
輝澄は、角手をはめた右拳の面を、自らの上にのしかかるマルコの脇腹の最も無防備な急所――肋骨の隙間の前鋸筋へと、渾身の力で深く、正確に突き立てた。
グサァッ!! と肉の破れる嫌な音が響く。
「ぎゃあァあァっッ!!???」
鉄棘が内臓の手前まで深く突き刺さり、全身の神経細胞を焼き焦がすような凄絶な激痛に、マルコが誇っていた完璧なマウントポジションのクラッチの軸が一瞬にして粉々に崩れ去った。
輝澄はその隙にエビの要領で下半身の腰を鋭く引き抜くと、床のジェルの上で反転し、間髪入れずに角手を付けた状態での強烈な掌打の面を、今度はマルコの顔面の鼻骨へと正面から完璧に打ち込んだ。
「...がはっ……!」
すでにマルコは急所への二連撃の激痛で戦意を完全に喪失し、鼻血を流して床に傷だらけで這いつくばっていたが、地べたに組み伏せられて人生初の屈辱と羞恥を味わわされた輝澄の、武道家としての烈火の如き怒りは、これだけでは到底収まらなかった。
「空手の本当の一撃を、その骨に刻みなさい!」
地べたを手で懸命に揚げるような屈辱の檻から完全に解き放たれ、勢いよく立ち上がった輝澄の、黒帯で固く絞られた細いウエストの軸が爆発的に旋回した。
彼女の強靭なしなやかな右足が、床の工業用ジェルの滑りを逆に『滑らかなゼロ高度の摩擦の運足』へと完璧に利用し、腰の引き手を極限まで引き絞って放たれた、一撃必倒の上段蹴り――『三日月蹴り』の弾道が、マルコの顎の先端を完璧な速度で爆砕した。
三日月蹴りとは、前蹴りと回し蹴りの中間のような斜め下からの軌道で、相手の顔面や頭部を弧を描くように足の親指の付け根部分である虎趾(中足)で突くように蹴る奇襲性の高い足技である。
バキィン!!!
顎の骨を粉砕され、脳脊髄液を強烈に揺らされたマルコの身体は、今度こそ完全にコンクリートのジェルの海の上へと意識を失って崩れ落ちた。




