第38話:天魔の氷刃
「……あああァァァ!!」
志馬の瞳に、不吉なまでの紅い光が灯る。
脳内麻薬が全身を駆け巡り、痛覚を完全に遮断し、筋肉のリミッターを強制解除する『引導』の完全暴走状態。
しかし、かつてのあの我を忘れて周囲を無差別に破壊し尽くした暴走とは、何かが決定的に違っていた。
白い煙の中で、志馬は激しい怒りに呑まれそうになりながらも、父とのあの站椿の記憶を脳髄に呼び起こし、かろうじて『引導』の出力を肉体のコントロール下へと繋ぎ止めようとした。
(ここで完全に我を失えば、俺はまた、あの日と同じ化け物になっちまう……!)
怒りの熱量を、周囲を破壊する「炎」ではなく、ただ一点を精密に貫く冷徹な「氷の刃」へと変えていく。
しかし、輝澄を辱められたことに対する怒りの絶対量が大きすぎた。
志馬の制御システム(理)を遥かに超越した天魔の力が、強制的に神経と筋肉の生存リミッターを焼き切り、彼の内臓と血管の骨格へ、ミシミシと激しくきしむような自壊の「代償」の負荷をリアルに与え始めていた。
「……はぁ、はぁ…」
志馬は視覚を完全に遮断したまま、トタンの微小な震動音と、富田のガスマスクが発するかすかな空気の震えだけで、その正確な位置を特定しようと全神経を研ぎ澄ます。
だが、富田英次の仕掛けた罠の真の恐ろしさは、煙だけではなかった。
彼が手にする軍用ボウガンは、時速300キロを超える鉄矢の圧倒的な初速と貫通力もさることながら、戦場における最強の暗殺兵器たる、恐るべき『完全なる静音性』を備えていたのだ。
もしここで富田が「拳銃」などの火器を使用していれば、狭い密室空間での凄まじい銃声の爆音とマズルフラッシュが激しい空気の波紋(震動波)となって周囲を揺らし、視覚を奪われた志馬であっても、その音の指向性だけで富田の位置を即座に割り出すことができたはずだった。
しかし、軍用ボウガンが鉄矢を撃ち出す音は、フッ、という信じられないほどに微小な弦の風切り音に過ぎない。
火花も出ず、煙も立たず、位置情報を知らせる音の波紋すら1ミリも空間に発生させない、無音の暗殺の檻。
煙幕で視界を奪われ、聴覚による索敵すら静音性によって完全にハメ殺された極限状態の中、富田はガスマスクのモニター越しに、志馬の動けない肉体を安全圏から一方的にあざ笑っていたのだ。
(煙の中で死ねえっ!)
富田が軍用ボウガンの引き金を無慈悲に引いた。
放たれる、空気を切り裂く高速の鉄矢。
鉄矢の先端が空気を急激に圧縮することで、白い煙の中に一瞬だけ「煙の薄い超高速の真空の穴(弾道軌道)」と、その周囲に「急激な空気密度の高まり(圧縮波)」が発生する。
矢は志馬の体を深く掠め、肉を抉りつつ確かに傷つけたが、志馬の皮膚細胞は、この煙の粒子が動いたわずかな「流動の残響」を瞬時に感知し、脳内で鉄矢の弾道を鮮烈な「光の線」として反転・立体化させていた。
次の瞬間、志馬の踏み込みが爆発した。それは初速のモーションや力みを完全に排した、脱力状態からの神速の弾動。
「天魔理心流――『疾風』!!」
白い煙を物理的に切り裂き、ダイナミックな渦として周囲の白煙を巻き込みながら、志馬の脱力した左掌底が、富田の胸部中央へと垂直に衝突した。
富田が着用していた強固な防刃ベストのケブラー繊維に対し、志馬は足裏の反発力から骨盤の回転を完全に同調させ、纏糸勁(螺旋の回転)を乗せた衝撃波を叩き込む。打撃のエネルギーは表面の装甲を完全に透過し、解剖学的な胸骨から肺胞へとダイレクトに浸透した。
ドォォォン!!!
道場と廃工場のコンクリート床を激震させる掌底の重低音が、静寂の檻を爆破するように鳴り響く。
ガスマスクの排気弁から「が、はっ……あ、あがぁ……っ!」と、残っていたすべての空気が強制的に噴出された。衝撃波に内臓を激しく揺らされた富田は、数メートル後方の頑強なコンクリート壁まで一直線に吹き飛び、壁に背中を打ち付ける。
志馬の胸の奥の怒りの焔は、この程度の打撃では絶対に収まらなかった。
「引導を……渡す!」
死の宣告をした志馬は、富田英次にゆっくりと近づく。
懐のクナイを取り出し、志馬へと突き立てようとする富田だが、手首を受け流すと同時に放たれた掌底打ちは、ガスマスクに強い衝撃を与え、ガスマスクごと富田の脳が揺さぶられる。その隙にガスマスクを引きはがし、富田の顔面を剥き出しにする志馬。
見ると、富田は壁際で完全に戦意を喪失しているようだったが、志馬は富田の胸ぐらを強引に掴み上げると、自らの肉体を壊さない掌打の連撃、そして鋭い肘打ちの衝撃波を、骨の軋む音とともに執拗なまでに何度も何度もその顔面へと叩き込んでいった。
富田の顔面は、一瞬にして自分の流した真っ赤な血でまみれていく。
その時、志馬の口からも、過負荷による一筋の鮮血がタラリと溢れ落ちた。
リミッターを超えて力をぶっ放した代償……極度の興奮状態に体がついていかなくなってきていた。
だが、血を吐きながら、死神のような昏い紅い眼光のまま、富田の鼻先に血まみれの掌を突きつけた志馬の放つ気迫は、正真正銘、目の前の人間を今すぐ完全に殺してもおかしくない本物の狂気―—天魔そのものだった。
「……もし、今度また俺の大切な仲間や学園を傷つけるようなことがあれば……その時は法律なんて関係ねえ。この俺の拳でお前を、確実にこの世から消し去る! 分かったか!」
歴史の影で織田信長を屠ったとされる如月宗次郎の狂気の再来。
富田英次は、自らの誇りも、逆恨みの執念も、その圧倒的な死の恐怖の前に完全に粉々にへし折られ、二度とこの怪物たちへこれ以上の復讐を企てることを心の底から諦め、ただ涙と血にまみれた首を何度も縦に激しく振って平伏するしかなかった。




