第37話:フラッシュバック
早乙女零緒と、元力士・金剛山の死闘は、完全に泥沼の膠着状態に陥っていた。
180キロという圧倒的な脂肪の質量と、全面の釘入りベスト。
零緒の柳生心眼流が誇る「振り」による打撃も、相手の肉厚な脂肪のクッションと卑劣なメタ罠に阻まれ、決定打を欠いていた。
「どうした『壊し屋』! その細い腕を、俺の突っぱりでバラバラに粉砕してやろうか!」
金剛山が巨体を揺らし、圧殺の破壊を乗せた相撲の突進を仕掛ける。
(釘入りベストもやっかいだが、力士ってのは、想像以上にやっかいだな)
相撲最強説―—格闘技界でまことしやかに語られる説がある。その根拠は以下の3点だ。
①規格外の体格と「動けるデブ」の圧倒的フィジカル
力士は平均体重150kgを超えながら、脂肪の下に緻密な筋肉を蓄えている。巨大な体躯でありながら股割りができる柔軟性と高い身体能力を併せ持ち、体重差がそのまま殺傷力に直結する格闘技において圧倒的アドバンテージを誇る。
②ファーストインパクト(立合い)の破壊力
相撲の立合いは「時速30kmで車がぶつかる衝撃」に例えられる。150kg以上の人間が全身全霊で突進してくる圧力と、顔面を打ち抜く「張り手」の一撃は、他競技の格闘家を一瞬で行動不能にする威力を持つとともに、それに耐える肉体を持っている。
③組みと崩しの技術(腰の重さ)
寝技の修練こそしていないが、そもそも倒されないことを極めた競技であり、相手を投げ・押し出す重心移動の技術(腰の強さ)が極めて発達してる。
掴む部分(衣服や廻し)の無い相手に、慣れないオープンフィンガーグローブで挑むことになるMMAなどでは、相手を捕らえられず、スタミナ切れにより苦戦を強いられるケースも多いが、こと実戦においてはゆっくりと距離を詰めるだけで、それは動く壁とも言える脅威であった。
零緒は冷徹な瞳のまま、その肉壁の突進の重心の起こりを見つめた。
(……叔父さん。柳生心眼流の中興の祖、星貞吉が、かつて天魔理心流に敗れて遺した『打倒天魔の執念』。……今こそ、この路上で使わせてもらうぜ)
零緒の身体が、柳生心眼流のこれまでの重厚な低重心の動きから一転、中空を舞う鳥のような軽やかさで宙へと高く舞い上がった。
天魔理心流――『飛龍爪脚』――!!
かつて先祖である星貞吉が如月家の先祖と血で血を洗う刃を交え、自らの肉体に刻み込まされた天魔の超人的な身体操作の数々。
それを打倒天魔の目的のために研究し尽くし、星家の一子相伝の裏の奥伝として遺した、柳生心眼流における禁忌の技。
空中で鋭い旋風脚の残響を放ち、金剛山の意識のガードを完全に上方へと逸らす。
そして、着地の刹那、零緒は180キロの全体重が乗った金剛山の左膝の皿へ向けて、真後ろからの鋭い後ろ蹴りを正確に叩き込んだ。
バキィィィン!!
「ぎゃあぁぁぁっ、俺の膝がァァッ!?」
スタミナ切れとともに、力士の弱点とされる下半身への攻撃。それにより、支えの軸を完全に失った180キロの巨躯が、轟音とともに廃工場の床へと崩れ落ちた。
………………………………………………
一方、如月志馬は、廃工場の最深部にいた。
そこは換気設備が完全に停止し、異様な静寂と闇が支配する巨大な密室空間だった。
奥に鎮座するスチール製の事務机には、各部屋のモニターを並べ、防毒マスクと最新の防刃ベストに身を固めた富田英次が、軍用のボウガンを構えて不敵に待ち構えていた。
その顔面を覆うのは90年代末のミリタリーマニアの間で凶悪なシルエットとして流行していた、旧ソ連軍製のミリタリー・ガスマスクだった。
横に無機質な円筒形のキャニスターが不気味に飛び出したその容貌は、まるで昆虫の頭部のような異形さを際立たせている。
「ようやく来たか、如月ィ……! お前だけは、この手でズタズタの肉塊にしてやると決めていたんだ!」
志馬が足裏を踏み込もうとした、まさにその瞬間、富田が手元のスイッチを凶悪に押し入れた。
その瞬間、床のあちこちに配置されていた、米軍放出品のM18発煙筒をベースに裏社会の密造屋が改造を施した「自家製高濃度・炭素発煙筒(煙玉)」の信管が一斉に電気点火された。
シュゥゥッ! という凄絶な噴射音とともに、微細な炭素粒子の塊を含んだ濃密な煙幕が一気に吹き出す。窓も換気口も閉ざされたコンクリートの檻は、わずか10秒足らずで視界ゼロの「白い闇」へと変貌した。
「う、ぐっ……、は、あぁッ……!?」
志馬の垂れ目の視界が瞬時に白く染まり、目と鼻、そして肺の粘膜を激しく刺激する。ただし、化学刺激による強制的な機能停止を伴う催涙ガスとは違い、志馬は『引導』による痛覚遮断とリミッター解除のエネルギーで、ある程度そのダメージを緩和することができていた。
「お前の神速の動きのデータは分かってる。あんな超人的なスピードで懐に飛び込まれちゃたまらねぇからなー。だが、この煙の中じゃあ呼吸もままならねえ。おまけに……これだ!」
富田は容赦なく軍用ボウガンの引き金を引いた。
鋭い鉄矢が志馬のブレザーの肩を深くかすめ、背後のコンクリートに激しい火花を散らす。
志馬は激しく血の混じった咳き込みをしながら、床に膝をついた。
「あはは! 愉快だぜ。見てみろよ、如月。お前の大事な空手女が、浅黒のブラジル男に組み伏せられて泣き叫んでるぜ。でもまあ安心しろ……すぐに気持ちよくさせてやるよ」
「言っただろ?あとで、お前の目の前でズタボロに犯すってよ!」
富田が指差すモニターの画面には、マルコに組み伏せられ、白の空手着も脱げかかって大粒の涙を浮かべる輝澄の無惨な姿が、白い靄の向こうに薄っすらと映し出されて見えた。
それを見た瞬間、志馬の脳の奥底に、これまで頑強に封印し続けていた「12歳の時のあの薄暗い路地裏の記憶」が、凄まじい白黒のノイズとなってフラッシュバックした。
あの時も……輝澄は変質者に絡まれて、今と同じように泣いていた。
俺は……輝澄を泣かせたあの汚い男を……理性を失って、本能のままに殴りつけた。
気がついたら、男は……ピクリとも動かなくなっていた。
俺が……俺のこの手。あの時、人間を一人、壊したのか……?
そうだ。でも、それでいい。
輝澄を傷つけ、輝澄を無惨に泣かせるような奴らは……全員……全員……俺のこの天魔の拳で、1人残さず殺してやるッ!!!
ドクンッ!!! と、彼の心臓の鼓動が生命の限界を超えて跳ね上がった。
修行による20%の『理』の制御システムが、怒りと宿命の圧倒的なガソリンによって完全に消し飛び、理性をすべて飲み込んでいく。




