第36話:死中求活の闘い
一方、ジェルの撒かれた円形の部屋では、輝澄がさらに絶望的な状況に置かれていた。
ブラジリアン柔術家マルコは、輝澄の両腕を自身の体とコンクリート床の間に完全に縫い付け、彼女の自由を奪っている。
「どうした、空手の天才? 打撃を打てなければ、君はただの着せ替え人形だね。道着の帯がほどけてきてるし、次はこの下にあるTシャツも脱がしちゃおうか?」
マルコはわざと、スピーカーのモニターを通じて、別棟の志馬や真一に聞こえるような下劣な大声で、いたぶりながら輝澄を辱めていく。
奨から渡された小さな暗器に手を伸ばそうにも、手首をガッチリと固められ、指先さえ届かない。
「……っ、やめて……!」
輝澄の潤んだ瞳から、ついに大粒の涙が溢れ出た。
その絶望の様子は、モニターのカメラを通じて別棟の真一にもダイレクトに伝わり、彼の武術家としての冷静さをさらに根こそぎ削り取っていく。
これこそが富田の最も卑劣な狙いだった。
輝澄を生贄としてあえてトドメを刺さずに弄ぶことで、誠修館のメンバーを精神的に内部から自壊させる作戦だったのだ。
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一方、工場別棟の狭いキャットウォーク。
本居真一は、目の前のモニターに映し出された「マルコにマウントポジションで組み伏せられ、涙を流して蹂躙される輝澄」の無残な姿に猛烈に激昂し、忍びとしての冷静さを完全に欠いていた。
「外道がぁぁぁッ!! 輝澄さんにその汚い手で触るなァー!」
激高して我を忘れた真一のわずかな隙を突いて、暗闇の物陰から、シュバッ、と一本の暗殺用の毒ボウガンが放たれた。
「ぐっ……、あ……」
右腕に走る、鋭い激痛。神がかり的な反射神経の賜物か、矢は掠めただけであった。
しかし、南米の先住民が狩猟用に用いてきた植物由来の神経毒で、呼吸筋を麻痺させるクラーレ系の劇薬麻痺毒が、瞬時に真一の細い神経系を侵食していく。
中野の道場で学んだ骨法の『摺り足』を支える強靭な脚力も、掌打を生み出す指先の精密な感覚も、急速に麻痺の波によって失われていった。
背後の闇から、特殊部隊崩れのプロの暗殺者――蛭田が真一の動けなくなる無様な姿をせせら笑った。
「あぁ……クソ、体が、言うことを聞かない……」
その場にガクリと膝をつく真一。
呼吸が浅くなり、視界が揺れた。
その奥で、溝辺師範の怒声が蘇る。
『真一よ。骨法という武術は、恵まれた強者のためのスポーツではない。弱き者が路上で死中に活を求め、指一本、呼吸一つで形勢を逆転させるための骨の理合だ!』
蛭田がトドメのナイフを頭上に振り上げた、まさにその瞬間、真一の指先が、麻痺の毒に激しく抗ってわずかに跳ねた。
さすがの蛭田も、この日本で堂々と殺人を犯すつもりはない。クラーレ毒は暗殺に使う際の何倍にも薄めてはある。
そうでなければ、体が麻痺するだけではなく呼吸が停止して死亡するからだ。そして、矢が刺さらずに掠めただけだったのも幸いし、真一の体が完全に麻痺してしまうまで、蛭田の想定以上の時間がかかってしまっていた。
漫画などでは「あらゆる毒が効かない体質」という設定があったりするが、現実的には特定のヘビ毒には耐性をつけたとしても、それはそのヘビのタンパク質に対する抗体ができたで、他の毒には効果がない。
特に、このクラーレなどの神経・筋肉をブロックする毒や、青酸カリなどの細胞の呼吸を止める毒は、人間側の細胞が慣れるという進化を遂げることは不可能とされている。
真一は、足元に転がっていた、名もなき一個の錆びた鉄ボルトを、朧月流忍術特有の「手首から指関節の強烈な弾き」のエネルギーだけで音速の弾丸へと変え、蛭田の眼球めがけて放った。
「ぎゃあぁぁぁッ、目が、俺の目がァッ!?」
優位性に頼り切っていた暗殺者が、視界を完全に失って狼狽える。
そのコンマ数秒の隙を、真一は絶対に見逃さなかった。
真一は、感覚の消えかかった右腕をコンクリート壁へ叩きつけた。
骨を揺さぶる激痛が、中枢神経を強制的に覚醒させる。
もしくは、少なくとも真一はそのように感じていた。
(――動け、俺のカラダ!)
「骨法――『摺り蹴り』ッ!!」
床を滑空するような摺り足から放たれた蹴りが、蛭田の膝を逆方向へ撃ち抜いた。
「……がはっ……!?」
膝を逆に折られ、激痛で前傾に崩れた蛭田に対し、真一の猛撃は止まらない。
感覚の戻りきらぬ両の掌を硬化させ、骨法の容赦ない掌打の連撃を蛭田の顎、こめかみ、鼻骨へと叩き込んでいく。
さらに、下から掬い上げるようにして股ぐらを強烈に打ち抜く、金的破壊攻撃を容赦なく一閃した。
「が……ぁ……っ」
あまりの激痛に声も出せず、完全に戦闘機能を喪失しかける暗殺者。
だが、真一の瞳から「忍」としての冷徹さは消えていなかった。
特殊部隊崩れのプロが相手だ。
ここで中途半端に手を緩めれば、必ず這い上がり、再び輝澄や自分たちの命を脅かす牙となる。
真一は朦朧とする意識を最後の気迫で繋ぎ止め、大柳学との十字固めの敗北で学んだ寝技への移行システムを逆に応用した。
倒れ伏した蛭田の右腕を強固に捕縛し、自らの全体重の質量をかけて床の上でその肘関節を極め尽くす。
腕ひしぎ十字固め。
だが、真一の狙いは、競技格闘技のような綺麗に降参を奪うための関節の制圧などでは決してなかった。
「ま、待て……ッ!」
死線を潜ってきた蛭田の顔が恐怖に歪み、たまらず左手でマットのコンクリートを激しくタップ(降参の合図)した。
しかし、辱められる輝澄の姿に怒りを抑えられない真一は、その命乞いの音を最初から一切無視し、冷徹な一重の瞳のまま、自らの骨盤を突き上げて支点を固定し、蛭田の肘関節を解剖学的な限界を超えて強制的に逆方向へと引き絞った。
――これ以上の抵抗を完全に不可能にするための、本物の「肉体の破壊」。
ブチブチブチィィッ!!! という、肉の繊維と強靭な関節靭帯が内側から強引に引きちぎられる、生々しく凄惨な破壊音が狭いキャットウォークに響き渡った。
「ぎゃあああああぁぁぁッッ!!!???」
肘の関節包と側副靭帯を根こそぎ文字通りねじ切られ、人間の上げていいものではない絶叫を上げて悶絶し、完全にショック状態で失神する蛭田。
狭いキャットウォークに、しばし誰の声も響かなかった。
プロの暗殺者のタップすら容赦なく踏み潰す凄絶なまでの喧嘩芸と、底知れぬ執念の暴力で完全にボコボコにして沈めた、1年生の非情なる勝利だった。




