第35話:ブラジリアン柔術の卑劣な罠
予想外の奇襲を受けた形の富田たちだったが、富田英次の悪意は、むしろここからが本番だった。
工場の奥に進むにつれ、通路は複雑に分岐し、鉄製のシャッターが次々と閉鎖されていく。
「……っ! みんな、バラバラにされた!」
輝澄の声が響く。
志馬たちが気づいた時には、それぞれの目の前に、誠修館の主力を殺すために用意された刺客たちが立ち塞がっていた。
輝澄が追い込まれたのは、床一面に特殊な工業用ジェルが厚く塗布された、不気味な円形の部屋だった。
広くはないため、得意のステップで距離を取ることも難しい。
「美しき空手家……君の華麗な直線的の蹴りは、この泥沼では無力だ」
ブラジリアン柔術家、マルコ・デ・ソウザがニヤリと下劣に笑う。
ジリジリと距離を詰めてくるマルコに対して、輝澄の足がジェルで滑った。
姿勢が崩れた瞬間、マルコが蛇のように道着へ絡みつく。
「離して……っ!」
寝技の攻防に長けていない輝澄は、瞬く間に床へ引きずり込まれ、最悪の馬乗りの体勢―――『マウントポジション』を取られてしまう。
「無駄だよ。これが柔術の構造の勝利だ。本当なら、ここからパンチを君の綺麗な顔面に入れるんだけど、僕はそういう下品なのは嫌いだ。もっといっぱい遊ぼうか」
1993年の第1回UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)において、ブラジリアン柔術が見せた「打撃の間合いを封じて寝技で仕留める」戦法。そして、テコの原理を利用した関節技で勝利を収めた。
この戦法は、当時の格闘技界にとって天変地異であった。
寝技の攻防ともなると、密着状態の構造上、自然と普段は男性には決して触れられないようなデリケートな部分にも、マルコの強靭な四肢が否応なく触れる。
激しい抵抗のせいで、輝澄の着用する空手着の黒帯が徐々にほどけかかり、はためく白道着の隙間からは、道着の下のTシャツが見え、彼女の引き締まったウエストのラインが露わになっていく。
マルコはわざと関節を極めず、ただ固め方を変えて、輝澄の細い首や腕を弄んでいた。
恥辱と恐怖で呼吸が乱れ、輝澄の視界が揺れた。
無理な体勢から突きを繰り出そうとするが、手打ちでは全く有効打にならない。
(いやだ……やめて……!)
絡みついて離れない男の肉体に強烈な嫌悪感を感じながらも、涙を浮かべて声を堪えるのが精一杯の抵抗だった。
しかしその時、輝澄の脳裏に奨の言葉が響いた。
(輝澄、もし組み伏せられたら……これを)
輝澄は、手首を固められる直前、奨から密かに渡されていた「ある物」に向けて、必死に指先を伸ばそうとした。
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別の区画の通路では、早乙女零緒が180キロの圧倒的な肉壁と対峙していた。
「お前が壊し屋か……俺のこの肉も壊せるかな?」
暴力沙汰で角界を追放された巨漢の元力士―――金剛山はそう言って登場すると、おもむろに道着を脱ぎ捨てた。
露わになった革ベストには、無数の鉄釘が鈍く光っていた。
「……殴れば俺の手の骨が潰れ、組めば俺の皮膚が裂けるってか。下種な戦略だ」
零緒は冷笑しながらも、柳生心眼流特有の『振り』の打撃の円運動を止め、顎を下げて構えを低く変えた。
戦国期の甲冑武術の奥底に眠る、鎧の隙間の経穴を指先一つで断つ「破壊の理合」が、零緒の肉体の中で不気味に目覚めようとしていた。
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廃工場の中心部。
廃棄物の中から鉄クズだけを回収するために天井に設置された、巨大な産業用電磁石がギィィィンと唸りを上げた。
その凄まじい磁力線により、神谷千鶴の腰にある本物の真剣が、漆黒の鞘ごと天井へと強引に吸い寄せられ、完全に固定されてしまった。
「がは! お前の情報は聞いている。自慢の刀さえなけりゃ、ただの細い小娘だな!」
千鶴の前に立ち塞がる巨漢の兄弟―――角田兄弟が手にしているのは、重厚な樫の木でできたバットとぶ厚い角材だった。
富田は、磁石の影響を一切受けない木製の得物を用意させ、千鶴最大の武器である居合の術理だけを完全に封じるという、徹底したメタ戦術を敷いていたのだ。
だが、誠修館の精鋭たちは、その絶望の極限の中でこそ真の価値を発揮する。
千鶴は、巨漢の兄が脳天目がけて振り下ろした樫の木バットの破壊線を、スッと無駄のない合気の入り身の運足で紙一重で躱した。
「見くびられたものね。私の武器は、刀だけではないわ。……それを少々借りるわよ」
一重身の踏み込みから、合気道の呼吸法で弟の方が持つぶ厚い木製角材を、吸い付くように無力化して奪い取る。
「神谷流には、剣術だけでなく『杖術』の理合だって伝わっているのよ!」
千鶴が角材を正中線に構える。
『突かば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり』
これは神道夢想流杖術の有名な流儀歌であり、一本の木の杖が槍、薙刀、太刀のすべての実戦的特性を兼ね備えた、攻守自在の万能武器であることを示す言葉だ。
専用の杖ではないため勝手は違えど、磁力という異質な重力が天井へ働く空間で、千鶴の手にした角材が円を描くたび、兄弟の表情が苦しみに悶えた。
千鶴は、巨漢たちの予測不能な角度から、瞬く間にその急所を正確に強打していき、彼らが地に伏すまでそう時間はかからなかった。




