第3話:天魔の目覚め
「が、はっ……あ、……っ……」
狙われたのは腹筋の奥にある水月(いわゆる鳩尾)。どれほど鍛え上げられた空手家の腹筋であっても、解剖学的に内臓へ直接浸透する震動波を防ぐことはできない。
横隔膜の動きを物理的に強制停止させられた彼女に、絶望的な呼吸困難が襲う。
彼女は膝から崩れ落ち、喉を掻きむしりながら、その場にうずくまって苦悶に悶えた。
「輝澄――っ!! 大丈夫か!?」
スポーツバッグも投げ捨て、志馬が弾かれたように駆け寄る。
必死に呼吸を求めて喘ぐ幼馴染の姿。苦痛に顔を歪める彼女の様子は、先ほどまで廊下で笑っていた「眩しい季節」を、あまりにも無惨に塗り潰していた。
「……ぁ、し……ば……」
掠れた声で、必死に志馬の名を呼ぼうとする輝澄。その瞬間。如月志馬の中で「何か」が、音を立てて完全に千切れた。
「……あ?」
志馬の口から、温度の全くない声が漏れる。
視界が急速に赤く染まり、脳の奥底で深く眠っていた「天魔」の血が、凄まじい勢いで沸騰を始めた。全身の血管が浮き上がり、心拍数は生命の限界を超えて跳ね上がる。
それはただの怒りではない。如月家の血脈に刻まれた、この世のすべてを消し去るための純粋な「破壊の意志」だった。
――『引導』の強制解放。
天魔理心流に伝わる、怒りのエネルギーによって脳内麻薬を多量に放出させ、肉体の生存リミッターを限界突破させる最強の戦闘状態。
しかし、強固な精神の統制を欠いたそれは、自我を失い、ただ目の前の物質を屠るだけの「天魔」へと肉体を叩き落とす、絶望のトリガーでもあった。
「壊し屋……お前……」
志馬がゆっくりと立ち上がる。その瞳からは、人間の持つ光が完全に消失し、代わりに底の知れない漆黒の殺意が渦巻いていた。
「引導を……渡す!」
短く吐き捨てられた、冷酷な呪詛。志馬の全身から放たれる圧倒的な殺気が、目に見える陽炎となって周囲の空気を物理的な熱量で歪め、震わせたかのように見えた。
『壊し屋』早乙女零緒の頬を、一筋の冷や汗が伝い落ちる。彼の身体の奥底の本能が、警報を乱打していた。
一歩、志馬が足を踏み出す。足元のコンクリートが彼の爆発的な脚力によって砕け散ったかと錯覚するような凄まじい音を立て、激しく粉塵を舞い上げた。
「――ッ!」
(速い――ッ!?)
零緒の背筋に、生まれて初めて「死」の明確な予感が走った。彼は本能的な恐怖のままに、柳生心眼流の最も堅牢な絶対の守りへと移行し、自身の水月を死守しようとした。
だが、志馬の踏み込みは、零緒の極限の反射神経すらも容易に置き去りにした。構えのない脱力の位置から、予備動作を一切排除して放たれる神速の突き。
天魔理心流――『疾風』。
シュンッ――!!!
旧日本軍機のプロペラが空気を噛むような、鋭く重い風切り音が響く。
中国武術の纏糸勁にも通じる、足、背中、肩、肘、手首へと連動する「螺旋の収縮」を極限まで高めた志馬の右拳が、巨大なドリルのように旋回しながら零緒の胸元へ突き出された。
零緒は死に物狂いで上体を捻り、打点をわずかにずらすのが精一杯だった。
だが、螺旋の波動を伴ったその一撃は、零緒の二の腕を、ブレザーの生地ごと大型ハンマーで叩き潰すような圧倒的な衝撃で粉砕した。衝撃波が直進するのではなく、肉体を「ねじ切る」ように伝わったのだ。
「ぐ、ぁぁああああっ!!」
『壊し屋』と恐れられた男の体が、地面のアスファルトを激しく摩擦しながら数メートル後方へと吹っ飛んだ。
急所こそ外れたものの、その一撃の威力は尋常ではない。零緒はその場に片膝をついて激しく沈み込んだ。
だが、天魔の殺意は止まらない。獲物を確実に仕留めるため、志馬は沈み込んだ零緒の頭部を見下ろし、冷酷なトドメの足蹴りを放とうと足を振り上げた。
「そこまでよッ!」
鋭い一喝と共に、横から一本の竹刀が、志馬の側頭部を目がけて一閃された。
暴走状態の志馬は、反射的にその一撃を寸前でのバックステップで回避する。目の前に立ちふさがったのは、生徒会の神谷千鶴だった。
彼女は使い込まれた竹刀を、体を斜めに向けて半身に構え、剣先を相手の眼につけて正中線を守るように構えていた。千鶴先輩の構えは、剣道の正眼の構えとは違う、柳生青眼と呼ばれる古流剣術の構えであることを格闘オタクの僕は知っていた。
千鶴先輩は、先ほどまでの穏やかさを完全に捨て去った、凍りつくような眼光で志馬を睨みつけていた。
「学園内でこれ以上の狼藉は許さないわ! 如月志馬、その拳を収めなさい!」
千鶴の放つ、神谷流剣術の極致にある者特有の圧倒的な「静」の威圧感。
だが、志馬の『引導』はまだ解けない。牙を剥き、千鶴を次の獲物として認識しようと一歩踏み出した、その時――。
「……し、ば……やめて……っ」
背後から、ようやく呼吸を取り戻した輝澄の、震える切実な声が響いた。志馬の肩が、びくりと大きく跳ねる。
「志馬……もういいよ……私は大丈夫だから……っ!」
千鶴の放つ圧倒的な威圧と、輝澄の命がけの叫び。
二つの異なる力が、志馬の理性を焼き切っていた殺意の奔流を、力ずくで堰き止めていく。志馬の瞳にゆっくりと人間の光が戻り、浮き上がっていた血管が静かに沈んでいった。
その様子を、地面に伏したままの零緒は凝視していた。
(……助かった、のか? 俺が……)
一瞬、脳裏を掠めたのは、死の淵から引き戻されたことへの情けないほどの安堵だった。だが次の瞬間、その安堵を強烈に上書きするように、ドス黒い自己嫌悪と屈辱が沸き上がる。
『壊し屋』呼ばれ、誰よりも強さに執着してきた自分が、名もなき同級生の一撃に震え、助かったことに安堵している。その事実が、砕かれた腕の痛みよりも鋭く、零緒の自尊心を木端微塵に切り刻んだ。
(ふざけるな……! 俺が、俺がこんな奴に……!)
零緒は屈辱を噛み締め、痺れて動かない腕を抑えながら、千鶴の視線を避けるようにして無言でその場を去っていった。
その去り際の瞳には、如月志馬という「怪物」に対する、呪いに近い凄絶な執念が宿っていた。
「……如月くん」
千鶴が竹刀をゆっくりと下ろし、重い口調で告げた。
「貴方がその拳を振るい続ければ、貴方はいつか、取り返しのつかない場所へ行くことになるわよ。……今日は帰りなさい、この場は、私が預かるわ」
その警告は、放課後の不気味な静寂の中にいつまでも重く残っていた。
「志馬……助けてくれて、ありがとうね」
駆け寄る輝澄に、志馬は少し硬直したかのように間を空けてから、いつものように素っ気なく鼻を鳴らした。
「……別に。それより奨。俺の教科書、早く返せよ。明日使うんだからな」
いつもの退屈そうな台詞。
だが、僕は見てしまったんだ。ブレザーのポケットに突っ込まれた志馬の右手が、いまだに、壊れた機械のように小刻みに震え続けているのを。
これが、すべての始まり。少年の、そして僕たちの過酷な宿命の扉が、今、完全に開かれたのだ。




