第2話:武道空手の光
「ねぇ! そこ。何してるの!」
輝澄の鋭い声が、校舎裏の湿った日陰に突き刺さった。
そこでは、4人の不良……恐らくは空手部の3年生たちが、一人の下級生を壁際に追い詰め、地面に這いつくばらせていた。彼らは空手部に所属はしているものの、ほとんど姿を見せない。いわゆる不良の幽霊部員だった。
少し離れた不良たちの後ろには、目にかかる無造作なセミロングの髪の隙間から、興味なさそうにその様子を眺めている一人の男の姿もあった。
「やめてください! いくら空手部の先輩とはいえ、 学校で暴力を振るうなんて、武道家として恥ずかしくないんですか!?」
輝澄は義憤に燃えて声を上げた。しかし、相手はそのような正論で大人しく引き下がるようなタマではなかった。
「あぁ? 新入部員の女がしゃしゃり出てくんじゃねえよ!」
リーダー格の男が、せせら笑いながら輝澄に向き直る。
その瞳には、武道を通じて学ぶべき規律など微塵もなく、ただ「気に入らないものを壊したい」という濁った欲望だけが渦巻いていた。
「女に何がわかる。これは『指導』だ。……邪魔するなら、お前も指導してやろうか?」
男は輝澄の体を嘗めるように見定め、ニチャリと歪んだ笑みを浮かべながら、その胸倉へと下劣な手を伸ばした。
だが、その手が彼女に触れることは、万に一つもなかった。 空気が、鳴った。男の指先が彼女のブラウスに触れる、そのわずか一瞬前。
「……っ!」
輝澄の鋭い上段回し蹴りが、吸い込まれるような美しい軌道で男の側頭部を捉えた。
ドカッ!!
肉を打つ重い音が響き、男は何が起きたのか理解する暇もないまま、糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちた。
キックボクシングのように骨盤を返して自重を乗せる回し蹴りではない。彼女が通う名門・金山和弘道場で叩き込まれた、松濤館流空手の理合。
それは、軸足を鋭く外側へ開き、膝のスナップを最大限に活かした、最短距離をえぐる直線的な回し蹴りだ。
腰の回転と強烈な「引き手」の連動、形成された強靭な軸、 そして地面を蹴ったエネルギーを寸分のロスもなく伝える運足の美しさ。
一瞬で間合いをゼロにする伝統派特有の高速の蹴りは、倒れた男に回避や防御をするという反応さえ許さなかった。
「な、なんだと……こいつッ!」
動揺する周囲の不良たちを、輝澄の鋭い瞳が射抜く。
「松濤館空手、大川輝澄よ! 覚悟しなさい!」
彼女は流れるような運足で一気に間合いを詰めると、左右の突きと回し蹴りの苛烈な連撃で的確に急所を射抜き、瞬く間にさらに2人をキャンバスへと沈めた。
それは、道場で何千回、何万回と繰り返された、純粋で真っ直ぐな武の輝きそのものだった。
残された最後の一人は、完全に恐怖で気圧されている。勝負はついていたが、輝澄の手は緩まなかった。
踏み込みと同時に放たれる鋭い前蹴り。その足を床へ下ろさずに空中へとスイッチングし、体勢が下がった敵の胸元へ、強烈な足刀蹴りを叩き込む。
ズドンッ!
わずか数秒の間に、校舎裏の湿った地面には、4人の不良が悶絶し転がっていた。
僕は改めて、幼馴染の圧倒的な強さを思い知った。ここ数年、空手道場に熱心に通っているのは知っていたが、その進化のスピードは僕の想像を遥かに超えている。
松濤館などの伝統派空手は、フルコンタクト系の空手に比べると実戦で弱いという向きもあるが、決してそんなことはない。
その一撃必倒の飛び込み技術が本物であれば、これほど恐ろしいものはないのだと、目の前の少女の空手が証明していた。
「……ほう。見事な足捌きだ」
不良たちの情けない呻き声を一瞬で塗り潰すように、壁の影から、低く冷ややかな声が響いた。
ゆっくりと歩み出てきたのは、先ほどから不良たちの後ろで、退屈そうに喧嘩を眺めていた例の男だった。
逆三角形の完璧な武道家体型が、指定ブレザーの上からでも容易に伝わってくる。
その男が姿を現した瞬間、志馬の目が微かに細められた。
「……おい、奨。なんだあいつは。空気が違うぜ」
志馬のその言葉に、僕は脳裏をよぎった恐怖でガタガタと膝が震えるのを止められなくなった。
「ど、どうしよう……。志馬、あれは早乙女零緒だよ……! 中学生の時から同年代はもちろん、高校生相手にも喧嘩しまくって、相手を徹底して再起不能まで『壊す』から――『壊し屋』って呼ばれてるんだ。この界隈じゃ一番危険な高校生の一人だよ……!」
「壊し屋、ね……。なるほどな、道理で嫌な気配がするわけだ」
志馬が低く呟くのと同時に、零緒が静かに、しかし絶対的な威圧感を持って身構えた。
重心を極限まで落とした、柳生心眼流――『山勢厳』の構え。
現代格闘技の常識から見れば、顎のガードが下がり、前足が完全に無防備に見える歪な姿勢。
だがそれこそが、戦国・江戸期に甲冑を着用して戦うことを前提とした古流武術の合理だ。
自重のコントロールと、相手の力を螺旋で受け流すための、隙のない体捌きの起点。
「空手の突きか。だが、直線的な動きは読みやすい」
零緒の言葉は冷たく、それでいて、自身の『武』に対する絶対的な自信に満ちていた。
「なに……その構え。ふざけてるの?」
輝澄の声には困惑が混じっていた。無理もない。零緒の独特な構えには、空手のセオリーにあるような明快な「的」が存在しないのだ。
遠距離から得意の上段蹴りで意識を散らすべきか、それとも懐に飛び込んで最短距離の正拳突きで沈めるべきか。
輝澄は一瞬の葛藤を断ち切り、猛然と地面を蹴った。
鋭い前蹴りのフェイントを放つ。零緒の視線が、わずかに下がる。
(今ッ!)
本命は、踏み込みざまの鋭い中段突きだ。
輝澄は自分の蹴り技に強い自信を持っていたが、蹴りはどうしても一時的に体勢が不安定になる。
実戦において、空手は本来、どっしりとした安定した戦いを重視するものだ。
だからこそ彼女は、最も信頼し、空手を代表する技である『正拳突き』を選択し、すべてを懸けて放った。
だが。それを見ていた志馬の瞳だけが、零緒の「右手の指先」が、微かに上を向いた瞬間を見逃さなかった。
零緒の低重心は地面からの反発力を指先に伝えるための、いわば『蓄圧』の姿勢だったのだ。
「輝澄、やめろ……!」
志馬の必死の制止は、コンクリートを叩く激しい足音にかき消された。時、既に遅し。
輝澄の拳が零緒の胸元に届く、その直前――零緒の身体が、古流特有の『身持ち』によって攻撃を滑らかに受け流しながら、不気味なほど速く内懐へと沈み込んだ。
「……っ!?」
輝澄の視界から、一瞬で零緒の姿が消える。
次の瞬間、零緒の右拳が、下から突き上げるような最悪の軌道で、輝澄の鳩尾を深く、吸い込まれるように射抜いていた。
親指を人差し指の側面に添え、中指をわずかに突出させた、柳生心眼流独特の『拳固』の形。
面ではなく「点」で衝撃を浸透させる拳骨が、彼女の横隔膜を容赦なく直撃する。
ボクッッ!!
肉を打つ音とは思えない、鈍い音が校舎裏に響き渡った。




