第33話:瑞鳳の麗人
1996年11月。誠修館高校、理事長室。
重厚なマホガニーの扉を開けた神谷千鶴は、室内の異様な空気密度に一瞬、呼吸を忘れた。
石黒理事長が、額の汗を拭いながら狼狽した様子で立ち上がる。
その横に、窓からの冷たい自然光を背負って、音もなく立っている一人の女性がいた。
香港映画のカンフーアクションに登場する気高きヒロインを思わせるような、抜群の東洋的な造形美。
当時のアジア映画女優で説明するならば、チャイニーズゴーストストーリーで日本でも一世を風靡した王祖賢の透明感と、 007シリーズでボンドガールにも選ばれた楊 紫瓊の凛々しさを併せ持ったかのような美しさだった。
陶器のように白い肌。
切れ長の瞳は、こちらの思考を見透かすように冷徹だった。
最高級の黒のスリムなテーラードジャケットをまとい、その左胸には、光の加減で金糸の鳳凰の刺繍が静かに雄々しく羽ばたいている。
その全身から放たれる圧倒的な気品と、不気味なほどに洗練された「本物の達人」の気配が、理事長室の空間を完全に支配していた。
「この方は、ちょうどいま学園の母体である葉月財団から視察にこられた鳳麗さんです」
「ミス鳳麗、ご紹介します。生徒会長の神谷千鶴君です」
「突然すいません。理事長にお願いをしたいことがありまして……実は……」
挨拶もそこそこに、千鶴が学園内で起きた卑劣な襲撃事件の惨状を切り出そうとした、まさにその時だった。
校庭に設置されたスピーカーから、耳を裂くような不快なハウリング音が響き渡り、全校に下劣な男の声が轟いた。
『誠修館学園の皆さん、先ほどの挨拶は楽しんでいただけたかな?』
それは、かつて志馬に叩き伏せられた男、富田英次の歪んだ執念だった。
『俺たちは、お前たちに恨みを持つ者、腕に自信がある者を集めて結成された武闘派組織・血染めの拳だ。特に早乙女、如月は絶対に許さねえ。あの時の空手女も、まだ無事みたいだなぁ……』
『あれから1年半……。長かったぜー。お前らの前で空手女をズタボロに犯すことだけを励みにしてきたんだ。お前らも、お前らに関わる奴らも、体も誇りもズタボロにしてやるからなぁ、楽しみに待ってろよ!』
志馬、零緒、そして空手女と呼ばれた輝澄。
富田は彼らの誇りをズタボロにすると宣言し、嘲笑とともにバイクの爆音を残して放送を切った。
千鶴たちの預かり知らぬところで、逆恨みの炎は「組織的暴力」へと変貌していたのだ。
「理事長。説明する手間が省けました」
千鶴の瞳に、神谷流剣術の継承者としての鋭い光が宿る。
「警察に通報するのは簡単ですが、我々誠修館は自主自立をモットーとしています。いま奴らのアジトを探っています。私たちの手で解決させていただけないでしょうか?」
「いや、しかし……これ以上事が大きくなっては……」
狼狽する理事長を制したのは、鳳麗の涼やかな、しかし断固とした声だった。
「いいではありませんか理事長。これも彼らの大いなる学びとなります。
それでこそ、葉月グループに必要な人材です。総裁もきっと認めてくれますわ」
鳳麗は千鶴を真っ向から見据え、薄く微笑んだ。
「神谷さん。3時間で決着をつけてください。警察には根回しをしておきます。ただし、死者だけは出さないでね」
自分よりわずか数歳年上なだけのこのチャイナドレスの似合いそうな女性が、警察組織すら動かすほどの権限を持っている。
その底知れぬ背景に千鶴が圧倒された、次の瞬間だった。
(消えた……!?)
千鶴の網膜から、鳳麗のシルエットが完全に消失した。
衣服の摩擦音はおろか、動きの起こり(筋肉の予備動作)さえ1ミリも見せない、物理の常識を置き去りにした驚異的な重心移動。
コンマ数秒後。
「期待してますよ」
左耳のすぐ後ろ、吐息が触れるほどの至近距離で、冷徹な囁きが聞こえた。
千鶴の背筋に、凄絶な総毛立ちが走った。
幼少より祖父・神谷虎次郎から厳しく鍛えられ、実戦的な居合の研鑽を積んできた自負がある。
本物の真剣を持てば、素手の師・虎次郎であれば、五分に渡り合える自信があった。
だが、この鳳麗という謎の女性には、たとえ武器を持ってしても勝率は皆無だと、武人としての本能が最大級の警鐘を鳴らしていた。
動きの起こりが捉えられないのではない。
自分の思考、神経、筋肉の連動そのものが、すでに彼女の底知れぬ武の器の上で完全に読まれている。
「……はい。必ず」
千鶴は戦慄を必死に押し殺し、決意を胸に理事長室を後にした。
………………………………………………
誠修館高校、生徒会室。
窓の外から遠ざかるバイクの爆音と、富田の下劣な高笑いの余韻が、室内の空気を重く沈ませていた。
「……っ、ふざけんなよ……!」
ドゴォッ! という破壊音とともに、会議用の重厚な長机が中央から真っ二つに折れ、ひしゃげた。
2年生になった志馬の拳が、厚い天板を完全に貫通していた。
彼の瞳は、激しい怒りによって虹彩が微かに変色し、全身から陽炎のような熱気が立ち上っている。
輝澄は、志馬の拳が机を貫いた瞬間、胸が締め付けられた。
彼の怒りがどれほど深いか、痛いほど伝わってきた。
「志馬、落ち着いて! 私は大丈夫だから!」
輝澄が咄嗟に志馬の腕を掴み、必死に呼びかける。
その声に、志馬の肩からわずかに力が抜けた。
大きく肩で息をしながら、彼は「……わりぃ」と呟き、正気を取り戻す。
もしこの場に、輝澄に一目惚れしている1年生の後輩・本居真一がいたら、志馬以上の暴走を見せて収拾がつかなくなっていただろう。
それほどに富田英次の嘲笑は下劣なものだった。
「……さて、志馬が落ち着いたところで、現状を整理しよう」
水島奨が、震える手でホワイトボードの前に立った。
彼は格闘技オタクとしての知識と「孫子の兵法」をはじめとした中国古典好きの知略をフル稼働させ、襲撃のあった各部活の被害状況を線で結んでいく。
「みんな、敵の狙いは明確だ。これは単なる不良の喧嘩じゃない。『格闘技殺し(メタ戦術)』の専門家が背後にいる。つまり、敵は僕たちの弱点を“構造的に”突いてくる。消石灰も油もスタンガンも、そのための道具だ」
奨の眼鏡の奥の瞳が、これまでにない鋭さを帯びる。
「敵は僕たちのデータを完璧に持っている。誠修館の主力――志馬くん、零緒くん、輝澄さん。君たちに対しても、それぞれを『無効化』するための特異な罠や、相性の悪い格闘家を用意しているはずだ」
「俺の柳生心眼流を罠でハメるってのか? 面白い、返り討ちにしてやるよ」
零緒がブレザーのポケットに手を突っ込んだまま不敵に笑うが、奨は重く首を振った。
「例えば零緒くん、君の『振り』は強力だ。でも、もし相手が『全身に釘を打った防具』を纏い、君の打撃を誘っていたら? 打撃も組技も使えず、かなり闘いにくいのでは?
他にも、輝澄は打撃の冴えはこの中でも引けを取らないけど、僕が敵の立場なら、立ち技の距離(間合い)を潰し、寝技に持ち込む仕掛けをすると思う」
そこへ、理事長室から戻った千鶴が扉を勢いよく開けた。
「……全員、準備はいい?」
彼女の纏うオーラは、先ほどまでの生徒会長のそれではない。
一振りの抜き身の刀のような、武人としての峻烈なものに変わっていた。
「理事長……いえ、葉月財団の承認を得たわ。警察への根回しを含め、3時間以内に決着をつけること。それが、私たちが誠修館の誇りを取り戻すために与えられた猶予よ」
「3時間か……上等だ」
志馬が折れた机の残骸を蹴り飛ばし、立ち上がる。
その時、夕闇の窓から影が音もなく飛び込んできた。
「いや、ここ2階だけど……」
小声で突っ込みを入れる奨だが、みんな本居真一は忍者だし別に問題ないかくらいに思っている。
「……姉さん、見つけたぜ。奴らの本拠地は、街はずれの廃工場だ。かなりの人数が集結していたが、何やら罠をしかけているような気配がある。みんな、準備はいいか?」
輝澄以外には、先輩相手でもタメ口なのが真一だが、輝澄と学園を傷つけられたことに憤っている志馬はそんなことは気にも留めず、鋭い目を宿して立ち上がる。
その瞳には、もはや暴走する怒りではなく、仲間を守り、学園の秩序を取り戻そうとする確かな「意志」が宿っていた。
生徒会会計の早川理恵は、お気に入りのオーバル眼鏡の奥の目をシビアに走らせ、しっかり者らしい真剣な面持ちで彼らの覚悟を見守っていた。
千鶴が号令をかける。
「よし。水島くんは指揮をお願い。……さあ、始めるわよ!」
一行は夜の帳が下り始めた街へと一斉に駆け出した。
神谷千鶴の、生徒会長としての最後の大仕事が始まった。
誠修館学園の財政的な基盤である葉月財団から総裁の名代として現れた謎の女性。彼女は苗字が鳳で、名が麗です。中国武術の達人で、この時、わずか21歳ですが、彼女の流派はこの時点では不明です。まだまだ先ですが、本格的に登場してくる第2部の終盤で明らかになる予定です。
さて、ここからはマニアックな話になりますが……。
彼女のルックスを表現するのに、ジョイ・ウォンとミシェール・ヨーの二人を出しました。中国女性=美人という印象を自分が持ったのは、チャイニーズゴーストストーリーのジョイ・ウォンの影響が大きいと思っています。また、当時、数々のアクション映画のヒロインを演じたミシェール・ヨーについてはカッコいい中国女性の代表であると思っています。
ちなみに、この物語の舞台がもう3年遅ければ、1999年に「白髪魔女伝〜美しき復讐鬼〜」でヒロインを演じた蒋勤勤(水霊の名前で活動していた時期もあります)の名前を挙げたいところでした。鳳麗は設定上1975年生まれですが、この蒋勤勤も同じ1975年生まれになります。ただ、さすがにこの頃は日本ではまったく無名でした。
でも、実際にこのコンセプトアートを作る時のルックスイメージにしたのは、実は、1997年から中国では一気に有名になりはじめていて、後の時代のトップスターとなる范冰冰だったりするんですけどね。
以上、鳳麗のルックスモデルを巡る少々マニアックな香港・中国映画の女優談義でしたが、そもそも彼女は、作者の私にとって永遠の女神とも言えるキャラクターのオマージュでもあります。
90年代から現代に至るまで、世の男たちを魅了し続けている中華キャラと言えば……まあ、バレバレですね。バレバレですが、その話はまた今度にしたいと思います。
https://kakuyomu.jp/my/news/2912051605436096258




