第32話:骨法の理、反撃の狼煙
空手部の道場でも、すでに目を覆いたくなるような惨状が極まっていた。
フルコンタクト空手にも長け、頑強な肉体を持つ空手部主将の石井が、頭部から激しく血を流して床に倒れ、ほとんどの一般部員が暗器の理不尽な暴虐によって蹂躙され、のたうち回っている。
襲撃してきた部下たちは、空手家が放つ、直線的で一撃必倒の正拳突きや前蹴りを構造的に完全封殺するため、表面に錆びた無数の鉄釘を外側に向けて突き立たせた、路上専用の凶悪な『釘盾』を構え、じりじりと壁際へと輝澄を追い詰めるように間合いを詰めていた。
さらにその刺突不可能な盾の影からは、長い鎖をブンブンと振り回してアウトレンジから輝澄の肉体を一方的に打ち据えるという、空手本来の「受け(パリング)」が物理的に全く通用しない、極めて卑劣で計算された暗器の連携を見せていた。
「くっ……!」
しっかりと黒帯を締め、純白の空手着を纏った輝澄は、川住尊の道場への出稽古で極限まで磨き上げられた、道着のズボンの上からでも伝わるしなやかで強靭な脚線美による圧倒的な俊敏さで、何とか致命傷の直撃だけは避けていた。
激しいステップに合わせて重厚な道着の裾がバサバサと風を切り、黒帯で固く絞られた細い腰のラインが、彼女の格闘家としての美しさを引き立てている。
しかし、一般生徒が倒れたことで道場のスペースを奪われ、ついに完全に背後の壁際へと逃げ場を失った。
そこへ、盾の隙間から男が執拗に放った鉄の鎖の波動が、輝澄の防御した右前腕を強烈に大打した。
空手着の生地が衝撃をある程度殺したものの、骨を直撃する激痛に美しい顔を苦悶に歪め、輝澄の最大の武器である高速の運足の動きが完全に止まる。
目の前には、人間の肉体をすり潰すための無数の釘盾が絶望的な質量で迫り、万事休すかと思われた、まさにその刹那―――。
「輝澄先輩、まずはこちらへ!」
空気の引き裂くような鋭い制止の叫び声とともに、鋭いウルフカットの黒髪を揺らした一人の小柄な影が、盾を持った男の髪を引っ張り引き倒すと、喉に手刀を入れて、包囲を破った。
1年生の本居真一である。
真一は、中野の骨法會の道場で溝辺雅史から毎日地獄の乱取りで叩き込まれた、正中線を完全に隠す半身の「右半身」の構えを取り、正面からの攻撃が不可能な釘盾の完全な解剖学的死角へと滑り込むように、姿勢を地面すれすれまで低く沈めて深く踏み込んだ。
「おらぁッ、骨法の理を味わえ!」
実戦用の釘盾を構えて前進してきていた男の無防備な膝関節の皿へ向けて、真一の全体重の質量が乗った低い弾道の『摺り蹴り(すりげり)』が完璧なタイミングで炸裂した。
摺り蹴りとは、骨法第52代宗家・溝辺雅史が、路上において刃物や盾といった強力な武器を持った危険な相手の懐のデッドスペースへと安全に飛び込みながら、相手を確実に物理的に無力化するために編み出した骨法独自の至高の喧嘩足技だ。
敵の攻撃の起こりにカウンターを合わせる要領で、大地の摩擦を利用した摺り足から滑り込むように相手の膝関節の逆方向へと鋭い低空キックを叩きつけ、骨の構造を物理的に破壊する。
ベキィッ!!
「あ、あがぁぁぁッ!?」
膝関節を正面から逆にボキリと折られた男の巨体が絶叫とともに崩れ落ち、頑強だった釘盾のガードの高さが一瞬にして下に大きく下がった。
真一はその隙を1ミリも見逃さず、下半身の跳ね上がるようなエネルギーを手のひらに乗せ、無防備になった男の顎の先端へと強烈な掌打を打ちぬいて脳震盪で沈めた。
はためく空手着の隙間から覗く、細い首筋を汗で濡らしていた輝澄は、その実戦的な戦法を目の当たりにして、大きな瞳を驚きに輝かせた。
「なるほど! 膝の下の関節の死角を狙えばいいのね!」
天性の格闘の才能をもつ輝澄は、真一が見せた骨法の足技の理合をその場の一瞬で完全に学習し、出稽古で培った「打って打たれる実戦の間合い」を応用して、すぐに自身の伝統派の運足のフェイントへと取り入れ始めた。
「輝澄先輩、助けが遅くなって本当にすみません!」
「うんん、来てくれてありがとう真一くん、私は大丈夫。でも、みんながこんな酷い目に……」
「わかってます。……あの外道どもは、俺たち二人でまとめてやっつけましょう!」
「うん! 真一くんなら、私の背中、100%安心して任せられるね」
お揃いの真っ白な道着を揺らし、男勝りな笑顔のまま自分への絶対的な武の信頼を寄せてくれる輝澄の言葉に、真一はウルフカットの奥の少年らしい顔を心底嬉しそうに真っ赤に上気させ、彼女と互いの背中をぴったりと強固に合わせるようにして、暗器を構える10数人の敵の包囲網へと立ち向かった。
(忍術は生き残るための総合生存戦略。……だが、あなたのために死ぬなら本望!)
下段攻撃を警戒するようになると、今度は上段への防御に隙ができる。
息の完璧に合った、若き2人の超人の強力な下段攻撃を軸とした美麗な突き蹴りと骨法の掌打の連携の前に、暗器を持った不良たちは翻弄され、次々と板の間の上へと文字通り排除されていった。
そこへ、神速の居合で不良を制圧した千鶴先輩と、カメラを抱えた僕がようやく道場へと駆けつけた。
「この……よくもみんなをボロボロに! 待ちなさい、絶対に逃がさないわよ!」
戦局の形勢が不利と見て、旧武道棟の外へと大慌てで逃げ出し始める数人の不良の背中を、怒りに燃える輝澄が追おうとした。
しかし、千鶴先輩はその彼女の細い肩を、静かに制止した。
千鶴先輩は、隣で息を整えている従弟の真一に向けて、短く顎で冷徹な合図を送る。
真一は言葉による返事をせず、無言で深く頷くと、朧月流忍術らしく気配を消して、逃げる男たちの背後を、まるで最初から存在しないかのように、衣服の摩擦音すら消した完全な「影」となって尾行を静かに開始したのだった……。
「……なるほど、さすがです、千鶴会長。あえてここで弱そうな数人を無傷で逃がすことで、この六王子の街のどこかにある、今回の襲撃を仕組んだ本物の暴力の拠点の場所を確実に真一くんに探らせるんですね」
僕が千鶴先輩のその深謀遠慮の武人の意図を瞬時に察してカメラを片手に呟くと、千鶴先輩は少し意外そうにパチリと大きな瞳を開き、僕の小太り眼鏡の顔を見つめた。
「その機転、期待しているわよ」
「は、はいっ! 命を捧げます!」
僕が千鶴先輩のあまりにも尊い言葉に脳内で小躍りしていたまさにその時、旧武道棟の壊れた引き戸から、如月志馬が顔面を蒼白にして血相を変えて飛び込んできた。
「輝澄―――っ!! 無事か、大丈夫かッ!?」
さらに、その志馬の背後からは、逃げようとしていた他校の不良の一人の襟元を無骨な手で強引に引きずりながら、柳生心眼流の早乙女零緒もその逆三角形の体躯を道場へと現した。
「おいおい如月、学校の正門前だけじゃなくて道場の奥まで……一体なんなんだよ、この鎖やスタンガンを持った気味の悪い連中は?」
「ちょうど全員がタイミング良く揃って良かったわ。これで、今の誠修館学園最強メンバーがここに完全に集合したわね」
千鶴先輩は集まった僕たち一同をその切れ長の瞳で冷徹に見渡し、次期新執行部への世代交代を前に、現生徒会長としての絶対的で圧倒的な威厳をその華奢な身体に纏って告げた。
「全員、生徒会室で私の指示を待っていて。水島くん、貴方は集まった彼らに、現在判明している柔道部やボクシング部の被害状況の冷静な『戦況分析』を伝えておいてね。……私は理事長へ、この全面抗争の許可の話をしてくるわ」
神谷千鶴という本物の武人が放つ、誠修館の生徒会長として最後の、そして最も血生臭い大仕事の幕が、冬の訪れ前の六王子の街で、今、静かに切って落とされようとしていた。




