第27話:神谷流抜刀術
1996年7月。
生徒会会計の早川理恵と輝澄が親友となり、華やかな賑やかさを増した誠修館高校の生徒会室。
輝澄と同じく新しく広報担当の役職を引き受けた僕、水島奨は、憧れの千鶴先輩と同じ狭い空間にいられる無上の幸せを胸の奥で噛みしめつつも、彼女から任された膨大な過去の学園データ資料の整理に追われ、夏休みを前にした暑さの中、電卓を片手に必死に白目を剥いていた。
理恵がオーバル眼鏡の位置を直しながら、手際よく重要な書類を千鶴のデスクへと差し出す。
千鶴は「いつもありがとう、早川さん」と高潔に微笑むが、その美しい武人の視線は、書類ではなく、生徒会室の窓の外――遥か下方の校門付近に集まりつつある、明らかに怪しげな他校の集団の残響を正確に捉えていた。
「……どうやら、如月くんたちがまた、誠修館の敷地内に厄介な面倒の濁流を連れてきたようね」
千鶴のその低く冷たい呟きの通り、夕暮れの校門前では、木刀を構えた他校の狂気的な不良グループらしき連中が、殺気立って大声を張り上げて騒ぎを起こしていた。
誠修館高校の正門前では、他校から遠征してきた武闘派の不良グループが10数人、木刀などの凶器を中空でぶん回しながら、狂ったように声を張り上げて校舎を威嚇していた。
「おい、誠修館のクソガキども! 『壊し屋』早乙女を出せ! 出てこねえなら、今からこの校門を通る生徒の男女を、片っ端から骨が折れるまでボコボコに粉砕するぞ、ああ!?」
ちょうどそこへ、放課後の修行へ向かおうとして偶然通りかかったのは、だらしなくネクタイを緩めた2年生の如月志馬だった。
「おいおい、勘弁してくれよ……零緒の野郎、今度は一体どこで余計な恨みを買いまくってんだよ」
志馬がブレザーのポケットに手を突っ込み、頭を抱えていつもの脱力系で愚痴をこぼしていると、彼の背後から、周囲の空気を一瞬で凍りつかせる冷ややかで圧倒的な「静」の気配が静かに近づいた。
「如月くん。やはり、貴方がまた生徒会の管轄に面倒な暴力を連れてきたようね」
「げっ、千鶴先輩! 違うんですよ、誤解です! こいつら俺じゃなくて早乙女を探してて、俺はただの通りすがりの運の悪いとばっちりで……!」
志馬が冷や汗を流して弁明する中、僕と輝澄も、千鶴先輩の指定ブレザーの大きな背中に小走りでついて校門前までやってきていた。
「千鶴先輩、危ないですから、空手部の私が前に出て様子を見てきます!」
緋色のリボンを揺らしして拳を握り、果敢に前へと駆け出そうとする輝澄のしなやかな肩を、千鶴先輩が金文字の腕章を巻いた左手で静かに制した。
「待ちなさい、大川さん。貴方は我が生徒会の新しき広報担当でしょ? ならば、たまには『神谷生徒会の絶対的な威光』をデータとして厳格に記録しておくのも大切な仕事よ。水島くん、広報用のカメラの準備はいいかしら?」
「えっ、あ、はいッ! 準備万端です!」
僕は千鶴先輩に名前を呼ばれた興奮で鼻血を出しそうになりながら、大慌てで首に下げていた私物の高価な一眼レフカメラを構え、ファインダーのピントを夕日の中に合わせた。
生徒会長・神谷千鶴は、志馬を背に、10数人の凶悪な不良たちの前に凛とした立ち姿でたった一人で立ち塞がった。
そのブレザーの細い腰のベルトの左側には、不気味な漆黒の鞘に完全に収まった、一振りの日本刀が帯刀されていた。
「ここは葉月グループが運営する、高潔で神聖な学び舎よ。木刀を持って騒ぎたいなら、今すぐ余所へ行きなさい」
「あぁ!? 誠修館の女生徒会長かなんか知らねえが、生意気な女が木刀の前でナメた口きいてんじゃねえぞ、コラァ!」
リーダー格の殺気立った男が、殺意のままに木刀を頭上に大きく振り上げ、千鶴の脳天を目がけて一直線に躍りかかった。
志馬が「危ねえ、千鶴先輩ッ!」と叫び声を上げるよりも早く、誠修館の校門前の全空間が、物理的にピキィンと完全に凍りついた。
カッ――!!!
僕の構えた一眼レフカメラの最高速のファインダー越しですら、千鶴先輩がいつブレザーの腰の鞘からその刀を抜き放ったのか、視覚的な網膜のスピードでは1ミリも捉えることができなかった。
僕たちが何が起きたのか脳内で理解した時には、躍りかかった不良リーダーが振り上げていた、あの樫の木刀が、音もなく斜めに切断され、アスファルトの地面へとカランと虚しく転がり落ちていた。
「……ひっ、あ……!?」
千鶴先輩は、驚くべきことに刀を抜いた時と全く同じ速度、完全なる静寂の所作の残響のまま、その美しい刃を一瞬で漆黒の鞘へと再び納刀していた。
「次は、その木刀ではなく、貴方のその傲慢な鼻先を地面に落とすわよ。……あ、ちなみにこれは学園内の規則に従った練習用の模造刀よ」
「ひ、ひぃぃぃぃぃ!! バケモノだァァァ!!」
リーダーの持つ木刀の、豆腐のように滑らかに切られた断面と、千鶴が放った正真正銘の「武人の殺気」の絶対的制圧術に完全に腰を抜かした不良たちは、蜘蛛の子を散らすように夜道へと一目散に逃げ去っていった。
呆然と口を開けて固まる志馬と輝澄に対し、千鶴先輩はふぅと美しい呼吸を一つ吐き出すと、いつもの高潔で凛とした生徒会長の表情へと何事もなかったかのように戻った。
「水島くん、今の神谷流の活動の瞬間、カメラで綺麗に撮れたかしら?来月の生徒会報の『活動報告ページ』のトップに大きく載せるから、今夜中に部室の暗室でバッチリ現像しておいてね」
「あ……は、はいっ! 会長、完璧にレンズに収めました! ……でも会長、今の居合って……!!」
僕は格闘技マニアとしての圧倒的な興奮と脳内の知識の奔流を抑えきれず、震える声でその術理を早口で捲し立てた。
「今のは、古流剣術の『鞘走り』の理合ですよね!? 刀を右手で前方に抜刀すると同時に、左手の親指と掌で漆黒の鞘を真後ろへと凄まじい速度で引き絞る。抜く手のベクトルと鞘を引くベクトルの反作用を合致させることで、物理的な刀身の初速の刃渡り速度を通常の2倍以上へと跳ね上げる、一撃必殺の抜刀術……!」
千鶴は少しだけ意外そうな目で、小太り眼鏡の僕を見つめると、嬉しそうに優しく微笑んだ。
「詳しいわね、水島くん。その通りよ、居合道……抜刀術は腕の腕力だけで刀を抜くのではないの。骨盤と半身を瞬時に最小限で切り替える『一重身』の体捌き、そして鞘を限界まで引く陰の力が完璧に合致した時、肉体の物理的な限界点を超えた神速の速度が出るの。……まあ、今の相手には、少し勿体なかったわね」
千鶴先輩はそう言って、再び生徒会室へと静かに歩き出した。
しかし、格闘オタクである僕の脳細胞の科学的分析は、彼女のその優しい言葉の裏にある「恐るべき矛盾の真実」を完全に看破し、冷や汗を止めることができなかった。
おかしい。
1996年現在のスポーツ用、あるいは舞台用の亜鉛合金製の練習用模造刀は、金属としての強度が極めて低く、構造的に脆い。
いくら木とはいえ、樫の木刀は相当な強度がある。それをまるでバターを熱線で切るかのように「音もなく滑らかに断ち切る」ためには……
刀身が亜鉛合金などではなく、正真正銘の玉鋼で鍛え上げられた『本物の真剣(日本刀)』と、正確な「刃筋」で切り付ける神谷流の居合技術が必要不可欠である。
「……でも、先輩。今のって、模造刀じゃなくて、本物の……真剣……」
前を歩く千鶴先輩は、振り返ることなく、夕闇の廊下の中で僕にだけ聞こえる低い鈴の音のような声で、僕の言葉を遮って囁いた。
「水島くん……。世の中には、知らないほうが幸せなこともあるのよ……」
その後ろ姿を見つめながら、志馬と輝澄は顔を見合わせ、「やっぱり……誠修館の中で、千鶴先輩を本気で怒らせた時が一番怖いね……」と、ガタガタと背筋を震わせながら苦笑いし合うのだった。
ようやく本格的に物語に介入することになってきた神谷千鶴について解説したいと思います。
神谷という苗字で剣術を使うポニーテールの女性と言えば……某剣客浪漫譚か?というツッコミをいただくところですが、彼女が居合の達人であるというのも、30年前の自分がその辺から頂戴した設定です。
が、性格は全然違いますし、まあ、活人剣というわけでもないので、むしろいまはペルソナ3の美鶴みたいな感じのキャラだなーと思ってしまうかもしれませんが、彼女の設定ができたのはペルソナ3発売の2006年よりも10年くらい前なので、ご勘弁いただければと思います。
1. 神谷流古流剣術の術理
神谷千鶴が遣う「神谷流剣術」は、単一の剣術流派ではなく、実質的には彼女の祖父・神谷虎次郎が古今の様々な古流武術の術理を研究・再構築して創り上げた総合古武術です。
流派の伝承としては「神谷伝心斎」を始祖と称していますが、虎次郎が本当に伝心斎の直系子孫であるかどうかの歴史的真偽は定かではありません。しかし、伝心斎が説いた「五常の徳(仁・義・礼・智・信)」を重んじる精神性は、神谷流の根底に深く根付いています。
神谷流剣術は、他の古流武術同様に、剣術だけでなく、様々な武器術を組み合わせた総合武術です。どのような古流武術に影響を受けているのかをいくつか紹介します。
【構成される主な術理とモデル流派】
●剣術(正統の骨格):直心影流
神谷流の基盤となる剣術。呼吸法(法定)と「正中線」を何より重視し、力みや無駄な予備動作を完全に削ぎ落とした、凛とした踏み込みと一撃必殺の斬撃を骨組みとしています。
●居合・抜刀術(千鶴の十八番):夢想神伝流
千鶴が最も得意とする術理。鞘離れの瞬間に敵の殺気を制し、一瞬で首級を挙げる精密機械のような居合。間合いのコントロールと「刀を抜かせない圧(威圧感)」の源流です。
●杖術(長物・変則戦闘):神道夢想流杖術
「突けば槍、払えば薙刀、持てば太刀」と称される杖の術理。剣を持てない状況などでは、千鶴は4尺の木杖・竹尺を自在に操り、相手の関節や急所を的確に制圧します。
●体術(素手での制圧):千鶴独自の「合気道(入り身・転換)」
神谷流本来の体術も存在しますが、虎次郎のススメもあり、千鶴は独学で「合気道」の理合を深く学び取り、自身の体術として昇華させました。
相手の攻撃のベクトル(力)を1ミリもせき止めず、「入り身(死角への侵入)」と「転換(円運動)」によって、相手の体重と重力をそのまま地面(脳天)へ衝突させる凶悪な制圧術です。
2. 複雑なる神谷家の家庭環境と血脈
千鶴が漂わせる圧倒的な「気高いお嬢様感」と、相反するような「古風な剣道家(武道バカ)」としての二面性。その背景には、神谷家の少し屈折した歴史と家庭環境が存在します。
【登場人物と家庭のリアリティ】
祖父:神谷 虎次郎
若かりし頃の彼は、鹿島神流の国井善弥や、大東流の武田惣角を彷彿とさせる、時代錯誤なまでの「武痴(武術の狂者)」で、生涯を古流の他流試合と修錬に捧げた男でした。
息子(創一郎)には「武を継ぐ器量なし」と冷淡で、我が子に武術を教える暇すらないほど稽古に没頭していました。しかし、老境に入って生まれた孫娘・千鶴の中に「武の才能」を見出し、孫ができて初めて道場を開き、手塩にかけて神谷流の全てを伝授しました。
伯父:神谷 虎太郎(かみや こたろう / 故人)
虎次郎の実兄。弟が武道に狂う中、戦後復興期の動乱を持ち前の商才で生き抜き、輸入貿易や不動産で「神谷商会」を立ち上げ、一代で巨大な財を成した実業家。
父:神谷 創一郎
伯父・虎太郎の事業と洗練された帝王学を受け継いだ「神谷グループ」の二代目実業家。
家庭を顧みなかった父・虎次郎を激しく嫌悪・軽視しており、自らは高級美術品や建築デザインを扱うエレガントな紳士として生きている。
千鶴が武術に没頭することには当初反対していたが、品格と学業を完璧に保つ娘を最後は認め、愛している。
母:神谷 冴子(かみや さえこ / 旧姓:本居)
茶道・華道の教授者であり、上品な奥様。実は本居真造の娘にして、本居真一の父(本居剛造)の実の姉。
千鶴の持つ「気品や礼節」は母・冴子からの徹底したしつけの賜物。真一(従弟)が千鶴を「姉さん」と呼び、頭が上がらないのは、この母方の強力な血の繋がりによります。
裕福で洗練された家庭で育ち、父から「紳士の気品」を、母から「伝統の礼節」を、そして祖父・虎次郎から「武士の死生観と神谷流の殺傷能力」を注ぎ込まれた千鶴。
彼女が誠修館学園で「高嶺の花の生徒会長」として君臨できるのは、この贅沢かつストイックなバックボーンがあってこそです。
ちなみに、彼女が手にしている愛刀(自称・模造刀)は虎次郎から授けられた物で、彼女が憧れる剣客商売の登場人物から「三冬」と命名されています。
https://kakuyomu.jp/my/news/2912051605085374639




