第23話:生徒会長に呼び出され
1996年、5月。
私立誠修館高校の古い木造廊下には、初夏の到来を感じさせる、少し汗ばんだ湿り気を帯びた風が吹き抜けていた。
1年前、血気盛んな不良たちの汚い怒号が絶えなかったこの学び舎も、3年生の神谷千鶴が生徒会を掌握して以来、表面上は完全な平穏を保っている。
「おい、如月。……聞いたぞ、一年坊主とファミレスの表でやり合ったらしいな」
背後から不意にかけられた、剃刀の刃のように鋭い低い声に、16歳の如月志馬はびくりと肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにはかつてこの界隈で柳生心眼流の「壊し屋」として恐れられた早乙女零緒が、指定ブレザーのポケットに手を突っ込んで立っていた。
あの道場破りの絶望を経て、自らの明確な目標を見出したことで甲冑柔の修行に没頭するようになった彼は、ストリートの不良たちとくだらない付き合いをすることを完全にやめていた。
それゆえ、その逆三角形の佇まいは以前よりもずっと鋭く、そしてどこか武術家としての「丸く」落ち着いた風格を湛え始めている。
「俺との勝負はいろいろと腕の怪我を理由に避けてるくせに、新入生相手には随分と威勢がいいじゃねえか」
「あ、いや……あれはほら、事故っていうか、男としての不可抗力っていうかよ……」
志馬は額に冷や汗を流しながら、無意識に一歩後退りした。
1年という過酷な月日を経て、かつての殺し合いに近い狂気的な緊張感は薄れ、彼らの間には腐れ縁のような奇妙な友情とライバル関係が芽生えつつある。
それでも志馬にとっては、戦わずに済むなら零緒のようなガチの柳生心眼流の相手とはなるべく闘いたくないというのが本音だった。
「あ、そうだ! 忘れてた! 今から千鶴会長に至急呼び出されてるんだったー! なんだろーなー、遅れたらめちゃくちゃこわいなー!」
大根役者のような大仰な棒読みの台詞を叫びながら、志馬は脱兎のごとく廊下を駆け出した。
零緒はその背中を見つめ、「……逃げるための足腰だけは一人前になったな」と、わずかに口角を上げて不敵に見送った。
……
「失礼しまーす……」
志馬が恐る恐る生徒会室の重い木製の扉を開けると、そこには既に水島奨と、大川輝澄がソファー席についていた。
「ちょっと志馬、遅いわよ! なんで私たちまで急に集められたの?」
と困惑する輝澄。
そんな3人の戸惑いを余所に、デスクの奥で腕を組んでいた千鶴がおもむろに低い声で話し始めた。
「如月くん。貴方のその肉体のリミッターを外す力、天魔理心流の『引導』でしょ? 私の祖父、神谷虎次郎から古流の因縁として聞いたことがあるわ。その覚醒は過剰に神経細胞と心臓を活性化させ、生命力の前借りとして確実に己の寿命を縮める。もう二度とその魔拳は使わないほうが身のためよ」
生徒会長・神谷千鶴は、射抜くような鋭い視線を志馬の垂れ目へと真っ直ぐに向けた。
「まあ、祖父が持つ古い記録が本当なら……の話だけどね。そんな漫画みたいな話あるのか、正直、私は疑問に思ってる。かつてあの『魔拳』にどうしても勝てなかった我が先祖の、ただの情けない負け惜しみかもしれないわね」
千鶴はふっと肩の力を抜いて表情を緩め、英国製の紅茶のカップをソーサーに置いた。
先日の夜の公園での「最悪の時は貴方を斬る」という峻烈な処刑警告とは打って変わった、どこか悪戯っぽいお茶目な微笑。
その大人の女性のギャップに少しだけ心臓をドキッとさせられた志馬は、(この千鶴先輩って人は、たまにどっちが本音か分かんねえから一番手強いんだよな……)と内心で毒づいた。
「で、今日の本題はここからよ。貴方たち3人、生徒会執行部に入らない?」
「「「えっ?」」」
3人の驚きの声が綺麗に重なる。
「去年の3年生の先輩たちが引退して、今の執行部は圧倒的に人手が足りないのよ。特に、誠修館の活動を外部に伝える広報担当。これには、明るくて誰からも好かれる大川さんが完全に適任だわ」
千鶴はそう言って微笑んだ。
ちなみに、広報担当の増員を探していると従弟の本居真一に相談したら、「輝澄先輩を絶対に執行部に引っ張るべきです!」と鼻息荒く猛プッシュされたから、というのは彼女たちには絶対の内緒であった。
「わ、私ですか!? 部費を守るので精一杯なんですけど……」
驚きつつも、憧れの千鶴直々のスカウトに、まんざらでもなさそうに緋色のリボンをいじる輝澄。
「そう。そして水島くん。貴方は学園内の格闘ログを含め、あらゆる情報の整理と緻密な記録・分析が得意だと聞いているわ。これこそ適材適所よ」
千鶴の切れ長の瞳に見つめられ、彼女に対して密かな淡い憧れを抱いている小太り眼鏡の奨は、顔を瞬時に真っ赤にしながら鼻の上のメガネをクイと押し上げた。
「は、はいっ! 僕と志馬で、憧れの千鶴先輩……あ、いや、会長の、お役に立てるなら、喜んで……っ!」
(お前、美女の笑顔に完全に一発で釣られてるじゃねえか……)
隣で呆れ果てる志馬を余所に、「ありがとう」と微笑む千鶴に奨は「光栄です!」と小躍りしていた。
「仕事の詳しい説明は、これまで広報の書類管理も兼任してもらっていた、会計の早川さんに聞いてね」
千鶴がそう言って、デスクの横で熱心に電卓を叩いていた女子生徒を振り返る。
シャギーを入れたストレートヘアに、細いオーバル眼鏡をかけた2年生の早川理恵。
後に輝澄にとって生涯の親友となる彼女と、輝澄はここで初めて、運命の視線を交わしたのだった。
「なんだよ、もっと恐ろしいお説教かと思って損したぜ。俺はそういう事務的な堅苦しいデスクワークは完全にパスだわ。まあ、憧れの千鶴先輩の忠実な奴隷として、せいぜい広報で気張ってくれよ、水島くん」
志馬は安堵とともに鼻で笑い、真っ赤になって千鶴を見つめる奨の背中をポンと叩くと、ひらひらと左手を振って、一足先に生徒会室を後にした。




