↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/61

第18話:朧月流忍法体術

1996年4月。私立誠修館(せいしゅうかん)学園高校の新学期は、進級した僕たち4期生の教室でも、また、新入生である5期生の間でも、ある一人の女子生徒の話題で持ちきりだった。


入学式での在校生代表挨拶。壇上に立った3年生の生徒会長――神谷千鶴かみや ちづるの、指定ブレザーに金文字の腕章を巻いた凛とした佇まい。


理知的でありながら圧倒的な武人の威厳を放つ演説は、入学したばかりの新入生たちの心を一瞬で完全に鷲掴みにしていた。


「なぁ真一、見たかよあの生徒会長! 綺麗だしカッコいいし、マジで異次元だよな! そして細いように見えて、実はEカップあると見た。俺、決めたわ。千鶴先輩のいる剣道部に入って、あわよくば巨乳のハートをゲットする!」


入学早々、誠修館の女子生徒のスタイル(特に胸のボリューム)分析に並々ならぬ情熱を注ぐクラスメイトの神代和雄かみしろ かずおが、興奮気味に本居真一もとい しんいちの肩をバシバシと叩く。


真一は、半ば無理やり連れてこられた新入生向け部活オリエンテーションの体育館の会場で、熱弁を振るうお調子者の相棒に「はいはい」と適当に相槌を打っていた。


真一自身、新入生の中では一際異様な空気を放っていた。


身長は170cmと大柄ではないものの、祖父の本居真造から叩き込まれた朧月流忍術と古流骨法の修行で練り上げられた肉体は、紺色の制服越しでも一目で分かるほど無駄な脂肪がなく、筋肉の密度が極めて高い。


短く刈り込んだ毛を少し逆立てたスパイキーなウルフカットの黒髪に、意志の強さを感じさせる鋭い一重の瞳。その冷徹な佇まいは、高校デビューで浮ついた周囲の生徒たちとは明確に一線を画す「本物の武」の静寂を纏っていた。


実は、真一にとって千鶴は従姉妹であり、幼い頃から厳しい修行の地獄を共にしてきた「実の姉」のような存在だ。


和雄のような軽薄な動機で近づく新入生を、規律を乱す者を絶対に許さない厳格な千鶴が最も嫌うことを、真一は嫌というほど知っていたが、あえて口には出さず、


(姉さんはお前みたいなチャラい奴が一番反吐が出るほど嫌いだろうけどな……)


と内心で哀れむに留めていた。


体育館の木床の上では、剣道部による模範演武が始まっていた。


千鶴が油の染みた袋竹刀を正中線に沿って構える。正面に構える通常の正眼せいがんよりも右半身に構える柳生青眼やぎゅうせいがんの構えを取るのが千鶴の流儀だった。


そこから放たれる神谷流古流剣術特有の予備動作を一切排除した鋭い踏み込みを見せるたび、体育館の空気が物理的に裂けるような鋭い衝撃音が響き渡るような気がした。


そしてその、無駄を排した滑らかな動きに、多くの新入生たちが完全に魅了されていた。


剣道部の圧倒的な熱狂の時間が終わり、次に板間のステージへと進み出てきたのは空手部だった。


カリスマ的な千鶴会長の直後という、新入生の意識が完全に持っていかれた極めてやりにくい空気の中、一人の女子生徒が凛として進み出てきた。空手部2年の――大川輝澄おおかわきすみだ。


自らも尊敬する千鶴先輩が作り上げた熱狂の余韻に、少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめ、はにかみながらも、彼女は伝統派空手特有の無駄のない足取りで中央へと歩み出た。


「……っ!?」


輝澄は普段は肩口より少し長いくらいのロングボブか、それを緋色のリボンでハーフアップにまとめる髪型が多いが、空手着の時には、動きの邪魔にならないように、リボンで髪を結び、ポニーテールにすることが多い。


その天然の茶髪の空手少女の姿をひと目見た瞬間、真一の全身の細胞に、自分でも説明のつかない激しい衝撃が走った。


従姉あねである千鶴のような冷徹なまでの絶対の「静」の鋭さとは違う。しなやかで、まるで春の太陽のような温かみがありながらも、足裏から頭頂部まで一本の芯が完璧に通った「武」の佇まい。ポニーテールに結い直された天然の茶髪が揺れる姿に、真一の心も揺れていた。


真一は、自分が当時の女子高生トレンドとは無縁の「一目惚れ」という感情の入り口に立たされたことに、まだ気づいていなかった。


「可愛い……しかも、CかD」


隣で和雄が得意のスタイル分析をしながら声を漏らす。


真一は「ま、まあ……たしかにちょっとは可愛いかな……」と、胸の動揺をウルフカットの奥に隠し、不器用に突き放すのが精一杯だった。


輝澄がマイクを握り、体育館に響き渡る凛とした声で語り始める。


「本校の空手部は、実戦的な空手をモットーとしています。なので、これから新入生の皆さんにそれを証明したいと思います。


腕に自信のある方は、流派を問わず私に挑戦してください! 見事、私を倒した方には、我が空手部のなけなしの部費である10万円をその場で差し上げます!」


10万円。1996年当時の高校生にとっては、MDプレーヤーや洋服が買い放題になる異次元の大金だ。体育館の場内が俄然、欲望で色めき立つ。


「へっへー! 10万かよ! スポーツ万能の俺様が行ってくるわー!」


和雄が弾かれたように前に飛び出した。


「何か、格闘技の経験はありますか?」


ヘッドギアを付けながら、輝澄が尋ねる。


「子どもの時に、正林寺拳法しょうりんじけんぽうの1級を取って茶帯でした」


と答える和雄。


武道によって細かな基準は様々だが、おおよそすべての武道段位において、初段(1段)から黒帯の帯同が許され、その後、2段3段と、段位はどんどん数字が増えていく。その前段階として、〇級というものがあり、こちらは習熟度に応じて逆にどんどん数字が減っていく。


正林寺拳法においては3級から1級が茶帯。その後が初段という形なので、和雄は黒帯の一歩手前ということになる。


「そうですかー」と相槌を打ちながら


(武道経験者なら多少、本気でいっても大丈夫かな)


などと考える輝澄。


防具を付けた二人が向かい合い、空手部主将・石井の号令で、体育館のマットの上で即席の自由組手が始まる。


「構え!」


「はじめ!」


和雄が勢いよく右中段回し蹴りをぶん回そうとした、まさにその始動の瞬間、輝澄の純白の足が最短距離の直線運動を突き抜けた。


せん」。相手が攻撃を始動したまさにそのコンマ数秒の起こり(予備動作)を完全に捉え、相手のパワーが最大化する前にこちらの直線的な攻撃を合わせる高度な技術だ。


引き手を極限まで引き絞った輝澄の鋭い前蹴りが、和雄の無防備な腹部を正確に捉え、彼は一発で真後ろへ吹き飛んだ。


この後の先には、単なる反射神経のスピードだけでなく、敵との遠い間合いの正確な把握と、相手の心理を読む「観の目」が要求される。


輝澄がこれを新学期一発目でしっかりと実践できるのは、あの暗器使いとの死線を経験し、ルールのある競技空手の枠を超え、武器にも対抗できる「実戦」の深い理を学び始めている確かな証左でもあった。


一方では、実際に生身で打ち合いを繰り返すために、組手をもっと経験する必要があるとも彼女は考えていた。


そのため、志馬を通して『極限空手』の川住尊かわずみ たけるを紹介してもらい、彼の道場へと出稽古に赴いて苛烈な組手を重ねることで、激しく打って打たれる実戦の経験値をも確実に引き上げていたのだ。


しかし、そんな一撃を受けても、10万円への執念か、あるいは下劣な男の邪念か。すぐに立ち上がった和雄は、半ば朦朧とする意識の中、「押し倒してやる!」と下卑た笑みを浮かべて掴みかかろうとする。


しかしその刹那、軸足を鋭く外側へ開いた輝澄の右足がムチのように鋭く跳ね上がり、ガードの隙間を縫って和雄の顎を正確に撃ち抜いた。


完全KO。一瞬、違う世界へ旅立っていた和雄だったが、慌てて駆け寄った輝澄の「大丈夫!?」という心配そうな優しい声で意識を取り戻した。


「やれやれ、何がスポーツ万能なんだか……お前は席に戻れ」


呆れながらも和雄を介抱するために近づいていた本居真一は、ブレザーのボタンを外し、その場に音もなく立ち上がった。意志の強そうな鋭い一重の瞳の照準を、ステージ中央の輝澄へと真っ直ぐに向けた。


「今度は俺がやる」


その体からは、先ほどまで和雄のバカ話に付き合っていた新入生としての初々しさが完全に消失し、戦場に立つ修羅の如き圧倒的な武の気配が溢れ出していた。


輝澄きすみと対峙する前、空手部主将から格闘技の経験を問われ、真一は事も無げに冷淡に答えた。


朧月流おぼろづきりゅう忍法体術を、生まれた時からやっています」


一瞬の奇妙な静寂の後、体育館が新入生たちの大きなざわめきに包まれる。


「忍者?」


「ドロンって消えるのかよ?」


と周囲から無知な野次が飛ぶ中、輝澄もまた少なからず困惑気味に「あ……そうなんだ……」と頷くしかなかった。


しかし、そのわずか数秒後、彼女は忍法体術として使われる古流骨法こりゅうこっぽうという「路上の現実における裏の武」の真髄を、自らの肉体をもってハッキリと知ることになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。