第17話:静かなる掌
昼休み、二人はいつものように、青空が広がる誠修館の屋上のベンチで、購買で買ったコロッケパンを齧っていた。
「……ねえ志馬、なんか数週間会わない間に、雰囲気ガラッと変わった?
上手く言えないんだけど、すごく……重心が落ち着いてるっていうか、武道の達人みたいなオーラが出てる」
格闘マニアの奨の鋭い問いに、志馬はブレザーの袖から出した自分の左掌をじっと見つめてから、少しだけ垂れ目を緩めて笑った。
「そうか? ……ただ、この二週間、クソ親父に自宅の居間でひたすら地味に立たされてただけなんだけどな」
「え、立たされてたって……喧嘩の件が学校にバレて、家で反省文を書かされてたとか?」
「我が家の修行だよ……今まで俺がどれだけ無駄な力を使って自分の肉体をいじめてたか、あの木造の床の上で思い知らされたよ」
志馬は、ベンチの足元のアスファルトの隙間に転がっていた、小さなざらついた小石を左指で器用に拾い上げ、そっと己の掌の真ん中に乗せた。
「奨。俺、今まで自分の体の中に流れるあの狂った力が、人を壊しそうで怖くて仕方なかった。
でも、今は……この力をどうやって骨格に通して使えばいいのか、そのコントロールの光が、少しだけ脳みその中に見えた気がするんだ。
……まあ、まだ巨大な蔵の扉の、ほんのわずかな隙間から中を覗いただけなんだけどな」
その、15歳とは思えない静かで重厚な親友の横顔を見て、奨は制服の胸の奥が不思議にゾワゾワとざわつくのを感じた。
大切な親友が、自分たち普通の高校生の日常の手の届かない、どこか遠い格闘の世界へ行ってしまうような寂しさ。
緊張と同時に、彼がようやく自分自身を呪い続けた天魔の血の運命を受け入れようと、前を向いていることへの絶対的な安堵。
「……格闘技の難しい術理はよくわかんないけどさ、志馬がそうやって前向きなら、僕は一番近くで応援するよ。
でも、あんまり無茶なフルパワーの特訓はしないでね。
また右手がグニャグニャのボロボロになったら、今度こそ輝澄に怒られちゃうよ」
「ああ、分かってるよ。あいつには、もう二度と、あんな絶望した顔で心配かけたくねえからな」
志馬がいつもの脱力した顔で笑った、まさにその瞬間――屋上の鉄扉の影から、皮膚をジリジリと焼くような、剃刀の刃のごとき鋭い視線がピンポイントで突き刺さった。
「……随分と、数週間で見違えるほどツラが良くなったじゃねえか。如月」
聞き覚えのある、剃刀のように鋭い低い声。
早乙女零緒が、指定ブレザーのポケットに両手を突っ込んだまま、ベンチの影の西日の中に直立不動で立っていた。
「早乙女……」
志馬はコロッケパンを食べる左手を止め、静かに立ち上がり、零緒の漆黒の瞳を真っ直ぐ見据えた。
零緒の逆三角形の完成された肉体からは、二週間前、屋上の踊り場で対峙した時を遥かに上回る、凄まじい「戦場の殺気」の威圧感が放たれている。
彼もまた、あの金山道場の闇で味わった、暗殺集団『念流裏座』の老人・富田英吉の放った化物の気配――あの圧倒的な絶望を糧に、柳生心眼流の過酷すぎる甲冑柔の闇の奥伝を、死に物狂いで潜り抜けてきたのだろう。
「あの暗器使いの化け物ジジイが放った『心の一方』の圧倒的な気配は、俺の壊し屋としての安いプライドを、完璧に粉々にへし折ってくれた……お前も、あの床の上で同じ底知れない絶望を味わったはずだ」
零緒はゆっくりと、足音を一切立てない暗殺の歩法で志馬に歩み寄り、その白く固定された右手の添え木を一瞥した。
「だが、お前のその垂れ目は、恐怖で死んじゃいねえな……次にお前と本気で立ち合う時は、その壊れた右腕を100%完璧に治してこい。
ストリートの三流の暗器使いでも、極限空手の川住尊でもねえ。この俺の柳生心眼流が、お前のその体の中の『天魔』の化物を、正面から直に捻じ伏せて、粉々に叩き壊してやる」
零緒は自身のポリシーの執念だけを冷酷に告げると、ブレザーの裾を翻し、一度も後ろを振り返らずに屋上の階段へと去っていった。
(……俺だけじゃない。あの日、あの小さな道場での体験から、それぞれが強くなるために変わろうとしてるんだな)
輝澄、零緒、そして、自分。
志馬は屋上の錆びついたフェンス越しに、1995年の少し汗ばむ初夏の広大な青空を見上げた。
かつて神話の英雄・后羿が、世界を救うためにその神弓で射落としたという燃え盛る太陽の眩しい光が、今は暴走を脱した志馬の静かな左掌の上を、優しく、そして熱く照らし出していた。
……
あれが、1995年の昼休みの屋上のこと、手記をしたためている今でも、昨日のことのように鮮明に覚えている。
天魔理心流という、古くから裏の歴史で人を壊すためだけに純粋培養されてきた暗黒の技術。
その血塗られた階段を正式に学び始めた彼は、確かに僕のよく知っている、パンを齧って笑う「如月志馬」でありながら……同時に、僕の手の届かない全く別の次元の『化物』へと、静かに変貌しようとしていたんだ。
当時の世間知らずな僕は、彼が呪いと向き合い、いわゆる「本格的な武道」の世界にその足を一歩踏み入れたことを、親友としてどこか誇らしく、格好良く思っていた。
やがて志馬の右手に巻かれていた白い包帯と添え木が完全に外れたとき、僕には彼の全体のシルエットが、以前よりも少しだけ、余分な力が抜けて小さくなったように見えた。
けれど、それは彼が格闘家として弱くなったことを意味してはいなかった。
世界を滅ぼすような荒れ狂う超巨大な暴風の嵐を、ガラスの小瓶の中に完璧に閉じ込めるように……彼は、自分の内側に深く潜む凶暴な『天魔』という名の獣を、その静かな、優しげな掌の中に、包み込み始めていた。
こうして、僕たちの高校1年生の日々は、怪我の治療回復と、それぞれの修行を見つめ直す内に、あっという間に過ぎていったのだった。
第一部『誠修風雲』の章 『高校1年生』編 完




