↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/57

第16話:静寂の練武

それから二週間、志馬しばの1995年の高校生活の放課後は、地味極まる『站椿たんとう』と、じょうから課された「奇妙すぎる基礎練習」に完全に明け暮れることとなった。


ギプスを当てられた右手よりも先に、左手の裂傷が修復されて使えるようになったある日の深夜、丈は自宅内の薄暗い道場に志馬を呼び出し、中央に鎮座する、一本の薄いクッション板が貼られた不気味な木人もくじんの前に立たせた。


木人とは、主に中国の広東省に伝わる詠春拳えいしゅんけんや、その影響を受けてブルース・リーが創始した截拳道ジークンドーなどの実戦武術において古くから用いられる、人間の腕や足を模した木の棒が突き出た木製の練習用具――『木人椿もくじんとう』である。


ルールなき実戦の距離感を養うために、相手のパンチやキックの軌道を想定した中心軸の崩し、および腕と腕が接触した状態から相手の出力を感知する接触技術を徹底的に鍛錬する目的で使用される。


「いいか、志馬。右腕の骨が完全にくっつくまで、当分の間は、絶対に拳を固めて握るな、てのひらだけで打て。お前が今まで校舎裏や道場でやってきたのは、脳内麻薬の出力に任せた単なる『力任せの破壊』だ。


これからはそのリラックスした掌の面を使って、大地の反発力を相手の骨の硬度をすり抜け、内臓や体の深部にまで『螺旋の振動波』として直接送り込む感覚を覚えるんだ」


志馬は最初戸惑いながらも、教えられた通りに全身の筋肉の力を抜き、左掌を木人のクッション板へとそっと添えた。


志馬は静かにフゥーッと下腹部の丹田から息を吐き、站椿で鍛えた足裏から螺旋のエネルギーをゆっくりと練り上げる。


掌が木人に接触した瞬間、パァンという皮膚が擦れる乾いた軽快な音ではなく、ズンッ……という、木人の強固な芯の内部の木分子を直接揺らすような、鈍く重い低周波の震動が走った。


「そうだ、拳を固めて力まず、完全な脱力のリラックスした状態から掌の面で波を伝える。これなら骨格による反作用が手首に集中せんから、自分の肉体への物理的な反動負担は半分以下に激減する。


表面的な一撃の外傷の威力は確かに落ちるが……お前が将来、本当に命がけで守りたい大切なものが目の前にできた時、その『完全に制御された内鳴りの一撃』こそが、すべての理不尽な宿命の道を切り開くはずだ」


志馬は、木人を打った自分の白っぽい左掌をじっと見つめた。


かつてあれほど自分の血脈を忌み嫌い、自分自身をも内部から壊し続けた『天魔』の暴力的な力が、今、生まれて初めて、父親のロジックによる自分の意志に従い、静かな脈動としてその掌の皮膚の下に宿っているのをハッキリと感じ取っていた。


数週間に及ぶ、文字通り汗まみれの『站椿』と掌打の反復基礎修行。


志馬の体からは、余分な肩の怒りや緊張が完全に抜け落ち、代わりに足裏から掌の指先までを最短距離で繋ぐ一本の骨格の「芯」が、目に見えない強靭な高層ビルの鉄骨のように通り始めていた。


「いいか志馬、お前の『引導』のフルパワーの出力は、まだ蔵の奥底の厳重な金庫の中にしまっておけ。


今の地味な骨格の修行は、将来その蔵の扉を、戦場で少しだけ隙間を開けた時に、中から溢れ出す天魔の暴風の圧力にお前自身の肉体が耐えられるだけの、強固な『外壁』を作っている段階だ。


焦って力を全開にすれば、またその壊れかけの蔵ごと木端微塵に吹き飛ぶぞ」


「……分かってるよ、親父。今は、この掌から木人に伝わる、静かな力の粒の感覚だけで十分に面白いからな」


志馬は再び自分の左掌を見つめた。


マメだらけの無骨な空手家の拳とは違う、しなやかで一見優しげな、しかし内部に確かな骨の重みを湛えた水のような掌。


まだ天魔理心流の本格的な殺人技は、左手一本では何も身についていない。


だが、自分の肉体を流れる格闘の力の「粒」のベクトルが、以前の暴走状態よりもはっきりと、まるで3Dグラフィックのように鮮明に脳内で感じ取れるようになっていた。


翌日、志馬は実に数週間ぶりに、誠修館高校の教室へと登校した。


指定ブレザーの右袖から覗く、右手首の痛々しい木製の添え木と包帯は相変わらずだが、ガラリと教室のドアを開けて入ってきた志馬のその全体的な立ち姿の雰囲気に、親友の水島奨みずしま しょうは思わず持っていたシャーペンを落として息を呑んだ。


「……志馬! 怪我、もう学校に来れるくらい良くなったの!?」


奨が眼鏡を揺らしながら小走りで駆け寄る。


志馬は「ああ、なんとか左手は動かせるよ」といつもの脱力した低い声で短く答え、自分の席に音もなく腰を下ろした。


だが、その椅子を引いて座るという何気ない日常の動作一つにすら、格闘技オタクである奨は、解剖学的な強烈な違和感を覚えた。


以前のやる気のない志馬なら、怪我をしていればもっと卑屈に猫背で肩を落とすか、あるいは逆に周囲を威嚇するように虚勢を張って荒々しくドカドカと振る舞っていたはずだ。


だが今の志馬の背骨は、無駄な力が1ミリも入っていないのに真っ直ぐに立ち、まるで深い霧のかかった森の奥にある静かな湖のように、不気味なほど、そして美しく落ち着いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。