第15話:本来の空手
「……志馬、入るよ」
聞き慣れた、けれどいつもより少しだけ湿り気と申し訳なさを帯びた声と共に、輝澄が静かに居間へと入ってきた。
右肩にぶ厚い白い包帯を巻き、純白のTシャツの襟元からは、痛々しい医療用のサポーターが覗いている。
いつも太陽のように笑う元気印の彼女のそんな弱々しい姿を見た瞬間、志馬の『站椿』の完璧だった骨格の姿勢が、動揺でわずかにグラリと揺れた。
「動くな。一点を見据えろ、軸をぶらすな」
すかさず丈の冷徹な竹刀が、志馬の震える脛をパシィンと鋭く打つ。
志馬は血が出るほど歯を食いしばり、汗で滑る足の裏で床板を必死に踏み締め直した。
「……輝澄。お前、その怪我、本当に大丈夫なのかよ」
「あたしは平気、これくらいかすり傷みたいなもん。それより志馬こそ……その右手、やっぱり、あたしのために……」
輝澄は、いきなり上半身裸の志馬を見て、恥ずかしそうに大きな目を伏せてはいたが、無造作に木製の添え木を当てられて固定されている志馬の腫れ上がった右手を見て、痛ましげに声を上げた。
あの夜、金山道場で志馬が自分をあの暗器の外道どもから助け出すために、どれほど肉体の限界を超える無理をしてくれたのか、彼女には痛いほど分かっていた。
「悪かったな、せっかくの道場をめちゃくちゃにされて、お前を完全に守りきれなくて……結局、お前を完璧に助けたのは、動けない俺じゃなくて、遅れてきた早乙女だったしよ」
「ううん、違うの志馬。あたし、あの日からベッドの中でずっと、自分のこれまでの武道について考えてた。
空手の全国大会を目指して、毎日毎日、道場で誰よりも一生懸命練習して……それが本当の『強さ』だと思っていたし、自分でも少しは強くなったつもりでいた。
でも、非合法の武器を持って、最初からこっちの命を奪いにくる本物の悪党の前では、あたしが今まで練習してきたルールのある『寸止め空手』は何の役にも立たなかった、何の抵抗もできなかった」
輝澄の瞳の奥には、ストリートの現実を知った者特有の、静かで深い覚悟の焔が宿っていた。
「でもね、道場に戻ってきた金山先生に、泣きながら全部相談したんだ。そしたら先生、あたしの頭を撫でて、笑って教えてくれたわ……もともとあたしたちがやってる沖縄の空手(唐手)のルーツは、江戸時代に鋭い日本刀を持った薩摩藩の示現流の武士に、武器を取り上げられた琉球の民が無手(素手)で対抗するために命がけで磨き上げられた裏の殺人術だったんだって」
「薩摩の侍に……素手で、か?」
「そう。あの『チェストォ!』っていう凄まじい叫び声と一撃必殺の初太刀で有名な、日本最高峰の戦闘集団を相手にね。
だから、スポーツ競技としてのルールのある空手は、その本来の深くて広い実戦技術の、ほんの表面の一部でしかないの。
金山先生にはね、これからはルールに縛られず、刃物や武器を持った相手にも完全に対抗できるような、空手本来の古流の術理や、琉球古武術の武器術そのものについても、これからもっと深く学ばせてほしいってお願いしたの」
「……てっきり、あの惨劇で恐怖して、もう空手なんてやめるのかと思ってたぜ」
「やめないよ、絶対に。むしろその逆。空手という武道には、自分の知らない命のやり取りの先がまだまだあるんだって分かって、あたし、不謹慎だけどなんだかワクワクしてるんだ」
輝澄は、站椿の姿勢で汗だくになっている志馬の瞳を、真っ直ぐに見据えた。
「さすがに今の道場で、刃物への具体的な対策を大っぴらに練習するのには限界があるから、先生には他の古流空手の道場への出稽古先も紹介してもらうことになってるの。
次にあの念流裏座とかいう外道どもが襲ってきたら、次はあたしが、空手の本来の力で志馬を護ってあげる……だから、頑張ろう。宿命に負けないように、あたしたち二人で」
輝澄がそう言って、少しだけ大人びた横顔で如月家を去った後、薄暗い居間には再び元の沈黙と苦い生薬の匂いだけが戻った。
志馬の全身の皮膚はすでに滝のような汗でぐっしょりと濡れ、視界は疲労の限界で白く霞んでいる。
だが、幼馴染の少女が提示してくれたその力強い言葉が、志馬の胸の奥底に、これまでのような呪いへの恐怖とは違う、熱く前向きな火を確かに灯していた。
(……そうだ。俺がこの内なる破壊の力に振り回されて自滅してる限り、誰も……輝澄の笑顔すら護れねえ。古代の后羿が世界の太陽を射落としてコントロールしたように、俺もこの体の中の『天魔の獣』を、完全にこの肉体で御してみせる)
「……親父。あと5分、いや、あと10分だ……もう一度、俺の骨格の姿勢を真っ直ぐ見てくれ」
志馬の声からは、先ほどまでの己の血脈を呪う卑屈さは完全に消失していた。
「へぇ……。女の一言でここまで目が変わるか。単純な奴だな、お前も」
丈はニヤニヤと締まりのない格闘オタク特有の笑みを浮かべ、愛用の竹刀を肩にポンと担ぎ直した。
「いやー、それにしても輝澄ちゃん、可愛く健気に、志馬なんかのためにわざわざお見舞いに来てくれるなんてさ。やっぱりお前には100年早い、勿体ねーな。
如月家の家系図からお前の名前をマジックで消して、輝澄ちゃんを俺の養女に迎えたいくらいだわ」
「……っ、うるせえクソ親父! さっさと無駄口叩いてないで姿勢のチェックしろよ!」
「はいはい、怖いねぇ……ほら、色気話をしてる間に骨盤が緩んで腰が浮いたぞ。そんな歪な馬歩(站椿)じゃ、后羿様が草葉の陰で見てたら情けなくて泣いちゃうぞー」
丈の相変わらずのおちゃらけた言葉に毒気を抜かれながらも、志馬の脳内における集中力は二度と途切れなかった。
床板を掴む足裏から生まれた僅かな大地の熱エネルギーが、関節の連動を経て、錆びついていた『通り道』をゆっくりと通り、ピリピリと震える指先へと静かに抜けていく。
天魔理心流の波動が、他者を無残に壊すための呪いではなく、自身の静かな命の連動として、志馬の肉体に少しずつ、確実に刻まれ始めていた。




