第10話:後の先
輝澄は、恐怖で震えそうになる拳をきつく握りしめ、心の中で祈るように、少年の名を呟いた。
「(志馬、お願い。早く来て……私の大好きな日常を壊させないで……!)」
英次の取り巻きである4人の生き残った男たちが、手負いの獲物を囲む猟犬のように輝澄へとじりじりと間合いを詰める。
しかし、大川輝澄はただ守られるだけの、か弱い女子高生では決してなかった。
輝澄は一瞬の膠着の隙を突き、腰を極限まで落とした最短距離の高速の踏み込みから、美しいスナップの効いた鋭い上段回し蹴りを放った。
先頭で油断していた男の顎の先端を的確に捉え、脳を物理的に激しく揺らされた男は白目を剥いて板間に沈んだ。
だが、大将の英次は動かない。
冷酷な笑みを浮かべ、捨て駒となった仲間の脱落を冷徹に観察している。
仲間が綺麗な一撃でやられたことで、残る3人の男たちは一気に警戒を強め、今度はタイミングを合わせて同時に攻めかかった。
一人の男が、ゆったりとした袖の中から遠距離特化の凶器――『鉤縄』を蛇のように放つ。
鋭利な鉄の鉤爪が、輝澄の道着の右肩口に深く食い込み、引っ張る力が彼女のしなやかな自由を奪った。
「――しまッ!」
強引に引き寄せられる肉体の勢いに合わせ、残る二人が左右の死角から暗器を構えて同時に襲いかかる。
輝澄は武道家としての咄嗟の判断で、道着の黒帯を自ら瞬時に解き、襲い掛かる男たちへ鞭のようにぶつけて投げ捨てた。もちろん威力などないが、目くらまし程度にはなった。
輝澄はその一瞬の隙に、上着ごと脱ぎ捨て、鉤爪の拘束から逃れ、距離をとって体勢を立て直した。
上着を失い、アンダーウェアである純白のTシャツ姿になった輝澄は、鍛え上げられたウエストの細さと適度に膨らんだ形のよい胸と、汗を吸って透けて見える下着のラインを男たちの視線に晒すことになった。
そのあまりに無防備で女性らしい体のラインを目の当たりにして、襲撃者たちの濁った瞳に下卑た劣情が混じり始めた。
「こりゃあ、倒された仲間の分も含めて、たっぷりお仕置きしてやらないとなぁ」
ニチャリと喉を鳴らす男たちを前に、輝澄は冷や汗を流しながらも冷静に戦況を分析していた。
厚手の道着の防御力を失ったことで、腕に生地があるのとないのとでは、特に刃物や鉄板への接触耐性がまったく違う。
リーチにも絶望的な差がある中、剥き出しの肉体で暗器の間合いを詰めることがこれほどまでに困難なのかと、彼女は内心で戦慄していた。
(正面からじゃ殺される……『後の先』で一瞬の隙を突くしかない!)
後の先とは、あえて己の肉体を的にして相手の攻撃を誘い、その動きの起こりの頂点に反応しつつ、相手の攻撃が届くより1ミリ早くこちらの攻撃を滑り込ませるという武道における究極のカウンターの理合だ。
鉄の鎖を頭上でブンブンと鎖を振り回す一人のタイミングを完璧に見切り、輝澄は死中に活を求めてその懐のデッドスペースへと一気に飛び込んだ。
遠距離で遠心力を利用して戦う鎖系の武器は、ひとたび最内懐に潜り込まれると構造的に極めて弱い。
格闘オタクなら誰でも知っているその武器の致命的な弱点を、彼女は的確に突いたのだ。
「はあああッ!」
引き手を極限まで引いた、金山道場仕込みの渾身の正拳突きが男の鳩尾を正確に撃ち抜き、さらに皮膚一枚で全威力を内部へと浸透させる追撃の連撃を叩き込んで2人目を沈める。
だが、確実に目の前の1人を減らそうとしたその「攻撃の欲」によるわずかな硬直を、冷徹なハイエナである英次は絶対に見逃さなかった。
「甘いんだよ、お嬢ちゃん」
英次の手から電光石火で放たれた『鎖分銅』が、輝澄が咄嗟に防御した前腕の肉に、意志を持つ蛇のように何重にも巻き付いた。
「あ……っ!」
圧倒的な力任せの張力で強引に引き倒され、道場の冷たい板の間に背中から激しく叩きつけられる輝澄。
そこへ、残る二人の非情な土足の蹴りが、無防備になった彼女の腹部と側頭部を容赦なく襲った。
「おいおい、せっかくの綺麗なツラに傷をつけるなよ。これからのお楽しみの価値が半減するだろ?」
英次が分銅の鎖を巻き取りながら下劣に嘲笑う。
腹部への容赦のない衝撃で横隔膜が硬直して肺の酸素が強制的に吐き出され、頭部への一撃で視界が激しく赤黒く明滅する。
(志馬……志馬……)
下劣な男たちの手が、Tシャツ姿の輝澄の身体へ伸び、絶望の闇が完全に道場を包み込もうとしたその刹那、入り口の木製扉の残骸が跳ね飛んだ。
「……はあ、はあ、……はあ……っ!」
そこには、肩を激しく上下させ、肺を焼き焦がすような全力疾走の果てに限界まで息を切らした如月志馬が立っていた。
志馬はいつも通り、ヘヴィメタルが好きな彼らしく黒いメタルTシャツを身に着けている。天秤を持った正義の女神が描かれており、METALLICA「...And Justice for All」(日本ではメタル・ジャスティス)のアルバムジャケットだった。
通常なら土田の足でも5分はかかる夜道を、血脈の暴走による狂気的な速度でわずか数分で駆け抜けてきたのだ。
「し……ば……」
輝澄は朦朧とする意識の淵で、しかし確かに、最も信頼し自分を救ってくれる世界で唯一の存在を捉えた。
恐怖に震えていた彼女の唇に、絶対的な安堵に満ちた微かな笑みが浮かぶ。




