恋とは何?
父親の登場という予想外の出来事はあったものの神白の質問には答え当初の目的を果たした俺が家路につきまばらに人の行きかう歩道を駅へ向かって歩いていると、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
些かいつもより俯きがちな気はするが、前方で揺れる蜂蜜色の髪や鳥羽田高校の制服から察するにあれは緋田原で間違いないだろう。
まあ、わざわざ声をかけるほどの仲でもないので、緋田原を見つけたからといってどうするわけでもないけれど。
俺が偶然見つけたクラスメイトの方を何とはなしに眺めていると、交差点に差しかかったところで前方の信号が点滅を始め赤に切り替わった。
周囲の人々と同じように俺も足を止め信号が再び切り替わるのを待とうとしたところで、なぜだか緋田原だけはのろのろとした足取りのまま歩みを続けていて横断歩道へ向かって一歩踏み出し……。
「って!? おい! 緋田原!」
慌てて緋田原の方へ駆け出し、彼女の腕を掴んでから歩道側へ引き寄せる。
「え? 藍川? なんで……」
緋田原は驚いた様子で瞬きを繰り返しているけれど、突然のことで驚いてるのはこっちの方だ。
「なんでって、信号! 赤だぞ」
「あ……」
ようやく赤信号に気づいたらしい緋田原が気まずそうに黙り込み、その前を徐々にスピードを上げ始めた車が次々に通り過ぎていく。
「お前、大丈夫か?」
「……大丈夫。ちょっと、ぼうっとしてただけよ」
本人の台詞に反して、力なく俯いている今の緋田原は全然大丈夫そうに見えない。
「面倒かけて悪かったわね」
そう言ったきり、緋田原は俺に背を向け黙って信号が切り替わるのを待ち始めた。
一応、本人が大丈夫と言ったんだから俺がこれ以上お節介を焼く理由もないのだが、さりとてこんな状態の緋田原を放置するのも気分的にすっきりしない。
元々、緋田原とは最寄り駅が同じでたまに電車で見かけていたし、直接どうこうしないにしてもせめて電車から降りるまでは様子を見るか。
◇
緋田原が座っている席の近くに立って電車に揺られながらたまに横目で彼女の様子を眺めていると、緋田原はそれまで足元に落としていた視線を上げ俺とはっきり目を合わせてから仕方なさそうにため息を吐いた。
「はあ。隣、空いてるし座ったら?」
先程本人の口から大丈夫と言われた手前、微妙に気まずく感じる部分もあるけれど。
この距離で偶然を装うのも馬鹿げているので、大人しく緋田原の隣へ腰を下ろす。
「私、そんなに危なっかしく見えた?」
「まあ、かなり」
「そっか。ま、そうよね」
本人にも自覚はあるようで、どうやら緋田原は俺のことを咎めようと思って声をかけたわけではないらしい。
「ねえ、この後時間ある?」
「あるけど」
「そう。じゃあ、ちょっと付き合ってくれない?」
緋田原の声音は白々しいほどに明るくて、やはり気になってしまったので俺は彼女からの誘いに対し首を縦に振った。
◇
緋田原に連れてこられたのは俺たちの最寄り駅から十分と歩かずにたどり着ける喫茶店で、以前から店の存在自体は知っていたもののこうして中に入るのは初めてだ。
個人経営であろう小さな店だが、内装は清潔感があり雰囲気は悪くない。
「私はブレンドコーヒーとナポリタンとチョコレートパフェで。藍川はどうする?」
「あー、俺はブレンドコーヒーだけで」
緋田原が思っていたよりもがっつりと食事をする気らしいことに少々面くらいながらも注文を済ませ、改めて彼女と向かい合う。
こうして見ている分には教室で見かける姿と大差ないように見えるけれど。
流石の俺でもそれが見せかけに過ぎないのは想像がつく。
「さてと、何から話そうかしら。やっぱり、藍川が気になるのはなんで私が信号にも気づかないくらいぼうっとしてたかよね」
「それはそうだけど」
「まどろっこしいのは嫌いだから結論から言うわ。私、失恋したの。心ここにあらずだったのはそれが原因ね」
「失恋……それは、なんというか」
「無理に慰めなくてもいいわよ。藍川に付き合ってもらったのは誰でもいいから話を聞いて欲しかっただけだし」
あっけらかんとした口調で不調の原因を語る緋田原に対し、俺はなんと言うべきか咄嗟には思いつかず間の抜けた台詞を漏らすことしかできなかった。
言われてみれば失恋というのは本人とっては相当にショックなことだろうし、理由として十分にあり得るものだろう。
俺だってそのくらいのことはわかるけれど。
生憎と俺は今まで特段誰かを好きになったことがないし、失恋のショックというのも想像を巡らせたところで上手く像を結ばない。
仮にここにいるのが緋田原の友達の女子とかだったなら傷心の彼女に共感してもう少しマシな台詞を言えたのだろうけど。
俺の場合はよくわからんが本人は辛いんだろうなとしか思えない。
とはいえ、緋田原もその辺を俺に期待しているわけではないようだし、変に取り繕って思ってもないことを言っても仕方ないか。
「私、稲田会長のことが好きなのよ」
運ばれてきたコーヒーで口を湿らせてから語り出した緋田原の想い人の名前は我が校の生徒会長のものだ。
神白曰く緋田原は生徒会に入ってるらしいから、接点ついては疑問を差し挟む余地がない。
「それとなくアピールしてみたり、まあいろいろやったんだけど。どーにも手応えなくてさ。正直勝算は低いだろうなーと思いながら告白してみたら、案の定ダメだったわけ」
「それで今は傷心中と」
「そ。本当はさー、成功する見込みがないのは最初からわかってんだから、振られてもスッキリして次の恋に行けるでしょとか思ってたんだけど。実際に私じゃダメなんだって突きつけられると、結構クるのよ。なんか、もう何をする気力も湧かなくて、あんな状態になっちゃった。馬鹿よね、ほんと」
自虐的な笑みを溢してから、緋田原がやけくそ気味にナポリタンへ口をつける。
確かに、今の緋田原は強いショックを受けて平常ではいられなくなっているのだろう。
それは本人にとって辛く苦しいことで、大して仲良くもない俺なんかに愚痴をこぼさなければやっていられないくらい追い詰められた状況なのだと思う。
でも、やっぱり俺では緋田原の気持ちに共感できない。
他人に振られることが、そんなにも重大なことなのだろうか。
当たり前だが、異性に振られたところで学校の成績が下がるわけでも手持ちの金が減るわけでもない。
もしかすると多少人間関係がぎくしゃくすることはあるかもしれないが、基本的にはその相手と恋人になることはできなくなるというだけだ。
どうして、緋田原はたった一人に恋愛感情を持たれていなかったことでここまで感情を揺さぶられるのだろうか。
恋してるから?
じゃあ、恋とはなんだ。
周りとの人間関係を揺るがしこんな風に追い詰められるくらい入れ込むことが恋だというなら、それはあまりにもバランスを欠いている。
少なくとも教室での緋田原は周囲とのバランスを取ることが俺なんかよりよほど上手かった。
そんな彼女がなぜ?
頭の中を埋め尽くしそうになっているこの疑問が本来必要ないものだというのはわかっている。
本人に言われた通り、ただ聞き役に徹し緋田原が愚痴を吐き出し終わるのを待つ。
それが正解のはずなのに、まるでどこぞの変人が自分の理解できない普通を尋ねるかの如く、俺の口は余計な疑問を言葉として紡ぎ始めていた。
「なあ、緋田原はどうして稲田会長のことを好きになれたんだ?」
ほとんど無意識に口に出した俺の疑問を聞いて、緋田原は驚いた様子で目を瞬かせた。




