9
目が覚めて、窓から差し込む日差しが眩しくて。僕は寝返りを打とうとした。のだが。腰が動かない。
「兄さん、もうお昼ですよ?」
不思議なことに、未耶の声がする。まだ夢でも見てるのだろうかと、もう一眠りしようとしたところで僕の下半身は押し潰された。
「痛い……」
致し方なく目を開けると、未耶が僕の腰の上で全体重を預けていた。
「おはようございます」
「おはよう……。未耶、一旦退いてくれ」
「嫌です」
「嫌って。あのな、男の子の朝は大変なんだ。特に下半身が」
「いいじゃないですか。ちょっと固いくらいで私は気にしませんよ?」
「僕が気にするんだけどな」
「兄さんも立派な男の子ということで。私は嬉しいです」
未耶がまた体重をかける。僕の下半身は悲鳴を上げていた。
「いたい、痛いから、潰れちゃうから……」
「もう、しかたないですね」
やっと未耶が退いてくれたのだが。今度は布団の中に入ってくる。
「暑い」
「私は温かいです」
暑苦しいから追い出そうかとも思ったが。まあ、いいか。
「兄さん。最近すっかり夜型生活ですね。夏休みだからってだらしないですよ」
「そう言うなって。僕にも色々あるんだ」
「楓さんですか? 兄さんにしては人付き合いがいいですね」
「それも、まあ。色々あるんだ」
未耶は僕に頭を擦りつけてくる。
「でも、もうちょっと私に構ってくれてもいいんじゃないですか?」
「今構ってる」
僕は未耶の頭を撫でる。すると、未耶は満足そうに顔を綻ばせていた。
「兄さん、そろそろ起きませんか?」
「やだ」
「今日のお昼はパンケーキを焼いたんです。一緒に食べましょ?」
そう、可愛くおねだりされると。断り辛い。
「……わかったよ」
僕はのそのそとベッドから起き上がる。
「兄さん」
未耶はベッドに座り込んだまま手を広げていた。
「はいはい」
僕が未耶に背中を向けると、未耶は僕の背中に乗っかる。
そうしておんぶしたまま、僕たちは一階まで降りた。
リビングに入ると、未耶が昼の準備を進めてくれる。僕はといえば、スマホ片手に椅子にふんぞり返っていた。妹がいる生活って最高だな。
そういえば、夜凪さんがお昼に誘って来るかもしれないと、僕はメッセージアプリを開く。すると、夜凪さんから一件連絡が来ていた。
『しばらく散歩はなしね』
と。突然の連絡だった。僕、なにか気に障ることでもしただろうか。とりあえず返信してみる。
『それはいいけど、なにかあった?』
数十秒待って、返信が来た。
『別に』
なんとも返し辛いメッセージだった。僕は考え込んで、悩んだけれど。未耶のお昼の準備が済んだから。既読だけつけて終わることにした。
「いただきます」
未耶と一緒に、僕も手を合わせる。
シロップをたっぷりかけて、僕はパンケーキを口にした。
「美味い」
「私が作ったんだから当然です」
未耶は自信たっぷり、シロップもたっぷりだった。流石は僕の妹だ。家でのパンケーキの食べ方というのをよく分かっている。
「そうだ兄さん。今日はお暇ですか?」
「暇だけど」
夜凪さんも誘ってこないようだし。
「なら出かけましょう。そうしましょう」
「いいけど。どこ行く?」
「私、プールに行きたいです」
「プールか……。まあいいけど」
未耶の水着姿は、きっと眩しいから。
「あ、そうだ未耶。セナも呼んでいいか?」
「いいですけど。兄さん、えっちです」
「まて未耶。僕はまだ何も言ってない」
「じゃあ違うんですか?」
僕は言い淀むことなく答えた。
「未耶はセナの胸。見たくないのか?」
「見たいです」
即答だった。流石は僕の妹だ。
「よし。決まりだな」
僕は早速セナに連絡する。すると返事はすぐに来て、『いいよ』とのことだった。
「いいってさ」
未耶は見るからに喜んでいた。
「やった。三回はセナさんを揉みます」
「僕も」
「兄さんは駄目です。ライン越えです」
「駄目かあ……」
そんなくだらないことを言いながら、僕はメッセージアプリの画面を再度見つめる。夜凪さんとのトーク画面が気になりながら、今は考えないことにした。
*
夏の日差しを舐めていた。
近場の市民プールにやって来たはいいものの、更衣室の前で待っている間、僕は全身で日を浴びていた。暑い。そして夏休みということもあってか、人も多くて。なんだかもう帰りたくなっていた。
だが今を耐えれば未耶と夏の思い出ができる。そう思えばの日差しも悪くないのかもしれない。
それからひたすら待っていると、更衣室から未耶が出てくる。
「兄さん、お待たせしました」
僕は神に感謝した。未耶の兄でいることに。
未耶の水着姿はそれはもう神々しかった。花柄の、フリルがあしらわれたその水着姿は人が見れば卒倒寸前。間違いなく世界一可愛い。普段は下ろしている髪も纏め上げられていて。もう。堪らないよ。
「未耶。兄さん、生きててよかった」
「もう、大袈裟ですね。でも、ありがとうございます」
未耶はお礼と言わんばかりに腕に抱き着いてくれる。ああ、天国……。
「相変わらずだね、律」
横から呆れた声が聞こえる。誰かと思えばセナだった。
「なんだセナか。遅いぞ」
「その態度の差。どうにかならない?」
「ならん。妹に生まれ変わるとこからやり直してくれ」
「君の妹とか死んでも嫌だね」
セナは真っ白なビキニで、そのプロポーションを余すことなく活用していた。まあ、なかなか、褒めてやらんこともない。
「さあ未耶ちゃん。どこから遊ぼっか」
セナは僕なんて眼中になく、未耶に甘々だった。
「セナさん、とりあえず揉んでいいですか」
「いいよ」
未耶は彼女のその豊満な胸に手を伸ばす。指先で触れて、それから鷲掴みにして。その感触に感嘆していた。ので、僕も挑戦してみようじゃないか。
「セナ、僕も揉んでいいか」
「どうぞ」
「駄目です」
未耶に手を叩かれた。何故だ。ただ揉むだけなのに。
「未耶ちゃん、行こっか」
セナは未耶の手を引いてプールの中に入っていく。僕は蚊帳の外だった。二人が話に花を咲かせて完全に僕がいないことになっている。
おかしい。なんだかむかつくし、折角の未耶との時間が無駄に過ぎ去っていくのも納得がいかない。ので。持ってきたボールを彼女の頭目がけてぶん投げた。
「いたっ」
セナの頭に直撃する。
「律、これはどういうことかな?」
「なに、ちょっとむかついて」
「心狭くないかな⁉」
セナから反撃のボールが飛んでくる。僕がそれを手で掴むとそれはもう悔しそうだった。
「くそっ」
「態度悪いな」
「未耶ちゃん取られて嫉妬する方がどうかと思うけど?」
「別に嫉妬とかしてないし!」
もう一度投げる。そして顔面に直撃した。そう、セナは基本的に運動神経が悪いのだ。
「もう兄さん。あんまりセナさんを虐めないでください」
未耶に窘められてしまった。
「虐めてないし。遊んでるだけだし」
「言い訳が苦しいです」
未耶はセナからボールを受け取ると、僕目がけて高く打ち上げる。正しいプールでの遊び方だった。
「兄さん。セナさんに強烈なのはなしですからね」
「わかったよ」
僕はセナに優しく打ち返す。
三人でほのぼのボール遊び。僕はセナの胸部と未耶を行ったり来たり。大変微笑ましかった。
「そういえば律」
セナからボールが飛んでくる。
「今日は夜凪さん、連れてこないのかい?」
なんだか余計なことを言い出した。
「あ、もしかして楓さんですか?」
未耶まで話に入ってきてしまう。
「知らないよ……。僕に聞かれても困る」
僕はボールを打ち返す。全く、ぶつけたボールの仕返しだろうか。
「連れてくればよかったのに。私、話聞いてるだけでまだ会ったこともないしさ」
「私も、会ってみたいです。後お姉様って呼ばせてほしいです」
セナも未耶も。好き勝手言うけれど。僕と夜凪さんはそういう関係ではない、と思うから。
「来るわけないだろ? 君たち何を想像してるか知らないけど、夜凪さんは散歩仲間なの」
「でも兄さん、男女の関係は進展してこそですよ?」
「しません」
「でも律、仲は良いんでしょ?」
「そこまでよくありません」
「じゃあ兄さん、もっとお近づきになりたいとか思わないんですか?」
「わかりません」
「じゃあ律、夜凪さんの水着姿見たかった?」
「……言えません」
「兄さん、今の間は肯定と捉えてもいいですか?」
「よくありません」
「律、顔がにやけてるよ?」
「にやけてません!」
「ところで兄さん、楓さんのことは好きですか?」
「答えられません」
「ところで律、私と夜凪さん、どっちのを揉みたい?」
「えっと」
続いていた会話とボールのラリーは、僕の顔にボールが落ちて途切れた。
「そっか。そこで悩むのか」
セナが一人で頷いている。
「おい。勝手に納得するな」
「でも、悩んだよね?」
「……なんのことかな」
「兄さんは基本的に隠し事が下手ですからね」
未耶は一人で嬉しそうにしていた。兄さん、まだお前に姉を作る気はないのだけれども。
「とにかく。僕にやましい気持ちは一切ないから」
「どうだか」
「そこ、うるさい」
セナがあからさまにキモかった。
「でも兄さん」
未耶が神妙な顔つきになる。
「なんだよ」
「……いえ、やっぱりなんでもないです」
「なんだよ。気になるだろ」
「私は未耶ちゃんの言いたいこと、なんとなくわかるよ?」
未耶の隣で、セナはまた頷いていた。二人で完結しないでほしい。気になりだしてしまうじゃないか。
「まあいいじゃない。そんなことより律、飲み物買ってきて」
セナは未耶の手を引いて、僕を置いて遊びに行った。
僕が言われた通りにすると疑わないその姿勢。感服するよ。
*
とはいえ。僕は素直で従順なので。大人しく飲み物を買いにきていた。
どれがいいかと、そういえば僕はセナの好みは知らないし、多分何を選んでも文句を言われる。夜凪さんのは知ってるのに。因みに勿論、未耶のも当然知っている。
僕は基本、臆病だ。だから、人と付き合わない。
未耶とセナに酷い質問責めにされたけれど。改めて考えると、夜凪さんが今日ここにいたら、どうだろうか。ちょっと想像してみよう。
とりあえず、水着は黒がいいな。髪型も未耶とお揃いにしてくれたらそれはもう目に良いこと間違いない。あの銀髪は、きっと煌めく水面と相性がいいんだろう。夜凪さんは案外アクティブだから、僕が無茶な遊びをしても付き合ってくれそう。僕がセナの胸部に目を奪われて、それを揶揄ってくれたりなんかしたら、僕は言い訳を並べたりなんかしてしまって。それか、自分の可愛さに自信を持っているから、地味にプライドが傷付いたりして。
なんだか、楽しそうじゃないか。
よくよく考えると、夜凪さんとの時間はどれも楽しかった気がする。ちょっと振り返ってみようか。
よく散歩をした。僕の過去と愚痴を打ち明けた。くだらない話もした。
そして、彼女の秘密を知った。
彼女は、僕が信じてくれそうだから教えてくれたらしいけれど。まあ、そこそこの信頼があったのだと、思いたい。僕もまあそれなりに、信頼はある気がする。まだ出会って間もないのに。どうしてだろうか。
彼女は、不思議なのだ。言葉にできない、浮遊感とでもいうのだろうか。地に足がついていない感覚がある。それがどうにも放っておけなくて。目で追ってしまって。
それに彼女との会話は、とてもシンプルだけれども。楽しいのだ。僕が何を言っても彼女は軽妙に返してくれそうだ。
セナのせいだろうか。夜凪さんのことばかり考えてしまうじゃないか。
と、思い至った。未耶が言いたかったこと。
僕の中で、彼女が、夜凪さんが特別な存在になっているのだと。そういうことが言いたかったんじゃないだろうか。
だってそうだろう。夏休み返上で彼女に付き合っているのだ。そうじゃなきゃ、客観的に見て説明がつかない。
じゃあ主観的に見たらどうだろうか。彼女は、特別なのだろうか。
少なくとも、どうでもいい存在ではないだろう。
けれども、僕は臆病なのだ。
だから、一旦。考えるのをやめてしまおう。
*
今日は良い日だった。
何故かって、一日中未耶と遊べたのだから、これで不満があるとするなら、贅沢。求め過ぎだ。
ウォータースライダーとか、流れてくれるプールだとか。色々と遊んだ。それに、未耶の水着姿も堪能できたことだし。僕は今、幸せに満ちていて。
だから、セナの一言は、僕を現実に引き戻した。
「あのさ、彼女のこと、やっぱり好きなのかい?」
遊び終えて、休憩しているときだった。未耶がいない隙に、セナは聞いてくる。
「彼女って?」
「言わなきゃわからない?」
「……そうだな、わかっちゃうな」
僕が、今さっき、考えるのを先延ばしにした問題を突きつけてくる。どうやら逃げるのは許されないらしい。
「さっきはふざけ半分でおちょくっちゃったけどさ。どうなの? そこのところ」
「言わなきゃ駄目か?」
「駄目ってことはないけど。気にはなる」
日陰で暗いセナの目元は、遠くを見つめていた。
僕は、正直。なんて言えばいいのかわからなかった。それを告げればいいのだろうか。そんな、曖昧な答えでいいのだろうか。
「わからない、ってところかな」
彼女は僕の内心を言い当てる。こういうところがあるのだ、こいつは。頭が良くて、色々とお見通しで。
「そう。わからないんだよ。僕は彼女のこと、まあ。悪くは思ってないけどさ」
僕が曖昧なままでいると、セナは直球で聞いてきた。
「そういう関係になりたいの?」
「……あのさあ」
「ごめんて。でも許してくれよ。私からしたら、こう聞くしかなくてさ」
「もうちょっと遠回りしたらどうなのよ」
「君が遠回りしてるのに、私までし始めたらどこにも辿り着けないよ。そう、簡単に言葉にしなくたっていいけどもさ。愛着とか、単純に好意とか、敬意とか、はたまた愛憎でもいいのかもしれない。律の中に、それらに収まりきらないものは、あるのかい? あったらなら。……妥当な言葉が見つからないけど、簡単に言えば。それは君の唯一無二なんじゃないかな」
それも、おっしゃる通りで。
僕は真面目に思案してみた。
「……そういう関係、には。なりたいのかなあ……」
「全く、埒が明かないね」
「だって」
「だってじゃないよ」
「……」
「黙るな」
そうは言われましても。
「少なくとも。僕たちは今、そういう関係でないよ。で、そういう関係にしたいのかと言われれば。今のところしたいとは思ってない、かな」
「そうなの?」
「そうなの」
単純なことだ。実のところ、僕は今に結構満足している。それ以上望む気がない。といったところで。
そもそも、夜凪さんも僕をそういう目で見てない気がするし。
「じゃあさ律」
セナは僕に視線を向ける。その目は、何となく。冷たかった。
「私とだったら。どう?」
「どうって。……なにが」
「言わせるの?」
彼女は僕に迫ってくる。惜しげもなくその身体を有効活用して、僕に迫ってくる。
「……僕からも言おう。全部言わせるのか?」
「……そう。そうだね。律はそうだよ」
彼女は身体を引っ込める。
僕は臆病なのだ。だから、夜凪さんとも、変わらず続けたいし、セナとも変わらず続いていくんだろう。
きっとそうなのだ。




