10
僕はどうやら、夜凪さんに大分と偏っていたらしい。長い夏休み、夜凪さんも誘ってくれないから何かすることはと、探してみたのだけれど。これと言って何もないのだ。強いて言えば、部屋に籠って読書。ただそれだけじゃ飽きてくる。
よって、外に出てみた。だが一人だと暑さにばかり意識がいってしまって。僕はすぐに近場のショッピングモールに逃げ込んだ。
その涼しさに身体が休まり、足を運んだ墓所は、書店だった。読書以外の何かを探しに来たのに。結局こうなるのか。
気になる本を幾つか立ち読みする。
気になる小説があったから、手を伸ばした。すると、大変ベタなことに、他の人もそれが欲しかったのか、手がぶつかった。
「あ、すいま、せん……」
僕は戦慄した。いや、相手もしていたのだろう。
僕たちは本に手を伸ばしたまま固まってしまっていた。
「…………久しぶりね」
件の相手が、そう話しかけてくる。僕は、返事しない訳にもいかなかった。
「久しぶり、雪菜」
「名前で呼ばないで、寒気がする」
僕が雪菜と呼んだ少女。髪を疎らに桃色に染めた、フリルの着いた、少女らしい恰好をした彼女は、なんというか。そう、今は古い知人とでも言うべき相手だろうか。
僕は頭を掻くしかなかった。
とりあえず、目的の本を取って彼女に渡す。するとどうだろうか。汚いものでも扱うように、彼女は本をひったくる。
「売り物なんだからさ」
「うるさい、喋るな」
とんでもなく刺々しい態度だった。だが、それもそのはずなのだ。
僕はとりあえず出会ってしまったことは棚に上げて、立ち読みを再開した。そして困ったことに、どうしてかは知らないけれど、彼女も横で読み始めてしまった。
彼女は、杠雪菜は。まあ。言ってしまえば、僕の元彼女なのだ。中学の三年間、僕の青春を捧げた相手。
前に夜凪さんにも言ったけれど、彼女は随分と横柄な態度を取る女性だった。そして僕はそれに応えるのが当たり前になっていた。
付き合ったきっかけはどうだっただろうか。確か、本人は認めなそうだけれども、初めは彼女のほうからアプローチして。そうして仲良くなって、告白されて。そう、無難な始まりだった。始まりはなんてことなかった。
だが最悪なのは別れ際だった。元々、別れる前から不満は溜まっていたのだろう。僕が理想と違うとか、私の気持ちを汲んでくれないとか、察してくれないとか。そんなことを言われた。そして最後は、とんでもなく暴言を吐かれた。ゴミとかクズとかはいつものこととして。陰険野郎、とか。すかすな、とか。存在が終わってる、とか。お前といると空気が汚染される、呼吸ができないとか。本当に散々な言われようだった。だが僕は慣れたもので。いつものことだったから軽く流した。今考えるとそれが良くなかったのかもしれない。彼女はきっと、反発して欲しかったのだろう。期待に応えてほしい男、寄り添いたい男として、何か、少しでもらしいところを見せて欲しかった。そんなところだろうか。
だが甘い。僕は弱いのだ。弱かった、とても。彼女のエネルギーに応えられなかった。
けれども。今思えば、楽しい思い出も多かった。よく出かけたし。会話はいつも彼女の一方通行だった気がするが、それも楽しかった。僕の貞操は守られたままだが、触れ合いもしたし、そういえば、一緒に寝たこともあったっけ。中学生にしては進んでいた。
そうだな。今思えば、彼女はちょっとエッチな女の子だったかもしれない。そういうところも相性が良かったんだろう。
それから、本の趣味もよく合った。先ほども、同じ本を手に取ろうとしたわけだし。お互いの部屋で、ひたすら本を読むだけのデートもした。親がいない日をお互い見計らって。
彼女の手の体温は、どんなものだっただろうか。今じゃ思い出せないけれど、それはそれでいいかと、思わなくもない。
こうして思い返してみると、本当に、本当に激しい女性ではあったが、とても良い子だった。また、今になって付き合ってみたらそれはそれで楽しいかもしれない。ただ、もう僕にそんな気はないし、彼女にもないだろう。
だから、今僕たちはとても微妙な関係なのだ。一応未耶が持っているけれど、お互い連絡先は消したし、高校が違うから会うこともないし。もう出会いたくなかった関係、といったところだろうか。
と、ここまで。耽って。僕は彼女を横目で観察する。どうして彼女は僕の横で立ち読みなんか始めてしまったのだろう。だが、ここで僕からいなくなるのも負けた気がするから、退くに退けない。
どうしたものかと悩んでいると、彼女が口を開いた。
「あんま見ないで、うざいんだけど。殺したくなる」
相変わらず、口が悪かった。そしてなぜ見られているとわかった。怖いんですけど。
「……どうして僕の横に居座る」
「は? あんたが勝手に消えればいいんじゃない?」
「僕は今読書に勤しんでるんだ」
「あっそ、奇遇ね」
どうやら、彼女は退く気がないようで。僕は溜め息なんかが出てしまう。
「なんであんたが嫌そうにすんのよ」
「そりゃ嫌だろ。逆に雪菜は」
「だから名前で呼ばないで」
「……杠さんは嫌じゃないの? 僕と居て」
「私はね、あんたなんかのせいで自分の行動が妨げられたくないの」
「奇遇だな、僕もだ」
「そう、じゃあ消えて?」
「僕の話聞いてた?」
「あんたの話なんか聞く価値なくない? いいから早く帰りなさいよ」
「決めた。今決めた。絶対帰らない」
彼女の肘が僕の脇腹に飛んでくる。結構痛かった。
「あのさ……」
「なに?」
「君、僕がやり返したら烈火の如くキレるよね?」
「当然じゃない。女の子に手出そうとするなんて最低ね」
「男女平等の観点は?」
「女の子は優遇される生き物なのよ。知らなかった?」
「それは君の中だけだろ?」
「そう。私は何事においても優遇されるの」
なんて傍若無人なんだろう。
「君は」
「その君ってのもやめて」
「……杠さんは」
「名字で呼ばれるのもなんかきもい」
「……」
「やっと黙ったわね」
「僕は君と別れられて幸せだったらしい」
今度は容赦のない蹴りが僕の足に飛んでくる。めちゃくちゃ痛かった。
「雪菜……、手加減して……」
「今のはあんたが悪い」
それもごもっともで。
僕は反省したところで、次に気になっていた本を手に取る。
「あんた、最近どうなの」
雪菜は心底鬱陶しそうにしながらも、僕の近況を聞いてくる。
「どうって。そうだな。変わりないよ。毎日未耶がいて幸せだ」
「まだシスコン治ってないのね」
「治す気もないからな」
「それで?」
「それでって。他には……。ああ、ちょっと変な女の子と知り合ったよ」
「やらしいことしてないでしょうね」
「それはセナだけだって」
「それもどうかと思うけど。で? どんな子なの」
「だから、ちょっと変な子。ああでも、可愛いよ。君と同じくらい」
「あんた面食いだもんね」
「否定はしないけど」
「口ぶりからすると、仲良くなったの?」
「それはもう。僕の勘違いじゃなければ。僕の夏休みは充実しているよ」
「へえ」
聞いてきた割には、気のない返事だ。
「雪菜はどう? 最近」
「変わらずよ。あんたと別れてからずっとつまんない人生だわ」
「それは悪かったね」
「後、男への憎悪が増すばかりね」
「じゃあ女の子とってのはどう?」
「それもありかも」
「ところで雪菜。聞きたいんだけどさ」
「なに? 内容次第では殺すわよ?」
「真面目な話だから……。さっきは充実してるって言ったけどさ、つい最近、その子が暫く会えないって言ってきたんだ。どう思う?」
「どうって。……そうね、愛想が尽きたんじゃない?」
「そんなはずはない」
「言い切るところがきもい。でも、そうじゃないならそれなりの理由があるんでしょ。わざわざ会えないって言うくらいだし」
「それは僕にもわかるよ。もっとこう、女子の視点からの意見が欲しい」
「そんなのない」
「役に立たないなあ」
彼女の足が僕の足を踏みつぶす。とても痛かった。
「だから痛いって」
「私が悪いって言いたいの?」
「いえ、僕が悪かったです」
「それでいいのよ」
彼女は読んでいた本を閉じる。
「あんたがどうしたいかじゃないの?」
「というと?」
「会いたいならあんたから誘えばいいのよ」
僕は言葉を失った。
「……。そうか。確かにそうだ」
「バカなの?」
「いや、失念してたんだよ」
いつも、夜凪さんに誘われてばかりだったから。そういうものだと勝手に思い込んでいた。
「ありがとう雪菜。今日君に会えてよかったよ」
「あっそ」
彼女は買う本を決めたのか、そのまま僕の元を去ろうとする。それを黙って見送る、つもりだったのだが。僕は大事なことを思い出した。
「雪菜」
「なに」
面倒そうに彼女は振り返る。そんな彼女に、これを言うのは憚られるが、言うしかなかった。
「あのさ。実は僕、今日財布を忘れたんだ」
「……」
「……」
彼女が僕に近づいて来る。そして黙って僕のお腹に握った拳が突きつけられた。
「痛い……」
「何冊?」
彼女は聞いてくる。僕は臆することなく答えた。
「五冊」
もう一度拳を食らったのは、言うまでもなかった。




