11
「これは難しいな……」
僕は難儀していた。ベッドの上でごろごろと、スマホを眺め続けていた。
僕はこれまでの人生において、受け身なのがほとんどだったのだ。よって、自分から夜凪さんを誘うのが大変難しかった。
文言はこれでいいだろうか、とか。送っても迷惑じゃないだろうか、とか。色々考えてしまうのだ。
時刻は夜の十時過ぎ。ちょっと遅い時間だけれど、彼女なら起きてそうだし、なんなら出かける準備までしてそう。
僕はそこから更に三十分程悩んだ。悩んで、その末に、やっと一文送れた。
やっと一息つける。
だが、ここからも大変だった。
返事が気になってしまうのだ。気にしないように心がけても、スマホをちらちらと。僕は思春期の男子か。いや、思春期真っ只中の男子高校生だった。
そんな時間を一時間位。風呂に入ったり、リビングでうろちょろなんかしながらやり過ごしていたら、僕のスマホは一件のメッセージを受信した。僕は急いでロックを解除する。
そこには彼女からの連絡があった。
『無理』
そのたった一言だけ。
僕、あれだけ悩んだのに、この一言で片づけられるのか?
僕はやけになって急いで返信した。
『僕は散歩したい気分なんだけど』
返事が返ってくるのは早かった。
『一人で行けば?』
『そういう気分じゃない』
『私も気分じゃないから』
そう言われてしまっては、僕としても何も言えない。
ただ、少し違和感があった。気分じゃないって言うけれど。彼女だったら、一人で散歩してそうなのだ。後、返信が雑だ。ただの勘だけれども。だったら、そこに僕がいてもいいじゃないかと、思ってしまう。それとも、いてほしくないのか。だとしたら嫌われでもしたのか。そう考えると嫌な妄想ばかりが膨らむ。
僕はリビングで一人落ち込んでしまっていた。もう、何も考えたくない。
「兄さん?」
丁度、風呂上がりの未耶が何事かと様子を窺いに来ていた。
「未耶、兄さん、もう駄目かもしれない」
風呂上がりの未耶は濡れた髪に、サイズの大きい僕のシャツを拝借していて。火照る頬は朱くて。なんだか可愛すぎて抱きしめたくなるな。
「おさわり厳禁です」
手を伸ばしたら叩かれて、先手を打たれてしまった。
「それで兄さん、どうしたんですか?」
「ああ、僕は夜凪さんに嫌われてしまったかもしれない……」
「ええ……、兄さん、何したんですか……」
「何もしてないよ、だからドン引かないでくれ」
未耶の態度が辛辣だった。
「何かした覚えがないなら、そこまで不安にならなくてもいいんじゃないですか?」
「そうなんだけど。でもなあ……」
「ちょっと見せてください」
未耶は僕からスマホを取り上げて勝手にトーク画面を見る。
「別に、普通じゃないですか」
「いや、絶対おかしい。普段の夜凪さんならひとつくらい小ボケというか、和ませにくるんだよ、多分」
「つまり兄さん的には物足りないと感じるんですね」
「そう。らしくないの」
「まあ、そういうときもあるんじゃないですか? 考え過ぎですよ」
「そうかな」
「そんな気になるなら確かめればいいのでは?」
未耶からスマホを返される。その画面を見ると、彼女に通話をかけていた。
「未耶、お前とんでもないことするのな」
「てへ」
てへ、じゃない。
が、かけてしまったものはしかたない。履歴は残るが通話を切ろうとした時だった。
『はい』
彼女が通話に出てしまった。
「えーっと。夜凪さん?」
『なに?』
「なにと言いますか。ちょっと通話かけてみました、てへ」
『……』
うん、無反応。これは効くな。
「夜凪さん、ちょっと話いいかな」
『今何時だと思ってるの』
「夜凪さんに限ってはその常套句、使えないと思うけど」
『……確かに』
僕は話を続けようかと思ったが、うきうきで覗き込んでくる未耶が鬱陶し可愛いのでベランダに移動した。
「それでさ夜凪さん。……なんだろうな。何かあった?」
『どうして?』
「元気がない気がした」
『そんなことないよ。私はいつも通り』
そう本人から言われてしまうと。僕としてはそれ以上追及できない。
「そっか。ところでさ、散歩の件だけど。しばらくないって、どれくらいかな」
『そうね。私が行きたいってまた思うまでかな』
「具体性に欠けるね」
『安達君はなに? そんなに私に会いたいの?』
攻めてくるな、夜凪さん。
「いや、そうは言ってないけどさ」
『ならいつでもいいでしょ。じゃあ私寝るから』
彼女はそのまま通話を切ろうとする。別に、それでもいいのだけれど。この機会を逃したら当分彼女と話せない気がして。僕は呼び止めてしまった。
「夜凪さん」
『……まだ何か?』
……どうしよう。何を言おうか。
僕が黙ったままだから、彼女がちょっと怒りっぽくなってしまう。
『安達君。そんなに私のこと好きなの? まだ話してたいとか言わないよね』
キレ気味の彼女も案外可愛いな。じゃなくて。
僕はここは一つ、攻めに転じてみることにしてみた。
「まだ話してたいよ」
『……なるほど。そうきたか』
僕があまりに真摯な口調だったからか、夜凪さんは明らかに戸惑っていた。これはチャンスだな。
「わかった、夜凪さん。こうしよう。今日は十二時にそっちに行くよ」
『待って。私は行かないよ?』
「夜凪さんが出てこなくても、僕は一晩中待ちます」
『……通報されたいの?』
「夜凪さんはそんなことしないって僕は思ってるし、待ってれば何だかんだ出てきてくれるとも思ってる」
彼女の溜め息が聞こえてくる。
『あのさ安達君、それは卑怯じゃないかな』
「僕からすれば、何も言ってくれない夜凪さんも十分卑怯だよ」
『それは……、私に事情ってものがあって……』
「まあ、無理に話してくれとは言わないよ。ただ、ずっと放置されると、僕も悲しい。せっかく散歩仲間になったわけだし、気晴らしぐらい付き合うよって話さ」
『…………わかった』
長い沈黙の後、彼女はやっと了承してくれた。
『でも家じゃなくて、そうだな。学校に集合でいい?』
「学校? いいけど」
『じゃあ、そういうことで』
それで通話は切れる。
僕は伸びをして、それから出かける準備を始めた。
*
十二時、校門前。暫くぶりの夜中の匂いは、僕の気分を安らがせてくれた。
僕は塀に寄り掛かって夜凪さんを待つ。
その十分後に、夜凪さんは姿を現した。
「こんばんは、安達君」
「やあ、こんばんは、夜凪さん」
彼女はかなりラフな恰好だった。よれたシャツに、サンダルで、風呂上がりなのか濡れた髪にヘアバンドだった。気色悪いと自分でも思うので絶対口にはできないけれど、シャンプーの香りがする。甘いな、大変芳しい。
「それにしても夜凪さん。学校に集合だなんて、どうしたのさ」
「まあ、久しぶりに。来てみたくなって」
来てみたくなった、か。
彼女はどこか、曖昧な顔をしていた。多くは語らないけれど、僕の勘は正しかったようで。なんだかお悩み中みたいだった。
「じゃ、いこっか」
彼女は校門を軽々とよじ登る。僕もそれに続いた。
夜の学校とは、また新鮮なもので。静けさの中に、焦れた湿ったさがある。普段は昼間にいるからか、誰もいない廊下は広々と感じた。
「夜凪さん、どこ向かってるの」
「ん? 教室。安達君って一組だっけ」
彼女は黙々と歩いていく。廊下には足音だけが響いていた。
僕も別に、話すことがないわけではないのだ。ただ、彼女の後姿が、歩き姿がいつもと違くて。今の彼女は、僕のちょっとした気遣いも、揶揄いも、許してくれない気がした。
一組の、僕が通う教室前に着いた。彼女が扉に手をかけても、開きはしなかったが、隣の窓は開いてしまった。
彼女は教室の中に入っていく。
「安達君の席ってどこ?」
「後ろ、そうそこ」
彼女は僕の席の隣に座る。
無言の圧力を感じた。僕も座れということか。
「じゃあ失礼して」
僕は自分の席に座った。見慣れた光景だ。ただ違うのは、隣に彼女がいること。強烈な違和感だった。美人っていうやつは、良くも悪くもこういうところがある。
僕はいつもの癖で、頬杖をつく。隣を見れば、真顔の夜凪さん。黙っているから、僕も黙る。
彼女は何を考えているのだろうか。少なくとも、気まずいとか。そんな簡単なことではないんだろう。
どれだけそうしていただろうか。彼女が唐突に口を開いた。
「安達君がいたら、どうだったかな」
僕は返事が遅れた。
「……どうって。同じクラスにってこと?」
「そう。高校だけじゃなくて、もっと前から」
「そうだな。多分、気を悪くしないでほしいんだけど。ちょっとした会話もなかった気がするな。僕と夜凪さんが知り合うきっかけがなかった、みたいな」
「なんとなく、わかるよ。私たち、普通にしてたら関わらなさそう」
「もしもの話なんて、夜凪さんには変えたい現実でもあるのかい?」
「どう思う?」
質問に質問で返された。答えあぐねていたら、彼女は待ってくれなかった。
「なんてね。だれにだってあるものだよ。変えたい現実なんて」
「まあ、そうだけど」
「安達君は、自分のこと好き?」
「好きではあるかな。概ね、満足してるよ」
「そう。そうだと思った」
彼女は浅い呼吸をした。
「私はね、自分のこと、嫌いなの」
「……何となく、そんな気はしたよ」
自分が好きなら、あの夜、海で。流れでキスなんてしようとしなかっただろう。
この受け答えで、僕があのとき感じたことの正解がわかった。危ういのだ、夜凪さんは。自暴自棄というか。どこか揺らいでいる。だから、今じゃないと思った。
それから彼女はまただんまりだった。
この時間は、どうだろう。彼女の瞳は宙を見つめていて。どこか確かめるように机を撫でていて。僕との時間は想像しているのだろうか。あり得ない、もしもの時間。今から一緒のクラスだったら。隣の席だったら、なにか変わったのかと。それとも、これは自惚れで、ただぼうっとしているだけかもしれない。
それなら、僕が考えようじゃないか。
きっと彼女は字があんまり綺麗じゃない。偶に寝てそうだし、気分の良い日はちょっかいなんてかけてきそう。僕も僕で、それを受け入れてそうだった。彼女なら、悪い気がしないから。休み時間はくだらない話をしてそうだし、僕はそんな学校が楽しみになっている。
彼女もそうだといいなと、彼女の横顔から、勝手に気持ちを推し量ってみる。
見事に無表情だった。わからないな、これは。
僕は諦めて机に突っ伏した。
「いつも、そうやって寝てるの?」
彼女がまた口を開いてくれた。
「うん。あんまり、真面目に授業は受けてないかな」
「私が隣の席だったら、起こしてあげるのにね」
僕はついせき込んでしまった。もしかしたら、僕の想像は自惚れではないかもしれなかったから。
「夜凪さんに起こされるのは悪くないね」
「ノートも写させてあげないこともない」
「ねえ、夜凪さんってもしかして字汚い?」
「……あんまり綺麗じゃない」
気恥ずかしそうな彼女は、今日の中では良い表情だった。
「夜凪さん。……いや、なんでもない」
いつまでこうしていたいのか聞いてみようとしたけれど。やめた。いつまでだっていいじゃないか。
僕は机に入れっぱなしだった文庫本を取り出して読み始める。その間、定期的に横を見れば。彼女は黙ったまま、偶に微笑んでいた。
*
僕たちは校内を歩き回った。なんの目的もなく、ただ気の向くままに。体育館とか、図書室とか。彼女に振り返るような思い出があるかは知らないけれど、とにかく僕たちは隅々まで回った。
その間、彼女はやっぱりだんまりだった。僕が話を振って、偶にそれらしい会話はあっても、それきりで。ぶつ切りの会話。おかしいな、今まではもっと弾んでいたはずなのだけど。でも、悪い気はしなかった、僕はただ夜凪さんの後ろをついて歩くだけでも足が軽快に運んだ。
ただ、彼女はそうでもないような、気がして。何か言おうとしているような。けれどもやっぱりそうでもないような。僕は聞き出そうとも考えて、やめておいた。こういうのは無理に聞くものでもない。
そうして校内を回っている内に、行くところがなくなって。僕たちは最後にプールにやってきていた。
「海に行ったのを思い出すね」
僕が話しかけても、彼女は頷くだけ。
彼女は塩素の香るプールに足を浸ける。ぼくもそれに倣った。
静かな夜だった。こういうとき、気まずくならないのは有難い。僕はそういう空気が苦手なのだ。
「安達君」
珍しく、彼女が喋った。
「なに?」
「安達君って優しいよね」
「そうかな」
「自覚ある癖に。私が話すの、待ってるんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
彼女は深い溜め息をついた。
「はあ……。だから今日来たくなかったのに」
彼女は夜空を見上げる。その横顔のラインに僕が見惚れていると、彼女は、唐突に話しだした。
「親がね、再婚するの」
夜凪さんは水を蹴った。
「それに。……思うところがあると」
「ううん。別に、それはいいの。ただね」
彼女は俯く。そして、僕を見た。
「私、ここからいなくなっちゃうみたい」
そう言う瞳は、静かに固まっていた。彼女は淡々と言った。それはつまり、僕とはもう会えなくなるということで。僕は胸がつっかえた。
「……そっか。寂しくなる」
「何それ、もっと悲しそうにしてよ」
「十分悲しいよ。僕はこれからだれと散歩すればいいのさ」
「だから、一人でしなよ」
「それじゃ意味がない」
僕はこういう時になって、やっと自覚したのだ。彼女と一緒だから意味があるのだと。
彼女は独りでに語り始める。
「私ね、いつも一人だった。小学生の頃はこの髪色で虐められた。中学生のときも上手く馴染めなくて。高校には入ってからは色々諦めけど。ついには行かなくなっちゃったし。そう考えると、先行きが不安になってくるね。将来の想像がつかないや。ていうか、考えたこともないけど。今に手一杯というか、考えたくないというか。駄目だね、こんなんじゃ」
そう、不自然に彼女は笑ってみせる。
「私友達なんてできたことなかったから。だから、安達君が第一号かな、なんて。私たち、友達ともちょっと違うか」
「そうかい? 友達でもいい気がするけど」
「駄目だよ。だって君、私のこと友達だと思ってないでしょ」
「そんなことは」
「あるよ。藍那さんとは違う」
セナの名前を出されると、弱るな。
「安達君はさ、いいよね。こんなこと言うと、勝手だって感じるかもしれないけど。安達君は今に生きてるって思える」
じゃあ、彼女はいつを生きてると言うのだろうか。
「私はね、過去に生きてるの。どうしようもなく、後悔ばっかりで」
「どんな後悔?」
「単純なこと。あのときこうすればよかった、こう言えばよかった、って。何か特別なことがあったわけじゃないの。親の再婚もね、ほんとに気にしてなくて。ただ、さ。いつも考えちゃうんだ。私の人生、どうしてこうなっちゃったのかなって。どこを間違えたのかわからなくて。だから私は、私が嫌い」
彼女の目元は暗かった。僕には、彼女にかける言葉が見つからない。だってそうだろう。何を言っても、無責任だ。
「積み重ねってやつかな。怖いね、人間って。だからさ、私君の誘いを断ったんだよ? 困るでしょ? こんなこと言われても」
「そりゃ困ったけど。いいよ。ちょっとくらい困らせてくれても」
「そっか、じゃあさ。もっと困らせてもいいかな」
彼女は顔を上げた。月夜でも見上げてるのかと、そんなことはなかった。彼女の瞳は潤んで、端に雫を溜めていた。
「どうして虐められたのかな。私、悪いことした?」
「してないんじゃないかな」
「友達が欲しかった。特別じゃなくてよくて。ただ他愛もないことを話せる相手が欲しかった」
「うん」
「本当は高校生活、楽しんでみたかったんだよ。みんな、楽しそうでさ」
「そうだね」
「再婚も、したっていいけど。私の話も聞いてほしかった」
「うん」
「私、他人が妬ましいの。どいつもこいつも、幸せそうで」
「うん」
「なんで私はいつも上手くいかないのかな。失敗ばっかり」
「うん」
「未来なんて怖くて考えられないよ。考えたら私生きてられない」
「うん」
「頭の中がぐちゃぐちゃになるの。嫌なことばっかりで」
「うん」
「いつも焦ってばっかでさ」
「うん」
「私、どうしたらいいのかな」
「どうしたら、いいんだろうね」
「どこか。遠くへ行きたくてしかたないよ」
夜凪さんは一筋、頬に雫を流す。
きっと、きっかけに過ぎなかったのだ。再婚だとかは。彼女も言った。積み重ねだと。彼女の過去の積み重ねは、今を、未来を生きられなくなるには十分なものだったんだろう。
「安達君」
「なに」
「私、君と別れたくないよ」
真正面から見つめる彼女に、僕は返事ができなかった。だって、僕にはどうしようもないじゃないか。
「ごめんね、困らせて。こんなところ見せたくなかったのに」
彼女は涙を拭う。僕はかける言葉もなかった。
「ほんと、嫌になる。こんなの、早く忘れたい。なかったことにしたい」
僕はその言葉に、つい反論したくなった。だってそれはつまり、僕との時間もなかったことになってしまうじゃないか。ただ、そんなこと彼女に言っていいものかと。
悩んだ。悩んださ僕も。悩んだ末に、ちょっと乱暴な結論に辿り着いてしまった。
「ねえ夜凪さん」
「……なに? 面倒になった? 帰りたくなった?」
「違う、こうしたくなった」
僕は思いっ切り彼女の背中を押した。
「は?」
困惑した彼女は勢いのまま、プールに飛び込んだ。いや、僕が押し込んだ。
水が音を立てて跳ねる。彼女はびしょびしょになって僕を睨んでいた。
「安達君、今私、そういう気分じゃないのわからない?」
「わかる。めっちゃわかる」
「じゃあ」
「でも。僕の気持ちも考えてほしい。夜凪さんがいくら僕に面倒かけてもいいよ。いくらでも付き合う。だけどさ、僕との時間だけは否定しないでくれよ」
「そんなつもりは……」
「ないのもわかるよ。けどむかついたから」
「だからって落とすことないでしょ」
「それは勢いってやつでさ。後ちょっと空気重くて。それから、海の時の仕返しも込みで」
「……あっそ」
彼女は呆れながらプールから上がろうとする。ただ、僕はこのままだと物足りないなと、考えてしまった。から。上がりかけた夜凪さんを掴んで、今度は僕諸共プールに飛び込んだ。
あんまりにも馬鹿なことをして、僕は笑うしかなかった。
「安達君! 笑いごとじゃないんですけど」
「そう? 結構笑えるけど」
「殴っていい?」
「痛いからやだ」
僕がそう言うと、彼女は僕のおでこをかるく小突いてきた。
「夜凪さん」
「なに」
「これからは毎日散歩しよう」
「……いいの?」
「いいよ。それから昼は出かけよう」
「それ、安達君死んじゃわない?」
「死ぬかも。でもいいよ。夜凪さんのためなら死んでも」
「私に軽々しく命かけないで」
「軽くないんだけどな」
「じゃあ、本気?」
「本気」
彼女は何事かと考え込む。そうしてから、顔を上げて僕を見つめた。
「じゃあ。ちょっとだけご褒美ね」
僕は息を止めてしまった。何故かって、彼女に抱き着かれたから。
「……夜凪さんこそ、軽々しくこんなことしちゃ駄目じゃない?」
濡れた身体が密着する。夜凪さんの身体は華奢だけれど、体温と、華奢だから。跳ねる鼓動は、これでもかと伝わった。
「いいでしょ。それともなに、嬉しくないの」
「めっちゃ嬉しいです」
「ならいい」
もしかしてこれ。彼女がこうしたかっただけなんじゃないだろうか。
とは、口が裂けても言えないな。
暫くして、彼女はそっと腕を解く。
「もういいの?」
「まだしてほしかった?」
「いや、十分だよ」
僕は濡れた彼女の髪を払う。彼女の顔はいくらか晴れやかだった。
「なんか僕たち濡れてばっかりだな」
「だれのせいよ」
「僕のせいだ」
そう言うと彼女はくすりと笑う。今日初めての笑顔は、なんだか見ていて気分が良かった。
「安達君。これからもよろしくね」
「ああ。こちらこそ」
彼女は僕の手をとってはにかむ。
なんとなく。僕は今日のことを忘れない気がした。




