7
今日はいい天気だった。
街中に来て、待ち合わせ場所に着いたはいいものの、夜の外出に慣れたせいだろうか。昼間の直射日光が大分ときつい。
待ち合わせの時間まで後五分ほど。僕は流れゆく人を眺めて夜凪さんを待つことにした。
暫くぼうっとして、夜凪さんが来てないか当たりを見回して。十分くらい経った頃だろうか。僕は後ろから声をかけられた。
「安達君」
全く聞き覚えのない声で。僕は振り向く。と同時に、誰かの手が迫ってきて、視界が塞がれた。
「……えーっと。誰でしょうか」
「だーれだ」
僕は見えない視界の中手を退かそうとするが、何も手に当たる感覚がない。じゃあ何に視界を塞がれているのかと、謎の恐怖心が勝ってきたところで、その見知らぬ人はそれを退けてくれた。
「や、安達君」
そう手を振る女性は、やっぱり見覚えのない人だった。背丈は僕と同じくらいで、くすんだ茶髪と、ノースリーブのシャツから覗く肩が眩しかった。
「……どちら様ですか?」
「やだな安達君、私のこと忘れたの?」
「生憎、あなたみたいな綺麗な女性は見覚えがありません」
「安達君ってお世辞言えたんだ」
見知らぬ女性は笑う。僕は困惑するばかりだった。
「ごめん安達君、揶揄っちゃって。私だよ。夜凪楓」
僕は事態が呑み込めなかった。
「……夜凪さんの友達かな?」
彼女に友達がいるようには思えないけれども。
「違うよ、私が夜凪楓なの」
見知らぬ女性はそう微笑んで僕に手を振る。
「もう安達君。柔軟性が足りないよ。そうだな。私と初めて会ったのは校舎裏の階段だったね。それから、安達君には可愛い可愛い妹がいます。安達君が好きな飲み物はお茶で、因みに私はオレンジジュースが好き。後、安達君は案外体力がなくて、夜道を走ったとき私に置いていかれたね。それと、セクハラが大好き。こんなところでどうかな?」
「待ってくれ、別にセクハラは好きじゃない」
と、つい勢いで否定したけれど。この見知らぬ女性はとても、らしいことを言う。過去の出来事を夜凪さんから聞いた、にしても。そこまで手の込んだことをする理由がわからない。
「……本当に夜凪さんなの?」
「だからそう言ってるじゃない」
僕は信じられなかった。だが、彼女はそうだと言う。
「続きは場所を変えよっか」
見知らぬ女性、夜凪さんはそう言うと、僕を引き連れ近場のファストフード店に入っていく。僕はシェイクだけ注文したのだが、彼女はハンバーガーを五つも注文していた。
商品を受け取って席に座ると彼女はハンバーガーにかぶりつく。とても美味しそうに食べていた。
「ハンバーガー、好きなの?」
「私じゃなくて、『この子』が好きなの」
「この子って?」
「……そうだな。どこから話そうか」
彼女はストローからコーラを一口啜って、外を眺めた。
「安達君。私ね、幽霊みたいなの」
「やっぱり夜凪さんはオカルトガールなのかい?」
「えい」
彼女が僕に手を伸ばすと、僕はまた視界が塞がれる。
「夜凪さん、何してるの」
「安達君の目に指を突っ込んでいます」
「へえ、僕は今目に指を突っ込まれているのか」
だなんて、感心している場合ではなく。
「え? 僕今目潰されてるの?」
「因みにさっきも潰してました」
「怖いこと言うな夜凪さん。冗談はいいから早く手離してくれない?」
彼女が手を引くとやっと視界が開ける。すると、一枚の写真をスマホで見せてきた。
「ほら安達君」
……驚いた。写真の中で、本当に僕の目に彼女の指がめり込んでる。
「どう? 凄いでしょ」
「いや、怖いよ。なにこれ、立派な心霊写真だよ」
「手も繋げないの」
彼女は僕の手を取る、ことができなかった。僕の手に被さって、彼女の手が透けている。
「うわ怖」
「そんなドン引きしないでよ」
僕はその透ける手に、ある日のことを思い出した。未耶と出かけた日。逃げたセナ。
「あの日も、私だよ」
夜凪さんは見透かしたように言う。
「藍那セナさん。君の友達で、セクハラ相手」
僕は夜凪さんにセナを紹介したことがない。でも、彼女は何故か知っている。
「あの日はね、君にばれたくなくて、逃げちゃった」
てへっ、なんて彼女は恥じらってみせる。
「じゃあ、なに? あの日、セナになっていたのは夜凪さんで、今目の前にいる知らない女性も夜凪さんだと、そう言いたいのかい?」
「そういうこと、驚いた?」
「驚いたっていうか……」
驚いたけれども。それ以上に、理解不能だ。まずあり得ないこと。でも今、あり得ている。彼女は、普通に夜凪楓として僕と会話している。
「私ね、そう。丁度安達君と初めて会った日からだったかな。寝て起きたらね、知らない子になってたの」
彼女は息をついて、続けた。
「でね、知らない子のはずなのに、私はその子のこと知ってるんだよ。何が好きで、嫌いで。何をしてきたか、どんな人生だったのか、何を後悔してるのか、何に憧れているのか。全部知ってるの。不思議だよね。まるっと他人の人生を歩んできたみたいでさ」
「それは。記憶があるってこと? その、今為ってる人の」
「そういうことになるね」
「じゃあセナのことも?」
「知ってる。安達君のセクハラを内心喜んでることとか」
「そうか……」
僕は一安心。ではなくて。
「体が変わってるってこと?」
「違うの。幽霊なの。寝て起きるとね、私がベッドで寝てるんだよ。で、違う私が起きてるの。違う私じゃない子が、私を見下ろしてるの」
「それで、『幽霊は信じる?』、なのか……」
あれは、突拍子もないようで、核心に迫った問いかけだった。
「僕は、これ。どうしたらいいのかな」
「どうって?」
「いや、ただ信じればいいのか。信じられないというか。でも信じるしかないんだけどさ」
「私は、安達君なら信じてくれると思って話してるんだよ」
彼女は真っすぐ僕を見つめる。そう、正面から来られると、弱いな。
「……わかったよ。とりあえず信じるとして。どうして僕に話したのさ」
「きっと同じだよ、君と。丁度いい距離感なのかな、私たち」
突拍子もないことを言えて、それを聞いてくれる。僕たちだからこその距離感。
「それで? 夜凪さんは、あれかな。現状をどうにかしたいってことかな」
「別に。案外楽しいよ? これ」
「今までどうしていたの」
「普通に楽しんでた。さっき言ったでしょ? 『この子』が好きって。今の私はこの子になってるから。この子が赴くままに生きてる。ハンバーガーを貪ってる」
「へえ。なんか面白い話聞けそうだね」
「男漁りの激しい子とかいたね。だから日中ずっとナンパしたり」
「危なくない?」
「案外、紳士的な人が多いものだよ。ドライブ連れてってもらったり、ご飯奢ってもらったり」
「夜凪さんが妙に図々しいのってそういうこと?」
「さあ」
夜凪さんはとぼけてみせる。
「後は、同性が好きな子とかいて。仲良くデートしたり。手は繋げないけど。虐待されてる子とかもいたかな。家にいたくないからずっと外で座り込んでるの」
「夜凪さん、それ」
「待って。言いたいことはわかる。安達君はいい人だから、きっと助けたくなっちゃうんだよね? でもね、無理なんだよ、私は覗かせてもらってるだけ。そうして、一日で死ぬの。それからは部外者なの。それに毎日毎日代わる代わる、その人の悩みにぶつかって。解決しきれないよ」
「……そういうものかな」
「うん、そういうものなの」
彼女はハンバーガーを食べ終えて指を一舐めする。その姿はけろっとしていて。きっとこれが上手な距離の取り方なんだろう。当事者でない僕には、口を挟めない領域だった。
「でね、安達君。提案があって」
「提案? まさか昼にも付き合ってとか言うんじゃないよね?」
「そのまさかだよ。一人だとそろそろ退屈でさ」
「夜凪さん……。僕、夜中も君に付き合ってるんだけど」
「うん、だからその流れで昼も」
「僕死んじゃうから」
「そう頻繁には誘わないよ」
「本当かな……」
「ほんとほんと。信じてくれていいよ」
その言い草は、とても胡散臭かった。
「はあ……。わかった。できる限りは付き合うよ。僕も暇だしね」
それに、未耶にも尽くせと言われたし。
「やった。流石安達君」
そう喜ぶ彼女を見ると、僕は大概甘いものなのだなと。溜め息が出る。
「じゃあ、そろそろ僕は帰るよ」
「あ、安達君、仮眠しといてね。今日も散歩だから」
「……わかった」
その僕が従うと疑わない姿勢。感服させられる。が、まあ。ちょっとした話し相手に選んでくれたと思えばそう腹も立たないし。彼女なりに、今に思うところだってあるかもしれない。だから、ちょっとは奉仕の精神を持ったっていい。
追加でハンバーガーを頼もうとそわそわしている彼女を尻目に、僕は疲れを覚悟して店内から外に出るのだった。
*
あれから夜凪さんとまた夜に合流して、散歩を終えて。今日の夜も、夜らしく。清々しいものだった。
去り際に夜凪さんに確認したところ、「別に言ってもいいけど。悪い人じゃないしね」とのことだったから、僕は相談することにした。何をって、夜凪さんの置かれてる現状を。誰にって、セナに。
よって僕は散歩の後軽く寝て、それから夕方前に、夏休みの学校に来ていた。
文芸部の扉を開けると、今日も今日とて藍那セナは美しい姿勢で本に向き合っている。
「ん、やあこんにちは律、珍しいね」
彼女は本に目を落としたまま挨拶する。僕は挨拶を返しながら向かいの席に座った。
「やあセナ。幽霊部員が来ましたよ」
「自覚があるのならもっと顔出してよ」
「すまん。それはできそうにない」
「まさか充実しちゃってるのかい? 君の夏休みは」
「充実で、いいのかな……」
僕は姿勢を正した。
「セナ、ちょっと話を聞いてくれ」
僕が真面目ぶると彼女は何事かと顔を上げる。
「どうしたの。まさか告白?」
「それはない」
「そうきっぱり言わないでよ」
彼女は本を置いて、僕に向き直る。
「それで。話って?」
僕は話した。昨日あったこと。目にしたこと。話されたこと。
彼女は黙って聞いていた。口を挟むことなく、真偽を確かめようともせず、黙って聞いてくれていた。
粗方話しが終わると、彼女は一度深呼吸する。
「ふむ、なるほど」
「え? それだけ?」
「だって、私には今この場で確かめようがないからね。とりあえず、そういう体で話を進めるしかない」
「それもそうか」
「まあでも、そこまで疑ってもいない」
「もしかして僕の信頼、そこそこ厚い?」
「いや、君が私の胸を注視しないから、それだけ重大なことなのかと」
そこには違う信頼があった。僕はなんて情けない男なのだろうか。
「幽霊、か」
「セナはどう思う?」
「どうって。まず、便宜上幽霊ってことにしているけれど、そこから確認するべきじゃない? 寝ている間に別人になるなんて、噂話でもそんなオカルト染みた話聞いたことないよ。まあ、そんな噂話する相手はいないのだけれど」
「でも幽霊だったよ、触れないし、透けるし」
「本当にあり得ない話だね。でも律は体験してきた。それは疑わないとして。夜凪さんも酔狂な人だね」
「ああ。その人になり切って過ごすなんて」
「それもだけど、話を聞く限り普通に受け入れているでしょ、彼女」
「そうだな。楽しんでた」
「そうか。……実は彼女にとっては望ましい状況なのかもね」
「どういうことだ?」
「そのままの意味だよ。だってそうでしょう? じゃなきゃ楽しまないし、現状の打破に動くはず。でもそれをしない。つまりは好ましいんだよ、彼女にとっては。律もそこは違和感として残ってるんじゃない?」
「言われてみれば確かに。あっさりし過ぎてて。なんか、あんまり重く捉えなかったかもしれない」
「そこだよ。こんな怪奇現象、怖いに決まってる、普通は」
セナは立ち上がるとホワイトボードに夜凪さんの現状を纏めていく。改めてそれを見ると、馬鹿馬鹿しい話が羅列されていた。
「律、彼女は私になって、私の記憶を覗いたんだよね?」
「そのはずだけど」
「なら、そうだな」
セナは数舜考え込んだ。
「律。彼女は、望んでこれを引き起こしたかもしれない。或いは偶然そうなったのかはわからないが。彼女は望んでいた、こうなることを」
「なんでそう言いきれる」
「この現象が起きてから慣れて、行動に移すまで早いから。多分、棚から牡丹餅ってやつだったのかな。それから、私がこれを言い当てるところまで彼女はわかっている気がする」
「どうして」
「私を覗いたから」
セナは言い切る。その返答には自信が滲んでいた。
「でも、豪胆だね。私がこの結論に至る可能性を考慮して、私への相談を許したのか」
セナは一人で何か頷いている。
「セナ、結局僕はどうしたいいと思う」
「そのままでいいんじゃないかな。それが彼女の望みだろうし。私が今言ったことを踏まえて、彼女に付き合ったらいい。ああ、でも。一応気を付けたほうがいいよ」
「何に」
「なんだろうね、言動そのものかな。それは彼女のものかどうか、わからないから。いつか、彼女であるかもわからなくなるかもしれないから」
セナの言葉尻が細くなっていく。
「そうか? 一応、現状との付き合い方もしっかり線引きしていたし、大丈夫だと思うけど」
「……君がそう思うなら、まあそれでもいいさ」
セナはじっとホワイトボードを見つめてから、席に戻ってまた本を広げた。
「ところで律、夜凪さんとは順調かな?」
「順調って、何がさ」
「いやあ、中々入れ込んでると思って」
セナは顔を上げはしないが、いやらしい顔をしていた。僕のこと、揶揄おうって魂胆か。
「そんなんじゃないよ。ただ、成り行きで付き合っているだけだしさ」
「いやいや、通常の君なら断るでしょ」
「そんなことは……」
あるのか……?
「いや、ないな。僕は人情に溢れているからね」
「わかった律、こうしよう。一度正直に言う度、私は服を一枚脱ごうじゃないか」
「よしわかった、こい」
「素直でよろしい。では律。君は夜凪さんと一緒で楽しいかい?」
「ぶっちゃけ楽しいです」
セナはニットベストを脱ぐ。シャツがはち切れんばかりに胸が露になっていた。
「では次の質問。夜凪さんに振り回されて、悪い気はしない?」
「なんだかんだ付き合おうって気になってます」
セナは次に靴下を片方脱ぐ。素足とは。その色白さはこれまた強烈な引力を放っている。
「じゃあ次ね。夜凪さんは可愛いかい?」
「とても可愛い。タイプじゃないけど、あれは誰がみても美人」
セナはもう片方の靴下も脱ぎ、足を机に乗せ、足先で僕を誘う。なんてことだ。足裏もいいが。スカートが、スカートの中が……! 覗けそうじゃないか……!
「では最後の質問。夜凪さんには、惚れそうかい?」
「うーん。それは正直わからないな。今のところはそんな気配ないけど」
「そうかい。じゃあご褒美に……」
セナはスカートに手をかける。いや、手をかけたのはその更に奥。下着に手をかけていた。捲れるスカートは程良い太さの太ももを露にして……。
「と思ったけど」
セナはそこで手を止めた。
「最後の回答は曖昧だったからこれはなしね」
「は?」
僕は頭の血管が切れそうだった。
「待てセナ。僕は正直に答えた。そうだろう?」
「でも返答としてわからないはずるいと思うんだ」
「でもそれが僕の気持ちだ」
「じゃあ、そうだな。これで満足してくれたまえ」
セナは床に落としていた靴下を掴むと僕の顔目がけて投げる。僕の顔に直撃したそれは、なんというか、そうだな。うん。素晴らしい香しさだった。
「セナ……」
「何も言わなくていいよ、律。好きに堪能していい」
「はい……」
僕が微動だにしないでいるとセナはくすりと笑った。
「じゃあ私は帰るから。それ、持って帰っていいよ」
セナは荷物を纏めると「じゃあね」と、たっぷり含みを持たせて部室を出ていった。
残された僕はどれくらい動かずにいただろうか。暫く嗅覚を研ぎ澄ませて。
最後に深呼吸して、靴下を持ちあげる。それはもうセナの熱を失っていた。
「まったく。けしからんな」
僕は夕暮れに染まる空を見上げて、深く息をついた。




