2-6
修学旅行が終わってから、休日を挟んで。登校日。僕は疲れが取れていなかった。
セナの。あんな言葉を受けてから。僕はずっとそれが圧しかかっていて。だから家に帰ってからも気が休まらなかった。冗談だと受け流すのは、そう、そうできてしまえば簡単だった。
せめて妹に癒されようと、買って帰ったお土産で未耶を釣り最大限愛でようとしたのだけど。
流石は僕の妹だった。「兄さん、何か隠したいことでも?」なんて言ってきたのだ。まあそれでも、頭は撫でさせてくれたし、膝にも乗ってくれたし、お土産を僕の手から食べてくれたし。妹成分は充分満ちたけれど。僕がセナといざこざが起きそうなのは悟られているようで、やっぱり気が休まり切らなかった。
そんな休日だったから、僕は登校して早々に溜め息連発で。
セナは。どうせ朝早くから部室にいる。
僕はひとまず、まあ。話はするべきだろうなと。彼女の時間に合わせて。部室に足を運んでいた。扉の前で深呼吸。まさか彼女相手にこんな行動を挟まなければならないとは。
僕は意を決して扉を開けようと手をかける。すると、扉は勝手に開き、僕は丁度出てきた彼女とぶつかった。
「ああ、律。ごめん」
彼女は当たった僕の胸に手を添えて、そう笑いかけてくる。
「いや、こっちこそ」
彼女はあまり、先日のことは気にかけてはいなさそうで。それにしても、流石だった。先に当たるのが頭じゃなくてその豊かな胸部なのだから。
「律、そんなに凝視しなくても」
「してない」
「ああそう。素直に認めたらもう一回当ててあげてもいいけど」
「めっちゃ見てました」
「だよね」
彼女は僕の腕に身体を寄せる。物凄く意図的に当たっていた。そうか、これが幸福というものか。
彼女はそのまま僕の手に指を絡めてくる。
「セナ?」
「駄目なの?」
「駄目って言うか。どうしたのさ」
「君は。私の彼氏になってくれないのかい?」
そう、彼女は僕にもたれかかって。先日の続きだろうか。というか、なんて気が早いことだろうか。
「あのさ、僕はまだ」
「まあまあ。いいじゃない。そんな、明確に言葉にしなくたって」
彼女は僕に言わせてはくれなくて。身体を預けるまま、僕の腹部を指でなぞってくる。
「セナ」
僕がそれでも追求しようとすれば。
「律。今すぐこれ、やめたっていいんだよ?」
彼女は強烈な視線を向けてくる。そう言われてしまうと。僕はなんだか、彼女に悪い気がしてきて。黙ってしまった。僕はなんて欲に弱いんだろうか。
僕らは教室に向かうのだけど。彼女は言った通り僕から離れなかった。段々と、身体が、僕の手が彼女の熱を帯びてくる。
僕は廊下を歩きながら、外を眺める。こんな朝早い時間に学校に来たことがなくて、静かだけれど、時折声が聞こえてくる。朝の部活に勤しむ生徒らがいて、まあご苦労なことで。
そして困ったことに。そんな生徒たちや教師と、廊下で出会ってしまうのだ。今までなら、僕らなんて空気同然で、なんら問題はなかったはずのだけれど。
彼女が。セナが必ずそんな人たちの目を奪っていくのだ。そして話しかけられる。その都度彼女は下手くそな口でそれらしい会話を広げる。それが終わる度、一つ溜め息をつく。
彼女はいつからこんなに人に認識されるようになったのだろうか。
ともかく。それはまあいいとしても。
僕は一刻も早く逃げ出したかった。なにせ視線が痛いのだ。一見、彼女の会話は自然だけれど。僕は視線に敏感で。今まで見向きもされなかった彼女がこれでもかと、羨望とか、情欲とか、そういう淀みを含んだ視線を浴びていて。
それに僕まで晒されてしまって、たまったものじゃなかった。
「律、どうだい?」
「どうって。まず、一言目に『あっ』って挟むのやめたら?」
「君本当に意地悪だよね」
「まあでも。セナが大変なのはよくわかった」
横にいるだけの僕ですら疲れるのだ。彼女も当然気力がすり減っていくことだろう。
「そう、大変なのさ。だから。私の隣にいてほしいんだよ」
僕らは教室について、扉を開ければまだ他の生徒は誰もいなかった。
「言いたいことはわかった。僕に壁になれと。でもわざわざ彼氏だなんて。ことにしなくても」
僕が席に座ると、彼女は僕の机に腰を下ろす。柔い腿が接地面を増やして、僕を誘惑していて。これくらいならいいかと、つい指先でなぞるように触れてしまって。
「もっと強くしてもいいよ?」
彼女は寛大だった。
「じゃあ遠慮なく」
僕に腿を揉ませながら、彼女は更に畳みかけてくる。
「ねえ律。ふりでもいいんだよ」
「ふり、か。でもさ……」
例えふりでも。僕には夜凪さんがいるのだ。こんなセナに触れながら言っても説得力は皆無だけれど。
「私に付き合ってくれたら。一応、お返しをする意思はあるんだけどな」
「例えば?」
彼女はスカートをぱたぱたとはためかせる。もうそのまま見せてしまいそうな勢いで。ほんの少し、窓から風がそよいで。彼女のスカートはそのまま裏返った。
「……」
なんというか、そうだな。彼女の下着は透けていて、とても華やかで。中身まで見えそうだった。
「セナ。なかなか攻めた下着だね」
「そうなの。君の為に履いてきた」
「もう一回見たいな」
「じゃあいいって言って」
そう、くるのは当然で。
僕が葛藤に悩まされていると。彼女は机から降りて、今度は僕の膝に向かい合って腰を下ろした。
「ね、いいでしょ?」
彼女はそう、僕の腕にしがみついて、耳元で囁いて、お願いの体で言ってくるけれど。僕は伏目で僕にねだる彼女が、どうしてかとても愛おしく見えてしまっていて。
そのまま彼女は僕の頭を掴んで、顔を寄せてくる。そのまま口先まで、触れてしまいそうで。
僕は断ろうとしたのに。彼女の瞳と見つめ合うと、不思議と。意思が傾いていく。勝手に手が彼女に伸びていく。
そうして気がついたら。僕は彼女の肩に手を添えて、口を開いてしまっていた。
「……わかった」
彼女は満足そうに微笑む。なんだか、悪い気はしなくて。ただ、無意識に。僕は制服下のネックレスを弄る手が止まらなかった。
「ねえ律。これからは二人の時間を増やしたいのだけど」
「そうは言われても」
「とりあえず朝と放課後、部室に顔出そうよ」
「いや、僕。夜凪さんとの時間もあるし」
「律」
彼女は僕の手を取ると指を絡めて。背中を預けて。腰をこれでもかと僕に押しつける。
「君は私の彼氏なんだよね?」
「まあ、そう、かも」
「だったら、さ。私に費やす時間があったっていいんじゃないかい?」
「そう、かもだけど」
「ねえ。律は私のこと嫌い?」
「そんなことはない、さ……」
「じゃあいいよね。夜凪さんも多少は許してくれるよ。そうでしょ?」
「それは……」
「それは?」
彼女はまた僕に顔を寄せると、互いのおでこをつける。彼女で視界が覆われる。
「いいよね?」
「……いい、です」
僕は多分、言わされた。でもそう言うしかなかった。だって、彼女に吸い込まれてしまいそうで。そう言わなきゃいけない気がした。
「ああそうだ律。お昼も一緒に食べよう、そうしよう」
「いや昼は」
「駄目なの?」
またこれだ。彼女のおねだり。
昼は。夜凪さんとの大事な時間。のはずなのに。
僕は断る言葉が出てこない。唇が震える。見つめてくるセナに、逆らえない。
「……」
「律?」
彼女の言葉が僕を惑わせる。その声が耳に入ると、なんでも許したくなる。
僕は迷いに迷って。頷いてしまっていた。
*
とは言っても。僕は優柔不断なのだ。と言うより、臆病だから。セナのお願いも断れないし。でも夜凪さんとの約束も断れなくて。
結果。僕は一番最低であろう選択をしていた。
でも待ってほしい。僕だって迷ったのだ。というか、断ろうとしたさ。夜凪さんに悪いというのもわかっていた。けれど。僕はセナを遠ざけるということがどうしてもできなかった。何度そうしようとしても、頭であれこれできない理由を並べて、どうにかセナを隣に置こうとしてしまっていて。
そうして昼休みを迎えて。
僕は非常に張り詰めた空気に若干呼吸が苦しくなっていた。
校舎裏。座る僕の両隣には無言の女子生徒が二人。黙々と昼食を取っていた。
一旦、夜凪さんはお弁当を渡してくれたけれども。食べにくい。全く表情に出ないし、見た目冷静だけれど。無言の圧をひしひしと感じる。お前、本当にいいのか? と。
あれだ。僕、やってしまったな。
「いつもこうなの?」
セナが横から茶々を入れてくる。
「まあそんなわけないか。私がいるからだよね」
「そうね」
セナからの、少々挑発が入っていそうな言葉にも夜凪さんは淡々と返す。
「あ、律。貰っていい?」
僕は夜凪さんをちらと見てみたが、無反応で。セナは良しと受け取って僕の弁当箱から一つ攫っていく。
「うん、美味しいよ、夜凪さん」
「そう。それはよかった」
「ところで。夜凪さんって一回私に為ってるんだよね?」
セナは興味無さそうに、強い視線を夜凪さんに送る。
「ええ」
「どうだった? 私は」
「退屈だった」
「どの辺りが」
「毎日、自責と、在りもしない救いの可能性に縋って、他者に願ってばかりで。この人、弱いんだなって。――貴方大変なのね。疲れちゃったよ私。ずっと勉強してるし、かと思ったら思考に苛まれて。親が帰ってくれば的外れな叱咤の咆哮を浴びて。休む間がない。家の中凄いことになってるし。藍那さん、不憫ね」
「言ってくれるじゃない」
「大丈夫。私も似たようなものだったから」
「なら言い方ってものがあるんじゃない?」
「貴方も。距離の詰め方ってものがあるんじゃない? ああそっか、わかんないか。遠ざけてばかりだものね」
「お互いにね」
二人で綱渡りのような会話が進んでいく。僕が挟まる余地はなかった。とにかく怖い。帰りたい。
「藍那さんはなに? わざわざこんなところ乗り込んできて」
夜凪さんはただ平静で、視線も送らない。
「そうだね。私、夜凪さんとお友達になりたくて」
「へえ」
「その反応は駄目そうだ」
「別に、駄目なことはない。でもそう。今の貴方じゃ駄目かな」
「どうして?」
「どうしてだろうね。貴方が一番よくわかってるんじゃないかな」
「……これでも本心から言ってるんだけどな」
「ならちゃんと言ったら? 『お前が妬ましい』って」
「……。私、そんな相反してるつもりはないよ」
「わかってる。藍那さん、自分でもよくわかってないってことは」
「そんな簡単にわかった気になられるとあまり気分はよくないかな」
「わかるわよ。私は貴方を経験してるんだから。今ここで言おうか? 安達君に――」
「夜凪さん」
先に語気を荒げたのはセナだった。
「……夜凪さん、いい性格してるね」
「それはどうも」
「困っちゃうね本当に。ずるいよ、そっちだけ」
「仕方ないじゃない。覗けちゃったんだから。貴方のこと」
「でもフェアじゃない」
「なら私のことも、手懐けてみる?」
夜凪さんは初めて、セナと目を合わせた。やっぱり穏やかではあったけれど、それ以上に、圧迫感もあって。
「……遠慮しようかな」
セナはそれに一歩引いていた。
「まあ、お友達、ね。考えておくよ」
夜凪さんは食べかけの弁当箱を纏めると僕に冷め切った目線を向ける。
「安達君。しばらくお弁当はなしね」
夜凪さんはきっぱりとそれだけ言ってその場を早々に立ち去ってしまう。僕は後ろめたさしかなくて、黙って受け入れるしかなくて、見送るしかなかった。
残されたセナと二人、最後の弁当を僕は一口ずつ味わって食べる。
「夜凪さんって案外話しやすい人なんだね」
セナがちぐはぐな感想を口にする。
「セナさん。信じられないことを言うね」
「いやだって。私憤られてもおかしくない立場なのに。ちゃんと話してくれた」
「それを自覚してるならさ。わざわざ僕の昼の時間を奪うような真似しなくてもさ」
「それはあれだよ。私も、律と特別な時間が欲しくて」
彼女は僕に擦り寄って、腰を当てる。彼女の髪が僕の頬を撫でる。彼女が香る。
「近い」
「何か問題ある?」
「……ないかな」
いや、大有りだった。のに。僕は自然と受け入れてしまっていた。
「ねえ律。お弁当、私が作ってあげようか?」
「一応聞くけど。料理したことある?」
「……頑張るよ」
「無理はしなくていい」
「でも」
「でもじゃない。というかセナ。家で料理なんてできないでしょ」
彼女から聞いた話でしかないけれど。彼女の家は基本崩壊しており、寝て起きるだけの生活しかできないそうだ。
「そうだけどさ」
「まあいいじゃない」
僕は今のさっきで、夜凪さんに失礼だと、ろくでもない発言だと自覚しつつ。口が止められなかった。
「これからは昼も一緒なんでしょ? それだけで僕はいいよ」
「……わかった」
セナは吐息を漏らしてはにかんでいた。
「律は私と一緒がいいんだね」
「君から言い出したことでしょ」
彼女は僕の耳元に鼻を触れさせて。息を震わせて、言うんだ。
「律、ありがとね」
そう、囁かれるだけで。僕がすこぶる幸福感で満ちて。夜凪さんのことなんて忘れてしまうくらいで。
僕の中はもう、セナでいっぱいになっていた。




