26
帰り道を僕はほとんど覚えていなかった。辺りは暗くなっていって、のろのろと歩いて。大して寄り道もしていないし、立ち止まりもしなかった。けれど、随分と時間はかかった気がする。
現実味がなかったのだ。これで本当に終わったのだと。後は神のみぞ知る。彼女の運命は僕にはどうにもできない。
僕は家に着くなり、衝動的に玄関の扉を開けそうになっていた。ただ、意味もないけれど、誰かに悟られたくなくて。静かに扉を開けて入った。
今日はまだ誰も帰ってきていないようで。僕は馬鹿なことしているなと。靴を放って自分の部屋に向かった。
本当に。現実味がない。
部屋に入れば夜凪さんが寝ている。寝顔も綺麗なもので。ただ、彼女が彼女であるかどうか。それとも、まさかとは思うけれど。またどの彼女でもなくなってしまうのだろうか。嫌な想像ばかりに舵を切ってしまう。
僕はベッドで眠る彼女の傍らに座り込んだ。
「ねえ夜凪さん。僕は――」
そっと、これくらい許してくれるだろうと、彼女の髪に触れてみる。ちゃんとそこにいた。もう、それだけでも良いのかもしれない。なんて。諦めの思考が過る。
僕は床に座り直して何となく、彼女をスマホのカメラに収める。これで今日の全部だった。
夜凪さんに言われて、今日一日撮った写真。僕は他にすることもなくて。それに、そうしないと不安が募ってしまって。今日を振り返る。
どの写真も彼女は楽しそうだった。というか、彼女しか映ってない。僕が撮ったから当然だけれど、もうちょっとツーショットとか撮っておけばよかった。
僕はぼうっと、ただカメラロールをスクロールしていた。彼女の笑顔ばかり眺めていた。なんとなく、これは彼女からの要望だったけれど。もしかしたら僕の為に撮らせてくれていたのかもしれない。僕がこれから生きていくために必要だと。そういう思いやりだったのかもしれない。そしてそれは彼女の思惑通りで。僕は写真を見れば心が軽くなっていた。
何度も何度も繰り返す。繰り返しては、最後の、彼女が眠る写真に辿り着く。
――ここから先はもう、ないのだろうか。
と。僕はうっかり頬を伝いそうになる雫を拭って、スマホをしまう。
僕は彼女に向き直った。
それから、ずっとそうしていた。自分でもどうかと思うけれど。そうする他なかった。そうしたかった。
彼女を待ち続けたかった。
もう窓の外は黒くて。それでも待ちたくて。
もう時計の針は天辺を回っていて。それでも待つのをやめられなくて。
もう時間もわからなくって。それでも僕は動けなくて。
もう朝日が差し込んでくる頃。僕は頭がぼやけて、思考が止まって。やがて気絶するようにその場に身体を預けて。瞼を閉じていた。
胸の中には夜凪さんがいて。ただ、その温もりを求めていた。
だから。次に目を覚ましたとき。僕は寝起きでも鼓動が跳ねた。
温かいのだ。僕の後頭部に確かな人の熱があって。目を開けたら、その和らいで、陽だまりのような瞳と目が合って。
「おはよう」
その砕けた声も聞いて。僕は目が覚めた。
その一言で確信した。彼女は――。
「――夜凪さん」
僕がそれしか声にならないでいると、彼女は僕の髪を一撫でして微笑む。
僕はとにかく安堵感で満たされて、彼女の頬に手を伸ばした。ちゃんと、触れられる。
「……夜凪さん。調子はどう?」
「そうだね。なかなか気分がいいよ。安達君は。泣きそうな顔してるね」
「それは。だって。君がそこにいるからさ」
「嬉しい?」
「わざわざ聞かないでよ」
彼女は僕を膝に乗せたまま僕の頬に触れる。彼女もまた、ちゃんと触れられる。
「夜凪さん。その」
僕は彼女がそこにいなかった頃の記憶もあるか尋ねようとしたのだけど。
「大丈夫だよ、全部覚えてる。もう一人も、ちゃんといる。安達君、ほんとに私のこと大好きだったんだね」
彼女はしっかりと覚えていた。なんなら、その記憶を引き継いで僕を揶揄う始末だ。僕の心労も知らないでそう笑って。まあ、それだけ軽口が叩けるならいいだろうか。
「夜凪さん、脚疲れない?」
「別に。好きなだけこうしてていいよ?」
「ならお言葉に甘えます」
僕は一気に力が抜けていた。なんというか、一段落。
そんな僕を、彼女は気遣ってくれているのだろうか。
まあ、今はこの時間を大事にしたくて。僕は黙って彼女の膝を堪能していた。彼女もその需要はわかっているようで。黙って受け入れてくれている。もう昼間の日差しが部屋に差していて。一体彼女はいつから起きて、こうしてくれているのか。よっぽど、彼女の方が僕のこと好きなのではないだろうか。ただ、それを口にするとこの時間が終わってしまいそうなので黙っていよう。
しばらくそうしていると。僕は次第に目が冴えてきて、現実感が増してきて。ちょっと目頭が熱くなってきてしまっていた。
「安達君、また泣きそうになってる。てかちょっと泣いてる」
彼女はそう微笑む。
「うるさいな。そう言う君はどうなのさ」
「私は。うん。ただただ幸せ、かな」
「ならちょっと黙ってて。僕はこの夏休みで色々疲れたの。誰かさんのせいで」
「ごめんって」
「悪いと思うならちょっと抵抗しないでいて」
「え?」
僕は徐に立ち上がって彼女の軽い身体を抱き上げる。そのままベッドに押し倒して、彼女の胸に飛び込んだ。
「安達君。甘えたさんなの?」
そう揶揄いながら、彼女は僕の頭を撫でてくれる。僕は彼女の胸の上で深く呼吸をした。
とても、彼女の濃密な香りがした。
「安達君。ぎゅってして」
「もうしてるけど」
「もっと」
「……わかった」
僕は力いっぱい彼女に抱き着いた。それから、手に手を重ねた。その薄い唇にも触れた。約束だったから。
そして多分それが、実感ってやつだった。
「ねえ夜凪さん」
「なに?」
「僕たち、これからどうしようか」
「どうって。なにが?」
「いやさ。もう夏休みも終わるし。散歩もそうそうできないわけで。僕たちの関係ってどうなるのかなって」
「ああ。わかった。安達君はちゃんと言葉にしないと不安なんだね」
「逆に不安じゃないの?」
「うーん。ここまできて今更離れることもないじゃない?」
「それはそうだけど」
「じゃあ安達君。私たち付き合おっか」
……彼女はそうさらっと言ってのける。
「……僕から言いたかったんだけど」
「あ、ごめん。まあいいじゃん。どっちからでも」
「まあ、うん。そうだね」
なんとも閉まらないけれど。互いに笑えているので良しとしよう。
「ねえ安達君」
「なに?」
「私さ、もうちょっとちゃんとするよ」
彼女はそう宣言するように言ってくる。
「ちゃんとって?」
「色々。とりあえず学校には行くよ」
「それは有難い。毎日君に会える」
「後お母さんともちゃんとする」
「そうするといいと思う」
「それから、お父さんに会ってよ」
「……うん。挨拶しなきゃね」
「私も。君の両親に挨拶しないと」
「……それはまだいいんじゃない?」
若干気まずいというか。恥ずかしい。
「でも。将来誓ったし」
「……そうだね。そう。そうなんだけど」
「ちゃんと彼女ですって言ってよ」
「はい。言います」
彼女の厳しいお言葉に僕は言われるがままだった。
「なんだか、あれだね。生きてるって感じだね」
それは僕としては、喜ばしい言葉だった。あの夜凪さんが生きることに前向きということだから。
「安達君。これから先、色々あるだろうけどさ。私は君となら最後まで生きれる気がする」
「……そうだね。僕も、君となら楽しいと思うよ」
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
僕たちは多分、まだまだ幼い。けれど、幼いなりの手応えというものがあって。
僕は今日。彼女と僕の人生ってやつに。報えたんじゃないかな。




