25
辺りはまだ暗かった。空の向こうで、朝焼けが顔を覗かせようとしている。しんとした空気と、夏なのに清々しくて。僕たちは家を出てから、ちょっと立ち止まっていた。それくらい、今日という朝が心地良く思えた。
それはきっと。彼女がいるから。
「ねえ安達君。私思うんだけど、今の時間じゃどこ行ってもじゃない?」
「うん、だからまずは散歩かなって。ゆっくり行こうよ」
「そだね」
夜凪さんは何も言わずとも勝手に歩き出してくれる。それだけのことなのに、僕はこの感覚に酔いしれそうだった。とてもいい。彼女の後ろを歩くのは。ずっと、眺めていたい。
「夜凪さん」
「なに?」
彼女はそう振り向いてくれる。
「僕、考えたんだけどさ。やっぱり今日一日、君に預けたい」
「え? 私としては、君に時間をあげたつもりだったんだけど。それでいいの?」
「それがいいんだよ」
「そっか」
彼女はそれから悩んでいるのか、歩みは止めずにいても口は開かない。そんな背中を眺めていたら、彼女は今度は身体ごと振り向いた。
「じゃあさ。その。……」
彼女はもじもじと、指先を遊んで黙り込んでしまう。
「どうしたのさ夜凪さん」
「いやー、えっとね? 今日は私を……」
そこで止まって、俯いて。そして目を逸らしながら気恥ずかしそうに言った。
「今日は私を、彼女にしてほしいの」
「……」
僕は呆気にとられた。それからつい口をついで出てしまっていた。
「え? 夜凪さんってそこでそんな照れちゃうタイプだっけ」
「いやいや安達君、私これでも乙女だから。それに、その。彼氏? とかいたことないし。言うの結構勇気いるんだからさ。もっと他に言うことあるでしょ?」
「あ、はい。えっと、じゃあよろしくお願いします」
「なんか味気ないなあ……」
「ごめん、僕にそういうの求められても」
「まあそうだよね、安達君だもんね」
彼女はがっかりしながらも微笑んでくれてはいた。
「私さ、普通の高校生ってやつ、やってみたかったんだよね。だから今日、時間くれるっていうなら普通にデートしてみようよ」
「僕は構わないけど。いいの? 僕で。自分で言うのもあれだけどさ、僕に普通は求めない方がいいと思う」
「じゃあ安達君は私が他の男とデートしてるとこ見たい?」
「絶対無理」
「ほら。だったら今日は私の彼氏でいて」
「わかったよ、楓」
僕がふざけて名前で呼ぶと、彼女は口を開けたまま固まっていた。
「楓?」
「待って? 名前呼び禁止。理由は恥ずかしいから」
「じゃあ今日は楓でいこう」
「もう安達君! それよくないよ!」
彼女は僕を叩こうとするが、その手は透けてかすりもしない。ここぞとばかりに僕は畳みかけた。
「楓、安達君じゃなくて律って呼んで」
「……!」
「ほら、試しに一回」
「……り、律……? あーやっぱだめ! こそばゆい、脳みそ痒い、マジ無理!」
彼女は恥ずかしさのあまりか顔を背けて背中を向ける。
「安達君、もう駄目だからね? 呼ばないし、呼ばせないからね?」
「えー」
「えーじゃない!」
彼女は「もう」とかなんとか言いながら一しきり悶絶した後、そっと僕の横に立ってくる。
「夜凪さん?」
「今日は彼女だからね」
彼女はそう言って笑いかけてくる。そうか。そういうものか。彼女の背中を眺められないのはちょっと残念だけれど、隣もまあ、悪くはないかな。
僕たちは隣り合って、散歩を再開した。
「そろそろ朝だね」
彼女の瞳の向かう先には太陽が顔を出していて。僕たちを照らしていた。
「夜凪さんは今日、普通のデートって言ってもさ。何かしたいこととかある?」
「えっとね。……わかんないや。高校生って普段何して遊ぶの?」
「それ僕に聞いちゃう?」
「そうだね。君に聞いても意味ないね」
「辛辣。まあ、夜凪さんの気の向くままでいいんじゃないかな。世の高校生もそんなもんでしょ」
「じゃああれだ。カラオケとか? 行くんでしょ皆」
「行くんじゃないかな」
「後は安達君に可愛いとこ見せたいから服も買いに行こう」
その理由だけでも十分可愛いのだけれど。
「それから、美味しいもの食べたい」
「それっぽくなってきたね」
「それからさ」
彼女は触れられない手で、僕の手に触れてくる。
「思い出いっぱい作りたいから。写真とか撮りたい、かな」
彼女はそう言って、照れた顔を背ける。
「うん。それは僕も同じだから」
気持ちを言葉にして、共有して。僕たちは同じ時間を歩いていた。
*
朝だし、どこの店も開いていないから。僕たちはまずカラオケに足を運んでいた。店内はオール明けの大学生とか、ちょっといかがわしい雰囲気を漂わせている男女とか、まあそんな具合だった。
僕たちも受付を済ませて個室に入る。聞いたところによると、彼女はこういった場所に来るのが初めてのようで。終始機嫌が良かった。
「ねえねえ安達君。カラオケって食べ物とかあるんでしょ? いっぱい頼もうよ」
「夜凪さんってもしかして頼むだけ頼んで食べきれないとかやらかしちゃうタイプ?」
「……まさかそんな」
「夜凪さん?」
「でもさでもさ、折角来たんだしさ? ね?」
「わかったよ。僕が頑張ればいいんでしょ?」
「さっすが男の子、頼りになるー」
彼女はすかさず大量のフードを注文する。どうやら僕の胃袋がぱんぱんになることが確定したようだった。
そうして、カラオケに来たのだし。僕たちは歌い始めた。
意外だったのは、彼女は多くの曲を知っていたし、それから歌が上手かった。
本人に聞いてみると、考えてみればそれもそのはずで。彼女は多くの記憶に触れてきたのだから、当たり前だった。それから単純に、彼女はそういった娯楽の類が好きらしい。そう言えば部屋にも漫画が大量に置いてあった。
「ただね、これにはデメリットもあってさ」
「どんな?」
「ネタバレくらうんだよ」
「あー。確かに」
「楽しみにしてた作品がさ? もう読まれてるとか偶にあって。初見のわくわくって大事じゃん?」
「それは大変にわかる」
僕もよく本に触れるからとても共感できる話だった。
と、そんな話をしていると部屋にノック音が響く。彼女が大量に頼んだフードが届いたようだった。机に食べ物が並ぶ。そして彼女は目を輝かせて、片っ端から手を付けるのだった。
これ、残ったの全部僕が食べるのか……。
入るかどうか定かではないが、ただ。彼女が幸せそうなのでそれはそれでよかった。
僕は彼女が食べている間暇なので歌う。偶に彼女も一緒に歌ってくれる。何でも曲を知ってくれているので、無理に合わせる必要もなく。何を歌ってもいいから気楽だった。
彼女は案外大食漢で、僕が歌っている間にそこそこに減っていた。
「あー、もうお腹一杯。安達君後は任せた」
「はいはい。お任せあれ」
僕は彼女にマイクを渡して食事を始める。カラオケのフードは、こう。油っこくて僕には少々きついものがあった。夜凪さん、よく食べたなあ……。
彼女は食後の腹ごなしにご機嫌で歌っていた。やっぱり、歌が上手い。そもそも彼女は声が良い。それは普段からよく知っていた。
僕はそんな彼女の歌を耳に入れながら黙々と食べる。
そうして粗方なくなって、僕は一休みを始めた。
「安達君頑張ったね」
「ほんとにね。もっと褒めて」
「安達君えらーい、よしよし。まあ撫でられないけど」
彼女は透ける手で僕を撫でようとする。
「安達君って甘えた癖ある?」
「突然なに。ないよ、多分」
「いやだってさ」
彼女は僕の隣に座って距離を詰めてくる。
「安達君、その、あのとき。……した後さ。ずっと離してくれなかったから。こう、ぎゅって」
彼女は触れずらそうにそう口にする。けれど、それを言及される僕の方が恥じらいが増していく。
「……違うの?」
そう、下から問い詰めてくる。僕は言葉に詰まってしまった。
「……違わない、のかな。いやでも。僕としてはそんなつもりはなかったんだけど」
「そう? 私としてはもっとさせてあげればよかったかな、なんて」
「まあ、それは嬉しいけど」
彼女は僕の頬に手を伸ばしてくる。
「……触れられないね」
そう言う彼女は、どこか物悲しそうだった。
「なんてね。そろそろ時間だし、出よっか」
「ああ、うん」
彼女は今のことなんてなかったかのように振る舞う。だから僕も忘れて、共に部屋を出た。
それから僕たちは小休止に街中を散策する。今日の彼女が立てた予定をどれからこなしていこうか。そんな午前中。そろそろ店も開いてくる頃で、僕たちは入る店を探していた。
「あのさ夜凪さん。今更だけど、朝から一日遊ぶって結構ハードじゃない?」
「そう? そんなことより安達君はどんな私が見たい?」
「どんなって?」
「服のジャンルだよ。それによってどこ行くか変わってくるし」
「あー、そうだな。……古着とかどう?」
「まさかのそっち? いいの? 現代に染まった倫理観がちょっとバグった露出感の現役JK見れないよ?」
「おじさん臭い思考やめて。それにわかってないな。僕は唯一無二の夜凪さんが見たいんだよ」
「男の子の拘りってやつ?」
「そうなのかな。まあ、そっちのほうが可愛いと思ってさ」
「わかった、じゃあそうしよう」
夜凪さんも了承してくれたことだし、僕たちは古着屋に向かった。昔、未耶と出かけていたときに見つけた古着屋。大通りから外れて、路地に入り、細い階段を登っていく。着いた先には頑丈そうな扉があって、開くと甘い匂いと共に、服が広がっていた。
「安達君は私にどれ着せたいの?」
彼女は服を手に取って試しに自分に当てて鏡を覗く。そのシャツもシンプルで似合っているのだけど。僕は色々と想像が膨らむ。とりあえずの想像に任せるままに服を選んでみた。
僕が服を渡して、彼女は試着室に入っていく。暫くすると、彼女のほうから声をかけてきた。
「安達君、開けてみて?」
試着室のカーテンを開けると、それらしくポーズを取ってくれている彼女がいた。僕の選択は間違っていなかったようで、シックな青みがかったワンピースは彼女によく似合っている。
「どう?」
「抱きしめたい」
「安達君、きもい」
そう彼女は笑い飛ばしてまたカーテンを閉める。
次に開いたときには、オーバーオールを見事に着こなしている彼女がいた。
その次はオーバーサイズのデニムジャケット。
その次はフレアパンツにシンプルなシャツと。
やはり彼女にはどの服も似合っていた。僕が選んだだけあるな。
「安達君ってこういうのが好みなんだね。もっとえろいの持ってくるかと思ってた」
「あまり僕を舐めないでくれ。それにね夜凪さん、女の子っていうのは可愛ければ可愛いほどえろいんだよ」
「へー」
「興味ないでしょ」
「そりゃね。それに安達君、あんなに真剣に選んじゃって。えろくてもえろくなくても、私のこと大好きみたいだし?」
「それはまあ、否定しないでもないけど……」
「可愛い反応するじゃん」
「黙って」
「はいはい」
そう言って、彼女は服を会計に持って行く。自分で言ってしまうが、これはいい買い物だった。うん。
古着屋を出ると彼女は無言で買った服の袋を差し出してくる。僕はそれを手に取った。
「安達君。もし今日で私が消えたらその服好きにしていいよ。一応試着で着てるしね」
「好きにって。何に使うのさ」
「言わせるの?」
「……」
夜凪さん、なんてえっちな子なんでしょう。
「そんなことより夜凪さん。次はどこ行こうか」
「うーん。いっぱい食べたし、服も買ったし。あ、身体を動かしたい気分? かな」
それならばと。次に僕たちはバスに乗り込み、揺られること十分ほど。近場のアミューズメント施設へと向かった。
バスの車内で、暇なのか彼女はよくちょっかいをかけてきて。触れないのをいいことに貫通する指で僕を突いて遊んでいた。それから、自分でやっておいて、触れないことを若干切なそうにしていたり。本当に何がしたいのか。僕はついつい笑ってしまっていた。
アミューズメント施設に着いて、受付を済ませて僕たちは早速遊び始める。まずはボウリングからだった。
彼女はボウリングも上手かった。なんでも、これも上手い子の体験をしたそうで。
「ねえ夜凪さん、ずるくない?」
「なにが」
「バスケも上手い、ボウリングも上手い、知識も豊富。人一人の経験量を凌駕してるよね」
「そんなこと言われても。できちゃうものは仕方がないじゃない」
そう言って彼女は球を投げる。またストライクだった。
「でもさ、僕に勝ち目がない」
「なに、安達君は私に勝ちたいの?」
「……そうでもないかも。でも勝ったらご褒美欲しいかな」
「いいよ? どうせ勝てないけど」
「じゃあ僕が勝ったら一回、僕のことお兄ちゃんって呼んで」
「安達君……」
彼女が明らかに引いていた。
「待ってくれ夜凪さん、あれなんだよ。聞いて?」
「はい、言い訳をどうぞ」
「あのね? 君にお兄さんって呼ばれるのがすっごくよくて」
「は?」
「だから。今寝てる夜凪さんはぼくのことお兄さんって呼んでくれてて。それがすっごくよかったの!」
「へ、へえ……」
僕が熱弁するものだから、余計に彼女との距離が開いていく。
「安達君は、その。妹ちゃんが好きなのはわかるよ? うん。でもさ、どうなの? 私にまでそれを求めるって。しかもお兄『ちゃん』なんだね。細部まで拘ってて私感心しちゃったよ」
「それはどうも」
「皮肉だバカ」
彼女は透ける指で僕の額を弾く。なんだか、夜凪さんにぞんざいに扱われるのも悪くないな。
「まあいいけどね。私が勝つから」
僕の投げる番が終わるとまた彼女が投げる。……ストライクだった。
それから結局、僕も奮闘したものの、ほとんどストライクで決めてしまった彼女が勝利を収めた。彼女はわざわざ僕に向かってポーズを決めて煽ってくる。可愛いな。
というかそれよりも。ちくしょう、お兄ちゃんって呼ばれたかった……!
それからも数回ボウリングを行い、そして僕は一回も勝てず。僕たちは次の遊びに移っていた。
ビリヤード。これはやったことがないから勝負を挑むまでもなかった。
「夜凪さん、経験の程は?」
「そりゃもうばっちり」
予想通りというか。彼女はこれも経験済みだった。
「よし。安達君にビリヤードの真髄を教えよう」
「お願いします先生」
彼女はあれこれ僕に指導してくれる。それが気分がいいのか、彼女の口はよく回っていた。姿勢がなってないだの、持ち方が猿と同等だの。僕を小馬鹿にするのを楽しんでいた。
ただ、次の一言で僕はそんなことどうでもよくなってしまった。
「肩の力を抜いて? お兄ちゃん」
「……!」
お兄ちゃん……? 今お兄ちゃんって言った……?
彼女が耳元でそう囁いてくれた。僕が鼓動を激しくしながら隣に目をやれば、彼女はやってやったと言わんばかりに悪い笑みを浮かべていて。
「夜凪さん、愛してる」
僕はついついお返しに愛を囁いていた。
「ありがと。てか君、私のこと好きすぎ」
そう、彼女は愉快そうにしていた。
そんなこともありつつ、一通り教えてもらって、手始めに一ゲームやってみることになった。
彼女が球目がけてキューを構える。
「あ、安達君。胸チラはないからね?」
「甘いな夜凪さん、見えないからいいんだよ。後その構えてる体勢と鎖骨だけで僕は充分満ち足りてるからごゆっくり」
「うん、変態さんだ」
彼女は僕を軽くあしらいながらキューを打ち出す。球が勢いよく散らばっていった。
それから僕もなんとか得点を稼ぎつつも、やっぱり彼女は何枚も上手で。そのからも何回やっても彼女には勝てなかった。
「安達君、よわよわのざこざこだね」
「夜凪さん煽るの好きだよね」
「ダメ?」
「駄目じゃない。なんならちょっと嬉しい」
「じゃあいっか」
初心者相手でも勝てたのは気分が良いのか、彼女は弾んでいた。
それからは自販機の飲み物で休憩しつつ。結構遊んだし、時間もそこそこ経ったということで僕たちはこの場を後にすることとなった。
またバスに揺られて、街に戻る。時間は夕方前で、一度は膨れた腹もまた空いてくる。彼女は美味しいものを食べたいと言っていたし、何処へ行こうか。
そんなことを巡らせながら街へ着き、ふらついていると。
「安達君。私はハンバーガーが食べたいです」
彼女のほうからそう提案してきた。しかし。
「いいの? 夜凪さん。もしかしたら最後の晩餐になるんだよ? それがハンバーガーってさ」
「だからだよ」
彼女は意気揚々と教えてくれた。
「いい? 私はここまでありとあらゆる食事にありつくことを想像してました。でもね、どれも違ったんだよ。お高いディナーも、逆に質素な食事も。そこで私は至ったの。最後の晩餐に相応しい食事は何か。ジャンクフードなんだよ。日頃から何気なく食べて、味をよく知っていて。そしていつだってその安定した味で私を満足させてくれる。まあ私がそこらの美食家なら話は違ったかもしれないよ? でも私はただの女子高生。何の気兼ねもせず食べるハンバーガーこそが私の日常なの。わかった?」
「は、はい……」
話が長い。要は彼女の好みということだろうか。
「それに、初めて君と食べたものだしね」
そう付け加えられて僕は思い出す。そして、それを理由の一つにしてくれたのが、こう。頬が上がるような思いにさせられた。
「じゃあ行こうか」
彼女はそう、跳ねる足取りで僕の前を歩いていった。
最寄りのハンバーガー店に着くと彼女は一応、最後の晩餐なのを意識してか。どれを食べるか決めあぐねていた。僕はもう決まっているのだけれど、長いこと彼女を待った。
五分、十分と待って。彼女はようやく顔を上げる。
「よし、安達君。あれとあれ頼んで」
あれ、僕のも指定される感じ?
「食べきれないから」
「ああ、はい」
シェアしろということか。正直、僕は一つでもお腹一杯なのだが。まあ、頑張ろう。
そうこうして注文を済ませたのだけど。僕は驚愕のあまり彼女の細いお腹をまじまじと見つめてしまった。だって、まさかバーガーを三つにサイドメニューまで頼むだなんて。その栄養はどこへ消えるんだろうか。僕はついでにお腹の上にも目をやったが、やはりそこは平坦だった。……どこへ消えるんだろうか。
注文から暫く待って、ハンバーガーを受け取ると僕たちは店内の席に座る。目の前には大量のハンバーガーたち。僕はその光景だけでもう胸焼けしそうだった。
「いただきます」
彼女はそう言うとハンバーガーにかぶりつく。心底幸せそうだった。美味しいなら僕が胸焼けしても問題ないか。
「安達君。そっちの一口目もちょうだい」
「はいはい」
彼女は僕がハンバーガーを差し出すとそのままかぶりつく。口の端にソースをつけながら、
「最高に美味い」
と。僕はそんな彼女にナプキンを渡す。彼女はそっと口を拭くとまた食べ進め始めた。ペースは順調だけれども。
「夜凪さん。ほんとに全部食べきれる?」
「余裕。あんまり馬鹿にしないでくれる?」
そんなもぐもぐしながら言われても。
「してはないよ。いや、食べきれるならいいんだ、うん」
というか、食べてるだけで可愛いなこの子。指でついたソースを拭う仕草一つとって様になる。
僕も、そんな彼女を眺めながら食べ始めることにした。
「思い出すね、初めて打ち明けたときのこと」
それは、彼女の秘密を、幽霊染みた現象を僕に教えてくれたことを差すのだろう。僕は思い返してみる。
「あのとき、僕目潰しされたっけ」
「だって。それが手っ取り早かったから」
「まあ確かに。信じるしかなかった」
彼女は一呼吸置く。
「……鬱陶しくなかった? 私のこと」
「え? どうして」
「面倒に巻き込まれたって思わなかった? 自覚はあるよ。私、あんまり性格もよくないし、幽体離脱しちゃうし、勝手だし。はっきり言ってうざい女でしょ」
彼女は淡々と言う。僕としても、それは認める。けれど。
「夜凪さん。確かにそうだけど。僕はそこも込みで君のこと可愛いと思ってるし、そういうところがあったっていいよ。うざいから、付き合い甲斐があるというか。それに、それを言うなら僕だって大概だよ」
「確かに。私にはあんまりしないけど、セクハラ大好きだし、ちょっと態度が中二病拗らせてて、しかもシスコンで。前の彼女の気持ちもわかるよ。私だって一番の女になりたいもん。まあそんな我儘言わないでおいてあげるけど。感謝してよね? こうして時間を共有させてあげてること」
「その偉そうな態度も可愛いよ」
「それはどうも」
僕たちはつい笑みが零れる。単純に、そういう安らぎの時間だった。
「そんな私が大好きな安達君にはこれをあげよう」
彼女はサイドメニューのナゲットを僕に無理やり食べさせてくる。僕、もうお腹苦しいのに……。
「……夜凪さん、食べきれないんでしょ」
「まさか」
「今正直に白状したら手伝うよ」
「……ちょっと苦しいかもなー。みたいな?」
「よくできました」
仕方のない子だった。
僕は彼女の食べかけを受けとる。彼女は次を食べる。僕、なんて都合の良いことだろうか。僕は無心でハンバーガーを頬張っていた。彼女は好き勝手食べれるのが余程気分が良いのか、まあ、これが最後かもしれないしいいのだけど。食い散らかす、と言うのが打倒だった。手をつけるだけつけて僕に渡してくる。
僕は満腹になって休憩を挟んでいる彼女を横目に、少々時間はかかってもなんとか完食し終えた。
「いやー、食べたね」
「夜凪さん、やってやった感出してるとこ申し訳ないけど、後半ほとんど僕が食べたよね。夜凪さん僕に適当な野次飛ばしてるだけだったよね」
「そうだったかな。まあそんな細かいことはいいんだよ。お腹一杯食べた。この事実だけで私は満足」
「それならよかったけどさ」
僕も彼女もお腹の苦しさと多幸感で満たされていて、二人で息をつきながら店を出た。
「そろそろ、日が落ちるかな」
腹ごなしに歩きながら、彼女はそう言う。夏だからまだ明るいだけで、確かにもういい時間だった。
その一言で僕は。僕たちは意識してしまう。今日が終わることを。それはこの時間が終わってしまうことになると、僕たちは意識してしまう。
「安達君」
「なに?」
「……やっぱなんでもない」
嘘だ。言いたいことはあるはずなのだ。彼女も僕も。
ただ二人とも、今日はそれを避けてきた。明確に言葉にしてこなかった。ここでも僕は逃げてしまっていた。し、多分、彼女も逃げていた。
このまま今日が終わるのだろうか。そしたらどうだろう。彼女がいなくなったら、消えたら。一度は受け入れたことだけれど。二度も同じ思いはしたくはなかった。
とにかく。
今しかないのだ。今しか、もう彼女と向き合う時間がない。けれども、今しがたのやり取りで、いやに二人とも意識してしまっていて。ただ歩くだけになってしまっていた。
そんな意味もあるのかわからない足取りでいると、彼女が足を止める。
「ねえ安達君」
彼女は道すがらの建物を見つめていた。それから、何か気合を入れていた。
「ここ、行かない?」
彼女は指差す先には、小さめだけれど。中に水族館があるようだった。
「夜凪さん、魚とか好き?」
「いや別に。でもさ、雰囲気よさそうだし」
そう言って彼女はふらっと中に入っていく。僕は着いていきながら、ちょっと覚悟を決めた。彼女と話をするなら、ここしかない。
水族館の中に入ると、薄暗さの中に、青白い光。立ち並ぶ小さいショーケースに、小さな生命。僕も彼女も一変した雰囲気に、つい互いに見合っていた。
僕らは水族館の導線に従うままに海の生き物たちを眺めていく。
「なんか、こういうのも悪くないね」
彼女は僕らと魚たちとの、ガラスの境目を突きながら僕に問いかけてくる。
「安達君は魚とか好き?」
「食べるのは好きかな」
「君ってわざとそういうこと言うよね。捻くれさん?」
「……まあ、言う通り悪くはないよ。こういう場所だけの限られた空気ってあるじゃない」
「そうだね。なんだか、ここなら普段と違うことが言えそう」
「例えば?」
「君が好き」
彼女は背伸びをして、そっと僕に、寄り添うように、あくまでも平静に。瞳を近づける。
「とかね」
なるほど。大胆だ。
「……それは僕も知ってるよ」
「そう? でも言ったことはない気がしてさ」
「そうだったっけ」
「まあ、何回言ってもいいよね」
そうして彼女はそれきり、黙ってしまった。ただ小さな命を眺めるだけで。僕は僕で、そんな彼女を眺めるだけで。別に今更気まずくはないし、僕はいつだって彼女の後姿に惹かれている。目を細める横顔だって美しい。けれど。僕の胸はざわついていた。それでも僕の口は開きはしない。次の、また次のガラス越しへと、彼女は視線を動かしていく。
幾らか、会話らしい会話もあった。「あの魚綺麗だね」と言われれば、僕もそれを見つめて彼女と言葉を共有する。二人肩を並べて水槽を見れば、微笑む彼女が見れた。こういう場所の雰囲気とは見事なもので、生き物たちを慈しむ彼女が普段より増して澄んで映るし、彼女との距離も気持ち近い気がした。
そうやって変わらない時間が過ぎていく。刻々と時間が過ぎ去っていく。何もないまま、終わりが近づいていく。
もうこのまま、そういう綺麗な時間として終わらせてしまおうか。そう頭を過ったのだけれど。
「ねえ安達君」
彼女はそれを許さなかった。彼女は、色鮮やかなライトに照らされた海月が揺れるガラスを前に足を止めて。僕に問いかけるのだ。
「私のこと、やりきれないなって、思ってる?」
「……それは。どういう意味で」
「だって。消えちゃったじゃない、私。何も言わずにさ。だから君は私のこと嫌いになっちゃったかなって」
「そう、だね。確かにショックではあったけど。僕が君を嫌いになることはないんじゃないかな」
「ほんと? でもどうして? そんなに私のこと好き?」
彼女は悪戯めいた顔でそう聞いてくる。
「好きとか嫌いとか。そういうんじゃない気がする。もうさ、僕の中に沁みついちゃってるんだよ」
「じゃあ尚更申し訳ないや」
「君がそう気負うこともないと思うけど」
彼女は僕に、その青い眼差しを向けてくれる。その瞳は、憂いでいた。そうしてから、彼女は僕に今更ながら語ってくれた。
「私、わかってた。消えるって。時間がないことわかってた。お互いの気持ちもわかってた。でもね? 言えなくて。というか、もう言わなくていいかなって。君のこと軽んじてた。けど私我儘だから。最後に思い出が欲しくて」
「だから花火、か」
「うん。それに、君の全部が知りたくて」
彼女は僕に微笑みかける。少し八重歯が覗いていて、僕に向ける視線が柔らかくて、少し艶があって。あの、最後の夜を彷彿とさせる、そんな具合で。僕はふいに彼女を抱きしめたくなった。できないからなっただけなのだけど。
「なんとなくだけど。消える理由もわかるんだ」
「君が、望んだから。かな」
「よくわかってるね、安達君」
彼女は海月を見つめて、ガラスに手を添える。
「私は望んでしまっていた。私を消したいって。だからこんな不思議な身体になっちゃったんだと思う。そして君はそれに付き合わされてしまった」
付き合わされてしまったって。その言い方は引っかかった。
「違うよ。それこそ、僕が望んだことさ」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあそういうことにしとこう」
彼女は唐突に、僕に手を差し出してくる。触れもしないのに。それでも、僕も手を差し出して、重ねた。なんだか少しだけ、暖かい。
「ちゃんと、触れたかったな」
彼女は後悔の色を滲ませていた。
「今更じゃない?」
「ほんと、今更」
彼女は切なそうだった。
何故だろうか。自分から願って消えた癖に、今更そんなこと言って。僕だってちゃんと触れたいさ。でももう、遅かった。
「安達君。私、思い残すことなんてもうないと思ってた。でも今になって、もう一度君に会って。心残りばっかりだったよ。もう一度、君に触れたい。君と明日を迎えたい。やりたいことばっか浮かんじゃって、駄目だね。私ほんと駄目だ」
彼女はか細く、声を震わせていて。そんな声を出されたら僕まで俯いてしまう。
「消えたいって願っていたはずなのに。世界に別れを告げたかったはずなのに。こんな人生いらないって、そう決めたはずなのに。君のせいだよ? 安達君」
彼女は僕を見つめて言い寄って、透ける手で僕の手を握る。
僕は何も言えなかった。僕も言いたいことはあるさ。勿論ある。けれど。けれど……。
僕は喉奥につかえがあった。そう、いつか言われた。逃げているのだ、僕は。どうしようもない、染みついた習性。今変えなきゃ駄目なのに、僕の心はざわついているのに。どうにも僕はまごついていた。
そんなだから、彼女にこんなことを言わせてしまう。
「嫌だよね、もういないはずの女にこんな、縋られて」
「そうじゃない、よ。ただ僕は……」
僕はただ。本音で彼女と向き合いたいだけなのに。
僕は彼女から目を逸らしたくなっていた。人はそう簡単に変われない。きっと僕はこれからも逃げていく。そう、くじけそうになっていた。
のに。僕は見てしまった。
「……夜凪さん」
彼女の目元は震えていた。つい、触れられないとわかっていながら、その目尻に触れたくなるくらいに。彼女は切羽詰まった顔をしていた。
こんなの、誰が耐えられるだろうか。こんな美しい顔があってたまるだろうか。こんな僕を駆り立てる顔があるだろうか。僕は半ば、白状させられるように、微かに口が開いていた。
「夜凪さん、僕さ。怖いんだよ」
僕の予想だにしなかっただろう言葉に彼女は戸惑う。
「怖いの? 私そんな圧あるっけ」
「そうじゃなくてさ」
僕はこれ以上喋るのをせき止めようとする自分がいつつ、それでも口を滑らせる。
「……ありのままでいるのが怖いんだよ。そんな自分を君に見せたくない。今もさ、適当にはぐらかしたくて。つい冗談めかしたくなってしまって。でもそれじゃ駄目なんだよ。僕は君と対等でいたい」
彼女はそんな僕の葛藤に更に戸惑いを加速させていた。
「そう? 私は対等のつもりだけど。でも安達君的には今のままじゃ駄目なんだよね」
彼女は一応の納得をみせる。
「安達君は対等になるためにどうしたいの?」
「言いたいことがある」
「じゃあ聞きましょう」
「……」
「やっぱり言えない?」
「……難しいね。想像しちゃうんだ、気持ちの悪い自分を。だから誰かと面と向かって話し合えない。そんな自分に吐き気がする」
「そう。自意識の塊だね」
彼女はそう僕に、真っすぐに微笑んでくれていた。そんな彼女に僕は感嘆させられる。こんな懐の深い女の子、そうそういない。
彼女はじっと待って、僕に向き合っていてくれる。言ってごらんと言わんばかりに。
僕はたじろいで、目を逸らして、髪を弄って。それはもう時間をかけた。それでも彼女はじっと待つ。そんなに辛抱強いものだから、僕はとうとう呼吸を乱して、一言発していた。
「……好き、なんだけど」
「……」
暫しの静寂。
彼女はきょとんとしていて。やがて、
「うん、知ってる」
そう言ってくれた。
それから彼女は笑っていた。僕の肩を叩けない癖に叩いてくる。
「安達君、ツンデレさん? いやクーデレかな、ってクールぶってるだけだよね君は」
彼女は笑い続ける。
「そんなに笑わなくてもいいじゃない」
「だって」
なんて恥ずかしい時間だろうか。
それでも彼女は一しきり笑ってから、それから途端に落ちつきをみせる。
「でもそっか、そうだよね」
彼女は僕に向き直った。
「ごめんね、安達君」
「どうして謝るのさ」
「やっぱり君のことないがしろにしてたみたいだからさ。ごめんね? 君のこと傷つけた」
「別に。謝らせたかったわけじゃないよ」
「じゃあ、なんだろうな。今までありがと、安達君」
「……うん、そっちのほうがずっといい」
これで、やっと対等な気がする。ちゃんと最後の時間にできている気がする。
「でも、気分いいもんだね。好きって言われるのって」
「掘り返さないで」
「やだ。それに可愛かったよ?」
「余計にやだよそれ」
「なんで? 私絶対忘れないよ?」
「また消えちゃうかもしれないのに?」
「ううん。消えてもずっと覚えてる」
そう、彼女は確信めいていた。その自信は一体どこからくるのか。僕はほとほと呆れてしまう。だってそうだろう、そんな確信めいてしまうほど、僕との時間に重きが置かれている証みたいじゃないか。
「なら夜凪さん。覚えてたらさ、やりたいことでも決めとく?」
「そうだね。じゃあさ」
彼女はそっと自分の手を僕の手に重ねる。
「君に触れたい。手を繋ぎたい」
それは切実な願いに見えた。冗談めかしてもない、そんな願い。それならば、僕も応えたい。
「わかった。君の好きにしていいよ」
「うん。めちゃめちゃにしてあげる。あ、後。ついでにキスもしたい」
「それついでで言うこと?」
「君はしたくないの?」
「したいに決まってる」
僕はきっぱりと答える。
それを聞いた彼女は徐に僕に寄ってくる。
「安達君、屈んで」
「はい」
言われた通りにする。するとどうだろうか。彼女は僕の額にそっと口づけをしてくれた。
「今はこれだけね」
「夜凪さん。それはやらしいよ」
「でも嬉しいでしょ」
「うん。触れられるんだったら今頃髪を撫でまわしてる。それから」
「ストップ。キモい予感」
止められた。先を言いたくて堪らないな。でも言ったら絶対嫌な顔されるだろうな。……それも悪くないな。
「安達君は、ないの? 私としたいこと」
僕は問われて、ちょっと悩んだ。今僕は彼女のことを考えている。それは目の前にいる夜凪さんだけじゃない。今眠っている夜凪さんも、また彼女の一部だと思っているから。
「……夜凪さん。僕、君と約束したんだ」
「約束? そんなのしたっけ」
「君じゃなくてさ」
「ああ、そっか。安達君はもう片方も大事なんだね」
「まあ、うん。夜凪さん的にはどうでもよかったりする?」
「どうでもいいって言うより、実感がない、かな」
「それもそっか」
僕は彼女に話した。もう片方がどんな子か。何を約束したのか。もう一人の夜凪さんは、不安げで、でも色んな記憶はあるから口は達者で。必死に自分である確証を求めていて。
彼女は聞いて、何か合点がいったようだった。
「なるほど。私ってどこまでいっても我儘なんだね。――それにしても、約束か。安達君はもう片方にも消えて欲しくないと」
「うん。僕はさ――」
僕は、あんな恥ずかしい告白もしたのだし。勢いで言った。
「君を、君たちを肯定したいんだよ。君たちの時間を、意味のあるものにしたい。あったって言わせたい」
「意味って。そんな大層なことしなくてもさ」
「そう言って、君はずっと過去に縛られる。ない過去を求め続ける」
「それは。まあ。そうかもね」
彼女はそう目を伏せる。
やっぱり、このままじゃ駄目なのだ。僕一人で変えようだなんて、傲慢なのかもしれないけれど。それでも、彼女たちに「僕がいてよかった」って思わせたいのだ。なんて図々しいのかと。自分でもわかってる。のに、その欲求が止められなかった。
「でも安達君。それはどうしようもないことなんだよ。私は、私たちはこんな身体になってしまうくらい、自分でもわからないくらい、ためこんでしまっているんだと思う。それを今更どうにもできない。意味なんてない」
そんな諦めの言葉に、僕は言い返したくて仕方がなかった。
「じゃあ夜凪さん。僕と出会ってどう? 僕との時間は意味がなかった?」
「違うよ安達君。だからこそ特別だったんだよ。ほんと、夢みたいな時間だった」
「だったら……」
彼女はそう、また諦めに近いことを言う。
だったら。もう言ってやろうじゃないか。
「夜凪さん」
「……なに?」
「――人生、全部ください」
「…………は?」
彼女は言葉を呑み込めなかったのか、そのまま突っ立っていた。
「あの、えっと、安達君。今のは、さ」
「夜凪さん。僕が人生をかけて、未来も、過去も全部受け止めてみせるから。それに約束通り、君の人生積み上げてみせるから」
「うん、待って? 待って安達君。言ってる意味わかってる? それってもう学生の範疇を超えてるっていうか、え? だって、それじゃあもう私たちけっ、こんっていうか、その。え? 私なに言ってんの……?」
夜凪さんはわかりやすく慌てふためいていた。これは、まだ僕の言葉がしっかり伝わってないだろか。僕はもう一度わかりやすく言葉にした。
「夜凪さん。結婚しよう」
「……」
「……」
「は、はい……」
彼女は返事はしたものの、まだ事態を掴めてはいなさそうだった。
けれども。僕の気持ちは伝わったらしい。彼女の瞳は潤んでいた。僕のことを、真正面から見つめてくれていた。
「安達君。いいの? 私、相当面倒臭いよ? それにさっきも言った通り我儘だし、というか、まだ消えないかもわかんないし。君、絶対愛想尽かすよ? 私絶対理不尽なこと言うし、要求通らなかったら文句言うし、それから、それから……」
「夜凪さん。わかったから。全部わかってるから」
彼女は目尻に溜めた雫を一粒流す。僕はそれを拭おうとしたけれど、そうだった。触れられなかった。変わりに僕はハンカチを差し出す。
彼女は目元と拭って、それから放心していた。
「私、プロポーズされちゃったんだよね……?」
「……嫌だった?」
「そうじゃない! そうじゃなくて。安達君の人生、私で歪になっちゃうなって。それがすっごく、愛おしくて」
彼女は気持ちが定まらないのか、またあたふたとしていた。あれこれ言葉を探している。
「ああ、もう。安達君。私絶対君と結婚するからね? もう言い訳とか聞かないよ? 絶対だよ? なしはなしだよ?」
「うん。二言はないから」
僕はそれだけ笑顔で返した。彼女はそれでやっと事態を呑み込めてきたのか、顔が明るくなっていく。
「なんか、一気に進んじゃったね」
「そう? また通過点だよ。これから先、もっと色んなことがある」
「そっか。それも全部、ずっと一緒なのか」
僕たちは一通り終えて、僕は安堵で、彼女はどうだろう、嬉しさが込み上げてきてそうだった。
とにかく。一歩進んだ気がして。やっとな気がして。これで彼女は、未来に生きれる気がして。
そんな僕たちは待っていたかのように、彼女は声を上げた。
「安達君、私……」
それはいつか見た光景だった。僕が病室で見た、何人もの知らない少女たちが消えていく光景と、それは類似していた。彼女が薄く、消えていく。
「時間みたい、だね」
タイムリミットだった。これから彼女は、夜凪楓へと戻っていく。
「……安達君、言い残したことはない?」
「全部言い切った」
「そうだよね。プロポーズまでしちゃったもんね」
「夜凪さんは言いたいことある?」
「そうだな」
彼女は一歩、僕に歩み寄る。
「安達君、ありきたりだけど言わせて」
彼女はもう一歩踏み込んで、飛び込んで。僕に両手を広げて。耳元で囁いてくれた。
「愛してるよ」
それから霧散するように、彼女の身体は溶けていく。
やがて、僕を抱き留めるように。彼女はその姿を消していった。
暫く、僕は呆けていた。それから、残されたハンカチを拾う。彼女の微かな香りが鼻を掠めた。
「……帰るか」
僕はどっと疲れがきていた。今日一日ハードだったし。そもそもあんまり寝ていないし。というか、夏休み中寝不足だったし。
なんだか節目と言うか。僕はふと微笑みが漏れていた。そうだ。僕はずっと楽しかったのだ。
そんな夏休みも終わりを迎える。
僕は潤んでぼやける視界を瞬きでなかったことにして。
狭い歩幅で帰路に着いた。




