23
翌日になって。僕は夜凪さんを連れて、夜の学校にやってきていた。まさか、二度も侵入することになるとは。同じこととなると手慣れたもので、僕は校門によじ登って彼女の手を掴んで掬いあげる。中への侵入を成功させると、彼女は物珍しそうに校舎を眺めていた。
「結構おっきいんだね」
「まあ、そこそこの人数が通うわけだし」
「どこから行こっか」
「君の好きなように。どこでもついてくよ」
「じゃあまずは君の教室からで」
僕たちは校舎のしまっていない窓を見つけて中に入る。彼女は道のりもわかっていないのに独りでに歩き始めるから、僕が口頭で道案内しながら教室を目指す。
こうして彼女の後ろを歩くのは久しぶりな気がする。なんだか懐かしかったし、落ち着いた。
教室に着くと、彼女は僕の席は何処かと尋ねてくる。そらから僕をそこに座らせて、彼女は隣に座る。なんだか、前に来たときもこうした気がする。
僕がふと彼女に目をやると、彼女はあの日と、同じような寂しげな表情を一瞬だけ見せていて。僕は頭を殴られたような衝撃だった。夜凪さんが帰ってきたのかと錯覚してしまった。
「? どうしたの?」
「いや。なんでもない……」
気のせいだ。彼女はもういないのだから。
けれど。どうしてそんな顔をするのか。まあ、今の境遇を考えれば、当然のものとも思える。
「ねえお兄さん、私に勉強教えてよ」
「僕が? 別にいいけどさ」
と、そこで僕は一つ至る。
僕なんかよりも、彼女の方がよっぽど多くの知識を有しているのではないだろうか。だってそうだろう。一体何人の記憶に触れてきたのか。
「……ねえ、夜凪さんってさ」
「まってお兄さん。違うんだよ。私の頭の出来とか関係ないの。お兄さんに教えてもらった事実が大事なの」
「そ、そう?」
「そうなの」
そう言うから、僕はとりあえず机の中を漁る。置きっぱなしの数学の教科書が出てきた。
「じゃあこれで」
「お願いします」
そこから、僕と彼女との個別授業が始まった。
筆記用具もないから、黒板に僕が問題を書いて、彼女は僕に教わりながら好き勝手答えを書いていく。彼女はやっぱり優秀だった。僕なんかいらないほど。なのに、いちいちわからないふりをして僕に解説を求めてくる。これに一体何の意味があるのか。
それでもまあ、初めてだったけれど。他人に教えるというのは案外悪くない体験だった。自分の中の理解度がより鮮明になる。
「お兄さん、意外と頭良いね」
「まあそこそこではあるからね。そこそこでしかないけど。それに君ほどじゃないよ」
「えー? 私そんなだよ?」
彼女は雑にとぼける。
「わざとらしいな……」
「お兄さん教えるの上手いし、先生になったら?」
「馬鹿言わないでくれ。誰が僕みたいな奴に教わりたいって言うんだ」
「私とか?」
「他には?」
「さあ」
「じゃあ駄目だ」
彼女はチョークを置くと、また。ほんの少しの間だけ、悲しそうにしていた。
僕は察してしまっていた。彼女の目的を。
多分、同じなのだ。前の夜凪さんと。もしもの時間。もし、僕と同じ学校で、同じクラスだったら。どうなるだろうかと。けれども、そんなことは起こらない。今の夜凪さんなら、もっとありえない。もう夜凪さんはいないし、この夏でいなくなる。だから寂しくて、悲しい。もしもが欲しくなってしまう。
困るな、これは。どうしてこうも彼女たちは似ているのか。
「夜凪さん」
「? どした?」
「いや、そろそろ。他のとこにも行かない?」
「うん、そだね」
僕はこの時間が耐え難かったから、教室を後にする。
僕たちは校内の散策を始めたのだけど。何もない。それは前回もそうだった。学校とは、というか、どこも。人がいるから成り立つ。誰もいない校内は空っぽだった。何処に行っても、僕ら二人のしょうもない会話しか聞こえてこない。
「夜凪さん、これでいいの?」
「いいってなにが」
「いや、これじゃ学校体験じゃなくて、いつもの散歩なんだけど」
「まあいいんだよ。君とここにいることが重要なのさ」
彼女は決め台詞っぽく言ってみせる。きざで、それでも格好良くて、はて。僕たち付き合っていただろうかと錯覚してしまう台詞だ。
「なら夜凪さん、ちょっと進展してみようか」
僕は彼女の手を取ってみた。繋いでみた。
「ちょっとお兄さん、もしかして私のこと好きになっちゃった?」
「それはない、んだけど。でもさ、このままじゃ駄目な気がして」
「駄目って?」
「だって、このまま夜凪さんいなくなったら、これからどうするのさ。僕は心配でしょうがないよ」
「ねえお兄さん、その心配ってさ。――、前の私の為の心配? それとも、私のこと、単純に思ってくれてるの?」
「……わからない。自覚ではまあ、半々くらいかな」
「そっか。じゃあこれはなしだね」
彼女は自ら、手を振り解いた。
「お兄さん、こういうのは私とキスできるようになってからね」
「……さようで」
確かに、僕は彼女とキスができなかった。断った。今のままじゃ、お互いに失礼だった。それがわかってたから彼女とのキスを断ったのに。よくないな。僕、何を焦っているのか。いやでも、焦らないと、彼女はいなくなる。……どうしようもないじゃないか、これ。
「……夜凪さん、いなくなるのやめにしない?」
「それは私じゃどうにもならないことだよ」
「だよねえ……」
僕たちはそんなことを喋っていたら、校舎を出て、体育館に着いていた。
「ちょっと寄ってかない?」
夜凪さんは楽し気に体育館に走っていく。僕もそれに続いた。
どうにか空いてる窓を見つけると、僕たちは中に侵入する。それから彼女は真っ先に体育倉庫に走っていくと、ボールを取って戻ってきた。……犬みたいだな。
「お兄さん、バスケしよ、バスケ」
「いいけど、僕下手だよ?」
「私が上手いから大丈夫」
彼女は自信満々にボールを投げ渡してくる。僕がそれを投げ返すと、彼女は言った通り、軽々とドリブルをして、シュートを放つ。そしてちゃんと入った。
「ね⁉ 私上手いでしょ?」
彼女は僕の方に振り返る。なんだか褒めて欲しそうだった。
「ああ、うん。そだね」
「もっとちゃんと褒めて」
「そうは言われましても」
「私、これでもユースの選手も経験してるんだからね?」
「わあ、すごーい」
「うん、褒める気がないのはよくわかったよ」
彼女は諦めた。それからまたボールで遊び始めた途端、足がもつれて思いっ切り転んでいた。ついでに「ふげっ」とか情けない声も出していた。
「……夜凪さん? だいじょぶ?」
「……今のはノーカンで」
「それは無理があるかな」
「違うの。ちょっと身体が言うこと聞かなくて」
知識と身体の経験の差か。どうも、彼女の身体にはユース選手の動きは無理があるらしい。
「言い訳はいいから」
「言い訳違うし!」
「はいはい」
彼女は苛立ちに任せて僕にボールを投げてくる。慌ててキャッチすると、彼女は無邪気に笑っていた。
「お兄さん、シュート打ってみて!」
僕は言われるがまま、見よう見まねでやってみる。ゴールを見れば、シュートは見事に外れていた。
「下手くそ」
「うるさいな、初めてなんだよ」
「なら私が教えてあげよう」
彼女が僕に近寄ると、指導が始まった。彼女は僕の身体をあれこれ弄り回して僕に正しいフォームとやらを教え込んでくれる。
するとどうだろうか。試しにシュートを打ってみたら綺麗にゴールに吸い込まれた。
「おお」
「やるじゃんお兄さん」
「まあね」
「ドヤ顔すんなし」
それから、僕と夜凪さんはバスケを楽しんだ。と言っても、軽くパスを回して、ゴール目がけて放り投げて。それだけの時間だ。それでも、ちゃんと楽しかった。互いにミスをしたら軽口で罵ってみたり、偶に強烈なパスをしてみたり。僕は受け取れないのだけど、彼女はちゃんと手に収めていた。
「楽しいね、お兄さん」
軽くなって汗をかいた彼女はそう笑いかけてくる。彼女はまだまだ元気そうだけれど、僕は疲れてきたからその場に座り込んだ。すると、彼女も隣に座る。
「ありがとね、お兄さん」
「急になに」
「私に付き合ってくれて」
「逆だと思うけど」
「そう? お兄さんそういうとこあるよね」
「どういうとこだよ」
「別に? ただ、お兄さんが良い人ってだけの話」
僕はそこまで善良な人間ではないのだけれど。まあ、そういうことにしておこうか。プラスの評価で、悪いことはないし。
「夜凪さんはどう? 今日は」
「良い日だなって。毎晩こんな夜だったら、悪くない」
「それはよかったよ」
「お兄さんのおかげなんだよ? お兄さん、尽くすタイプだよね」
「いやいや、それも逆だよ。僕はだらしない自覚があるからね。いつも妹に尽くしてもらってるし」
「妹は別枠じゃない? お兄さん、私がどんなお願いしても叶えてくれようとするでしょ」
「まさか。無理なお願いならすぐ諦めるよ」
「じゃあお兄さんの無理のラインってどれくらい?」
「……それこそ、その」
「してほしいとか?」
「あのさあ、僕が言い淀んだ理由を察してよ」
「お兄さん可愛いとこあるね」
「それはどうも」
照れちゃうじゃないか、全く。
彼女はそれから、ぼそっと呟いた。
「なんか、前の私のこと、ちょっとわかったかも」
彼女は僕に微笑みかける。
「お兄さんなら、後悔しなさそう」
「僕はそこまで良い男に見えるかい?」
「見えない。けど、そこがいい」
「……それはどうも」
彼女は僕を真っすぐ捉えてくれていた。
なんだろうか。その仕草が、表情が。端的に言って、似ている。夜凪さんはやっぱり夜凪さんなんだろうか。それとも、僕が寂しさのあまり、彼女を重ねているだけなんだろか。
「夜凪さん――」
けれど、それでも。彼女の頬を吊り上げた笑顔は、とても効いた。夜凪さんが帰ってこないかと、ついうっかり、顔に出してしまうくらいには。
それが、よくなかった。
彼女は一瞬、顔を曇らせる。それを僕は察してしまった。
「ごめん、違くて」
「いいよ。別に、何も悪くないしね」
いいよと言いながら、彼女は全くよくはなさそうで。無理した笑顔は引き攣っていた。
「ごめん、僕はただ。……たださ」
ただ。なんだろうか。僕には弁明の余地はなかった。だって、いつだって、彼女にはあの夜凪さんを重ねてしまっていたのだから。
「無理しないでお兄さん。私、わかってたから。お兄さんが私のこと見てないの、わかってたから」
「そんなことは、ないよ」
どうにも、僕は歯切れが悪い。
「いいんだよお兄さん。私が気づいてないとでも思ってたの? お兄さんいつも私のこと、寂しそうに見つめてくるんだもん。ああ、この人、違う人が見えてるんだなって。そりゃそうだよね。見た目はそのままなわけだし。違う中身になんて用はないか。私は夜凪楓じゃない。違うんだよ。だから、お兄さんの期待には応えられない。私は。何もない女の子」
「……」
矢継ぎ早に巻く立てる彼女に、僕から言えることはなかった。何を言っても、それはまやかしだった。
「私が存在する理由ってなんだろうね。自分が誰かわからなくて、友達はいないし、親は知らない人だし。唯一君にも、求められてなくて。ねえ、教えてよお兄さん。私ってどんな子? 夜凪楓って、どんな子だった?」
ほろりと、彼女の頬に雫が伝う。彼女の心境は察するにあまりあった。
「どんな子か……」
それを聞いて、彼女になにか、そうあるべきと押しつける結果になってしまわないだろうか。
ただ、それでも。彼女は知りたがっているようだったから。
僕は意を決して、息を吸う。
「……夜凪さんはね。そうだな。僕を困らせる女の子だったよ。僕より意欲があって、人生に対する、なんだろうな、向き合っていて。いつも僕の前を行く女の子だった。僕は彼女から色んなことを教わったよ」
「例えば?」
「人と関わるって、生きる上で外せなくて、それでいて面倒で、でも偶に心躍ることとか」
「そう。私にはわかんないや。夜凪楓は君のことちゃんと好きだった?」
「さあ。僕たち、そういえばちゃんと言葉にしてないからな」
「どうして?」
「彼女がどうして言わなかったのかはわからないけど。僕は、言えなかったな。彼女は、自由なことが彼女たらしめていたと思うから。好きって、縛りつけたくなかった。っていうのがありつつ。単に気恥ずかしかったっていうのもある」
彼女は僕に細い目を向ける。
「へたれ」
「手厳しいな」
「それで? 自由な夜凪さんの、どこがよかったの?」
「どこがよかったんだろうね。強いて言うなら、積み重ね、なのかな」
「なにそれ。私じゃどうしようもないじゃん」
「君は僕に好いて欲しいのかい?」
「好いてほしいっていうかさ。……何か、確固たるものが欲しいの。私が私でいていいっていう、証明? 理由? が欲しい」
「……そっか。じゃあさ」
僕は一つ、提案をしてみた。
「また、僕と積み重ねてみない?」
「は? それって私のことまた好きになりたいってこと?」
「そういう訳じゃなくて。積み重ねることで、君の人生を証明してみようって話」
彼女は深く考え込んで、はっと顔を上げると僕をじっと見つめた。
「……それ、悪くないね」
「でしょ?」
「じゃあお兄さん」
彼女は僕に小指を突き出してくる。
「約束ね。私を証明してみせて」
僕も、べただなとは口に出さず。小指を交わらせる。
「うん。時間はかかるかもだけどさ。ゆっくりやってこう」
指を切ると、彼女は満足気な顔をしてはにかんた後、僕の肩に頭を預けてくる。
「夜凪さん? なに、甘えたいお年頃?」
「そう。私まだ精神年齢的には赤ちゃんだから。存分に甘やかしていいよ?」
彼女は上目でちらちらと、甘やかせと言わんばかりに僕に目をやる。……まあ、これも積み重ねの一つか。
僕は彼女の頭に手を置いた。
「それでよし」
「偉そうだな」
「ねえお兄さん」
「はい」
「今晩泊めて」
「……もう一回聞いてもいいかな」
「今晩泊めて」
「夜凪さん、甘えるにも限度からあるよ」
「うるさいな。いいから連れてけ」
彼女は僕の腕を力任せに掴んでくる。握り潰されていた。
「痛いのですが」
「まだ五割」
「わかった、わかったから一旦落ち着こう」
彼女は僕から手を離すと、なんだか不貞腐れていた。
「もう病院で寝るの飽きた」
「そんな理由?」
「だって。あそこ何もないんだもん」
「そうだなあ……」
僕は大変に迷っていた。そう易々と連れ込んでいいものなのか。だがしかし、彼女はいいから連れていけと言わんばかりに僕を睨みつけていて、折れる気配がなさそうで。
僕は長考の末、諦めた。
「……わかったよ」
「よしゃ」
「よしゃって……。じゃあそろそろ帰る?」
「うん。お兄さんの家楽しみ」
打って変わって調子づいて。そんな彼女に僕は呆れ半分で帰路につくのだった。
*
僕は玄関の扉をこっそりと開けて、彼女を家に招き入れた。リビングに通すと、彼女は我が家の如くソファに座り込んで寛ぎ始める。
「夜凪さん、麦茶飲む?」
「飲む」
僕はコップを二つ用意して麦茶を注ぎ、ソファまで持って行く。僕も彼女の隣に腰かけて寛ぐことにした。
「なんか、疲れたね」
彼女は僕から受け取ったコップに口をつける。一口飲むと、そう言って僕に頭をぐりぐりと押しつけてきた。
「夜凪さんがボールなんて持ってきてはしゃぐからじゃない?」
「それを言うならお兄さんだって」
「まあそうなんだけどさ」
「それよりお兄さん」
「なに」
「私、汗かいたし、お風呂入りたいんだけど」
「奇遇だね。僕もだよ」
暫し無言。
それから僕たちはじゃんけんを始めた。何度かのあいこが続いて。僕は負けてしまった。悔しい。
「ねえねえお兄さん、もしかしてじゃんけん弱い?」
彼女は僕を指先で突いて煽ってくる。
「うるさい。……まあしかたないか。先入っていいよ」
「お風呂どこ?」
「こっち」
僕は廊下に出て夜凪さんを風呂場まで案内する。
「ついでに着替えも取ってくるから。置いとく」
「うん、ありがと」
彼女は脱衣所の扉を閉めながら「覗いてもいいよ?」とかなんとか言っていた。なんかむかつくな。というかこれ前もこんなことあったような。本当に覗いてしまおうか。
僕は部屋から着替えを取ってきて脱衣所まで持っていく。扉を開けると、彼女はシャワーを浴びていた。
「ここ、置いとくから」
「うん」
彼女から扉越しの返事。薄っすらと見えるシルエットから、つい、想像してしまう。僕は言われた通り覗いてしまおうかとも思ったが、まあやめておいた。多分怒られるだろうし。
リビングに戻って、適当にテレビを眺める。
それから待つこと一時間。彼女はようやく風呂から出てきた。
「お待たせー」
彼女は僕の、サイズの大きい服を着て、濡れた髪でリビングの扉を開ける。
遅くないかと、言いかけてやめた。僕はその辺りを弁えているから。
「……全然待ってないよ」
「うっそだー、顔に出てる」
「まあ、うん。めっちゃ待った」
「ですよね」
僕は重くなった腰を上げて風呂場へ向かう。
「ドライヤーそこにあるから」
「うん」
彼女にそれだけ告げて、僕も風呂に入った。
と言っても、男の風呂なんてそう長くはない。汗だけ流せればいいから湯にも浸からなかった。
十五分くらいで諸々済ませてリビングに戻ると、彼女はソファでつけっぱなしのテレビを見ながらぐったりしていた。髪も乾かさずに。
「……夜凪さん。ずっとそうしてたの?」
「ああ、いや。乾かそうとは思ってたんだよ? うん、思ってた」
「じゃあそうしなよ」
「お兄さん」
彼女はドライヤーを手に取ると、そのまま僕に差し出してくる。
「夜凪さん。僕はそこまで甘くないよ」
「と、言いつつ?」
「まあ。やってあげなくもない」
「やった」
仕方のない子だった。
僕はドライヤーを受け取って彼女の髪に櫛を通す。ヘアオイルを毛先に馴染ませて、適度な距離で髪を乾かしていく。
髪が長いから時間はかかるが、僕は彼女の髪を乾かし終える。それからブラッシングを始めた。
「いやー、至れり尽くせりだね。ていうかお兄さん、なんか上手くない?」
「妹にも偶にこうしてるからかな。長い髪の扱いには多少慣れてる」
「お兄さんのは私がやってあげよっか?」
「いいよ、面倒だし自然乾燥で」
「そこは適当なんだ」
ブラッシングを終えると、彼女の髪はばっちりと仕上がっていて。僕的にはかなり満足度は高かった。
彼女はじっとしているのに疲れたのか、軽く伸びをしてソファに寝転がる。
「ありがとお兄さん。おかげで私の髪はつやつやです」
彼女は髪を束にして手で遊ぶ。その仕草が可愛らしくて、それだけで乾かした甲斐があったというものだった。
これで風呂にも入り終えて後は寝るだけなのだが。何となく、僕は寝る気になれなかった。それは彼女も同じなのか、
「ねえお兄さん、暇なんですけど」
僕にそう言ってくる。
「そうだなあ。暇だよねえ」
彼女は何が好きだろうか。僕が提供できるものと言えば、本の山くらい。後は、子気味よい無駄口の叩き合いとかならできるだろうか。
そんなとき、僕はテレビの棚に目が行く。これならまあ、無難か。
「夜凪さん。映画とか好き?」
「さあ。私自身は見たことないし」
「じゃあ初めては僕が貰おうかな」
「なんだかやらしいなあ」
とは言いつつ。彼女は楽しみなようで、僕を急かしてくる。
僕たちはしんとした真夜中の部屋で、映画を見始めた。
始まって暫くすると、彼女はじっと、静かに画面に見入っていた。何もない彼女には新しい体験か。笑えるシーンでは頬が上がるし、シリアスなシーンでは真剣な面持ちで。
やがて彼女は画面に目を奪われたまま、僕に身体を預けて、そのまま僕の膝に頭を乗せた。これが楽な体勢みたいだった。僕としては、まあ。どうしてくれてもいいわけで。そのまま受け入れていた。
会話のない時間だった。映画に集中しているから当たり前なのだけれど。
僕は試しに彼女の髪を撫でてみる。何の反応もなかった。次は髪を払って、耳に指を添えてみる。何も起こらなかった。これは果たして、どこまでやったら怒られるんだろうか。
「ねえお兄さん」
唐突に彼女が口を開いて、僕は身構えた。お叱りだろうか。
と、思っていたが。彼女にとってはどうでもいいようで。そんなことより、
「約束、守ってくれるんだよね」
もっと大事なことを気にしていた。
「勿論」
「なら。いいや」
それきり、また会話はなかった。
映画はクライマックスに近づいてくる。それから、僕の眠気も徐々に増していた。今日はこのまま寝落ちだろうか。
この状態で朝を迎えたら、家族になんて説明しようか。
……まあ、いいか。
僕はエンドロールを眺めながら、下の彼女に視線を落とす。大方、映画に満足しているようだった。それに、僕も満足感を覚えて、増していく眠気に身体を預ける。ほのかな彼女の体温と共に、僕は瞼を下ろした。




