21
僕は迷っていたのだ。勿論、夜凪さんがいなくなってことで傷心はしていたさ。だから会いたくなかった。いなくなった現実に直面できそうになかった。
それと、もう一つ。今の彼女がどうなるんだって、それも引っかかっていた。記憶がなくて、目覚めたら知らない男と同じベッドにいて。そんな奴と話なんてしたいだろうか。それに、僕はきっと押しつける。昔の彼女を見てしまう。それはきっと、辛いことだ。と言っても。これも言い訳だろうか。
それでも。
僕は病院の前まで来てしまっていて。
もう面会時間も過ぎてしまっているから、僕は夜凪さんの病室まで忍び込むことになる。
病室の手前まで来て、僕は扉に手をかけたけれど。手が止まってしまった。
「お兄さん」
僕は突然声をかけられて、後ろめたいことをしていた手前、勢いよく振り返る。
そこには見知らぬ少女がいた。ほの暗い青い髪をした、不健康そうな、何処かの制服を着た少女。本当に知らない子なのだけれど。僕はなんとなく、きっとそうなんだろうなと悟った。
「君、夜凪さんかい?」
「まあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。とりあえず、入ったら?」
僕は促されるまま、その少女と病室へと足を踏み入れる。
仕切られたカーテンの向こうには、ベッドに夜凪さんが横たわっていた。とても綺麗で、でも、その綺麗さがまるで、言いたくはないけれど。もうそこにはいないことを告げているようで。
「お兄さん、何しに来たの」
彼女の寝顔に吸い込まれそうだった僕は、制服の少女に引き戻される。
「何って。うん。なんだろうね」
「言っておくけど。彼女は起きないよ」
「それはどうして」
「私たちが時間を貰ってるから。私たちが入れ替わりで彼女の時間を使うの。だから起きない」
他人のふりを続けて、遂には他人そのものになってしまったというのか。そういえばセナも、彼女が起きるかどうか気にしていた。こういうことだったのか。
僕は、それに。何処か安堵していて。やっぱり、彼女と話すのを恐れているようだった。
僕が用意されてた椅子に腰かけると、制服の少女は僕の背後に佇む。
「お兄さんは何しに来たの」
「だからそれは。僕にもわからないよ」
「じゃあ、どうしてそんなに悲しそうなの?」
「さあ。どうしてだろうね」
「お兄さん」
制服の少女は僕の耳元で囁く。
「起こしてほしい?」
その言葉に、僕の身体は震えた。
「……夜凪さんは、起きるのかい?」
「さあ。どうでしょう」
少女ははぐらかす。
「お兄さん。貴方は私たちのこと、どう思ってる?」
「どうって。どうだろうね。邪険にはできないよ。時間を奪ってるかもしれないけれど、それは夜凪さんの望みでもあって。まあ、夜凪さんはもういないわけだし。あまり僕にはもう、関係ないかもしれないけれど」
「へえ。関係ないか。お兄さん、薄情だね」
「そう? だって僕の記憶はもうないんだから。関わらない方がお互いのためじゃない?」
「まあ、そうかもしれないね。でもお兄さん、だったら。どうしてここにいるの?」
「……薄情になり切れなかったから、かな」
「うん。お兄さん正直だ」
「僕はいつだって自分に正直だよ」
そう。だから、よく逃げるんだと思う。
「私たちもね。戸惑うんだよ。気づいたら彼女の時間を使って、こうして彷徨っている。彼女の記憶もなくて。勿論、自分の記憶はあるけど、本人ではないから、それも紛いものでさ。これって、どうしたらいいんだろうね」
「……好きにすればいいと思うよ」
「いいの? それじゃあ、彼女はずっとこのままだけど」
「それならそれでもいいんじゃないかな。そしたら、僕も諦めがつくかもしれない」
「でもお兄さん、未練たらたらな顔してるよ?」
「そうなんだよね。困ったことに」
「お兄さん。一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「……彼女の為に死ねる?」
「……また、難しいことを聞くね」
「どうなの?」
「そうだな。僕は弱いから。きっと、逃げてしまうかもしれない。――でもね。それはそれとして。僕は夜凪さんの為なら、できることが一つあるんだ」
「それって?」
「側にいること。夜凪さんがどれだけ離れようとしても、孤独になろうとしても。それだけは。……自信がありたい、かな」
これはある種一つ、そうしたいという、誓いだった。
「ふーん」
少女はそう言って、僕の前で腕を組む。
「まあ、良しとします」
少女は夜凪さんが眠るベッドに腰かけると、透ける手で、夜凪さんの頬を撫でる。
「じゃあ、私はいくから」
「いくって、何処へ?」
「何処かへ。いいから、ちょっとそこで待ってて」
少女は微笑みを僕へと向けると、夜凪さんをじっと見つめていた。そうして僕が瞬きした瞬間、少女は僕の目の前から、霧散するように消えていた。
僕は呆気に取られて、それから言われた通りじっと待っていた。その間、することといったら、夜凪さんを眺めるくらいで。
そうして、一時間くらい経った頃。僕は息を漏らした。彼女の身体がもぞりと動いたのだ。と思ったら、ゆっくりと瞼を開いて、やがて、僕と目が合う。
「えっと。おはよう」
夜凪さんが目を覚ました。僕の言葉に寝起きで戸惑っているのか、彼女は黙ったままだ。僕も僕で、まさか起きるとは思っていなくて。互いに固まってしまった。
「あの、えっと。夜凪さん」
「……夜凪って、私だよね」
夜凪さんは不思議そうな顔をしていた。本当に、記憶がないのだ。
「ああ、うん。そっか、そうだよね」
僕はスマホを出して、夜凪さんの連絡先を彼女に見せる。
「これ」
「夜凪楓……。これが私」
彼女は相変わらず事態が呑み込めていないようで。僕と目が合うとふいと逸らしてしまう。
「あの、お兄さん」
「はい。あ、僕は安達ね。安達律」
「じゃあ安達さん。あの私たちって……」
彼女はそこまで言って、言葉を止める。そして頬を赤らめて、気恥ずかしそうにしていた。僕は何かしたかと思い巡らせて、はっとした。彼女の最初の記憶は僕とだった。それも、互いにベッドの上で、一糸纏わぬ姿で。それを気にしているのだろうか。
僕は軽く咳ばらいを挟む。
「……夜凪さん。僕たちはその、僕の勘違いでなければ仲はよかったと思うけど。そういう関係ではない、とも言い切れないか。……とにかく。不純ではなかったはずだから。そこまで気にしなくていいよ」
「そうは言われても」
「まあ、そうだよね」
今の彼女からすれば見知らぬ男だ。気にするなと言われても、無理な話だ。
「そうだ、夜凪さん。せっかく起きたんだし、ちょっと外に出ない?」
「え? 一緒にですか?」
彼女の警戒心はそこそこに高かった。彼女は布団を掴んで僕から身を引く。
「そんな、そこまで身の危険を感じなくても」
「いやだって」
「変なことはしない。約束するよ」
彼女は訝しむ。それもそうだ。僕なんて、信頼に値しないだろう。そのはずなのに。彼女はベッドから降りてきてくれた。
「ちょっとは信じてもらえた、のかな」
「いえ。お兄さんを信じるというより、前の私を信じます」
「そっか」
「それに、お兄さんには色々と聞きたいので」
彼女は記憶がないから。過去も未来も見えない。僕相手なら、そこそこの仲だったし、わかることもあるだろうと。そんなところか。
「じゃあ行こうか。あ、静かにね」
面会時間外に、起きたばかりの患者を連れ回すなんて。ばれたらそれはもう怒られること間違いなしだろう。
僕たちはこっそりと、病院を抜けだした。
それから、何をするって。決まっていた。僕と夜凪さんが一緒にいるのだから。
「何処へ行くの?」
僕の前ではなく、後ろを彼女はついてくる。
「ちょっとした散歩だから。そんなに遠くは行かないよ」
僕は目的もなく、病院周りの散策だけだけれど。いつもように歩く。そんな僕の後ろで、彼女は辺りを見回し続けていた。どれも、新鮮なのだろう。
「お兄さん、どうして散歩なの?」
「僕と君と言えば散歩なんだよ。よく一緒にしていたから」
「へえー。お兄さん散歩好きなの?」
「いや、どっちかと言えば、夜凪さんが好きだったのかな。それにつられて僕もするようになった、みたいな」
「でも私、これの何が楽しいのかよくわかんないや」
「そう言われちゃうと。うーんと、僕もわかんないな。夜凪さんと一緒だったから楽しかった、のかな」
「じゃあ、今のお兄さんは楽しくないね」
彼女はしれっとそう言い放つ。……失言だったか。
「……そうかもしれない。でもね、夜凪さん。僕はそれでもこの散歩は悪くないと思ってるんだ」
「そうなの?」
「僕は。……、こんなこと言ってもさ、君は困るだろうけど。知ってほしいんだ、僕のこと」
「どうして?」
「君ともう一度関係を築きたいから。あ、勘違いしないで、別に変な関係ではないよ。ただ、僕は君が。……まあ、とにかく、そんな感じ」
大事なところで詰まってしまう。僕はまた逃げていた。
彼女は聞いているのかいないのか。あまり僕に関心はなさそうだった。
「ふーん。じゃあさ、お兄さんのこと教えてよ」
「僕のこと?」
前の夜凪さんのことは、聞かないのだろうか。いや、聞けないか。聞いたってどうしようもないから。
「僕は、そうだな。妹がいるんだ」
「可愛い?」
「世界一。いつも僕を優先しちゃう妹でさ。それに甘えてる僕も大概なんだけど。いつも僕の世話をしてくれて。僕のことなら何でも知ってる。そんな妹」
「シスコン?」
「否定はしないよ」
「他には? お兄さん友達いないの?」
「いるよ、一人だけ」
「一人はいるんだ」
「その顔、いないと思ってただろ」
「まさか」
「嘘だ。まあ確かに、いなさそうな人間か、僕は」
「うん。一人なことを誇って生きてきてそう」
「馬鹿にしてる?」
「してないよ?」
胡散臭い口調だった。まあ、軽口を叩けるならよしとしようか。
散歩を続けていると、僕たちは歩道橋に差しかかる。よく、意味もないのに寄っていたっけか。僕が階段を上がると、彼女は何を言うでもなくついてくる。上に着いたところで、僕は足を止めて下の道路に顔を下ろした。
「休憩?」
彼女は聞いてくる。
「休憩というか、これも散歩の一環だよ」
「……何がしたいの?」
僕はつい、笑ってしまった。
「そうだね。何がしたいんだろうね。強いて言えば、何もしない時間に意味があるのかな」
「へえ」
彼女は僕と一緒に下を眺める。アスファルトを眺める。ただ、車が通り過ぎていくだけだった。
「やっぱりわかんない。何が楽しいの?」
「そう言われちゃうとな」
僕も考えてしまう。今の時間は、ただ彼女に知らない時間を強要しているだけであって。
「……夜凪さんは、何かしたいこととか、他に知りたいこととか、ないの?」
「私? 私は……」
彼女は黙ってしまった。
「……ないなら無理に探さなくてもいいさ」
「……うん」
僕たちは無言で下を眺めるだけ。気まずかった。僕は前の彼女の固執して、彼女は戸惑うばかりで。やっぱり、僕はもう、彼女に関わるべきではないのかもしれない。
「お兄さん」
彼女は僕を指先で突いてから、道路の隅を指差す。そこには、まあ、典型的なカップルが歩いていた。
「私達も、ああいうことしたの?」
ああいうこととは、手を繋いで歩くことだろうか。
「まあ、うん。した、のかな。どうだったかな。僕たち、別に付き合ってたわけじゃないし」
「そっか。じゃあさ、今、してみる?」
「君はしたいの?」
「……わかんない」
彼女は俯く。その瞳は、何処も見つめてはいなかった。
「私さ、わかんないの。唯一知ったことは、お兄さんが私のこと気にかけてくれてるくらいで。それはありがたいんだけど。でもそれと同時に、不安でもある。だって、前の私が好きなんでしょ? お兄さんは」
「……否定はしない」
「そうだよね。今の私は、ただの抜け殻だよね」
そんな言い方はないだろう。とは、言えなかった。僕からは言えなかった。今の彼女に、前の彼女を見ている僕には。
「うん、決めた」
彼女は顔を上げる。
「お兄さん。私、もう一度お兄さんのこと、好きになってみるよ」
「いや、それは……。そんな、宣言するようなことかな……」
「いいの。どうせすることもないし。だったら今までの私を信じてみたっていいでしょ? それくらいしか、できることないんだよ」
僕は何も言えなかった。彼女なりの、思惑も、焦燥も、疑念もあるはずで。それでも、前に進もうとしているのだ。それを邪魔する気は起きなかった。
「わかった。別に好きにならなくてもいいけど。僕に付き合ってくれ」
「うん。これからも、お兄さんのこと教えてください」
そう言って微笑む彼女の顔は、何処か夜凪さんらしくて。
僕は食らってしまっていた。




