20
救急病院の固いソファに座り込み、僕は呆然としていた。
あれから、夜凪さんの意識が戻ることはなくて。彼女は一時入院する運びとなった。ベッドに寝込む彼女の元に行くこともできたのだけれど。僕はここから足が動かなかった。だってそうだろう。怖いのだ、単純に。
「誰」って。言われた。まるで他人だった。僕に怯えていた。
その乖離具合に、僕は心当たりがあって。彼女の、他人に為ること。それが度が過ぎたようで。
今までの時間は。消えてしまったのだろうか。
それを確かめるのが、怖い。
無論、彼女のことは心配だけれど。彼女がもし他人だったら? この心配が、何処かに飛んで行ってしまうのではないかと、胸が痛む。
「あの」
そんなとき、ふと声をかけられる。こんな夜中の病院、僕以外に誰がいるというのか。という疑問は、その声を聞いて、顔を上げて、声の主を見て、吹き飛んだ。
そっくりなのだ。たいして大きくもないのによく届く声も、色は違えど、美麗で、下ろされた髪も。背筋の伸びた佇まいも。目つきも。僕を覗く顔も。
これは。この人は。
僕は勢いに任せて立ち上がる。
「もしかして。夜凪さん、楓さんのお母様ですか」
「はい。あなたが安達君? ですよね?」
互いに確認して、どうも歯痒い無言が続く。
「……えっと。安達君」
お母様が口を開く。僕を厳しい目つきで見つめていた。当然だ。日頃から年頃の女の子を夜中に連れ回して、挙句の果てには僕の家からこんな時間に病院送り。何を言われても反論の余地すらない。
と、身構えていたのに。
お母様は僕に頭を下げていた。
「安達君。ありがとう」
「え? いや。僕、感謝されるようなことはしていないんですが……」
「いいえ」
お母様は微笑んでくれる。その顔は、彼女にそっくりだった。
「あの子、多分、夏休み入った辺りからかしらね。私、あの子と話すことも普段あんまり無いし、反抗期みたいなものだと思っていたんだけど。楽しそうだったから。きっといい出会いがあったのかなって。――ちょっとだけ話したときね? 安達君のこと言ってたから。だから、君のおかげで娘がちょっとは元気になってくれたみたいで」
「はあ、そうですか……」
そうは言われても。僕は罪悪感が拭えない。
「あの子、友達もいないみたいだし、夜中にふらっといなくなるし。だから有難かったのよ。君みたいな子がいてくれて。ありがとね? 娘に付き合ってくれてたんでしょ?」
「まあ、そうですけど」
「だから改めて。ありがとう」
また、頭を下げられる。僕もついつい合わせてぎこちないお辞儀をしていた。
「安達君、今から楓のところに行くけれど。一緒にどう?」
僕はそう言われて、胸が脈打つ。
「……いえ。今日はもう帰ります」
「そう、なら送っていくわ」
「いえ。そこまで家から遠くないんで」
「でもこんな時間だし」
「大丈夫です」
僕は無理やり話を断ち切って、その場から逃げるように離れる。一切振り返らなかった。
同じ空間に居られる気がしなかった。お母様は、よく似ているし、きっと根掘り葉掘り聞かれるだろうし。
どうしても、彼女を思い出して、僕の心は蝕まれる。
僕は走った。病院から走って、程なくして、疲れて、立ち止まる。
それからは、一人の散歩が続いた。意味もなく歩いた。家にも帰る気になれなくて、遠回りをして、朝が来るのを待った。無心になりたかった。余計な事を、余計ではないのだけれど。考えるべきなのに。逃げていた。
――そうして、日が昇る頃、僕は家に帰る。もう彼女の温かさは残っていないベッドに寝転がって、シーツを撫でてみる。
彼女の顔が。僕を怯えながら見る顔が過って。僕はベッドから離れた。
僕の一つの心当たり。それに、言及したのが一人いた。
一晩中逃げて、ちょっとだけ。向き合う気に為れたかもしれない。から、僕は制服に着替えた。
*
朝早くに文芸部まで足を運んだのだけれど。セナは相変わらず姿勢を正して本に視線を落としていた。部室の扉を開けた僕に気づくと、軽く微笑んでくれる。
「やあ」
「おはよう、セナ」
僕が軽く返事をして、椅子に座ると、彼女は読んでいた本を畳む。流石だった。声色からだろうか。僕の雰囲気を悟っていて、真面目に話を聞いてくれるようだった。
「どうしたのかな、こんな朝早くに」
「ちょっと。聞きたいことがあってさ」
僕は息を吐いた。
「……夜凪さんが、僕のことを忘れてしまった」
彼女は目を細める。
「それは。――一種の記憶障害のようなものと捉えればいいのかな?」
「さあ。僕にはよくわからない。わからないけどさ。……セナ、前に言ったよな? 『いつか、彼女であるかもわからなくなるかもしれないから』って」
僕は言葉を溜めて、躊躇って、結局、言ってしまった。
「セナ、こうなることがわかってたのか? お前は、僕に――」
「ちょっと待った」
彼女は手をかざして僕を静止する。
「話はわかったよ。君が言いたいことも。だけども、私に矛先を向けるのはお門違いってものだね」
彼女は改めて、姿勢を正す。
「確かに、私はそう言った。でも、それは一つの仮説というか、可能性として私の頭にちらついただけ。……そうだね、説明しようか。私は、少し、考えてしまったんだ。彼女がこのまま他人のふりを続ければ、やがて自我が薄れていくのではないかとね。ただ、君のことを忘れるだなんて。そこまでとは思ってなかった」
「じゃあ、なんだよ。夜凪さんはどうして……」
「そこは、まあ。どうだろうね。……ねえ律、夜凪さんは未だに幽霊ごっこを続けているのかい?」
「それは、どうだろう。夜凪さんが倒れたのが昨日、というか今日で。ずっと本人は眠っていたから、しているかもしれないし」
「じゃあ、続けていると仮定しよう。それで、私の、ちょっとした勘ですらないものかもしれないけれど。また仮説を伝えよう。多分だけどね、その長い睡眠は記憶の整理なんじゃないかと思うんだよ。彼女は多くの記憶を保有している。人間の記憶は短期記憶と長期記憶があって、その忘れる、覚えるの整理に時間を取られているんじゃないかと。今までもなかった? そういうこと」
「……そう言われると。夜凪さん、日に日に誘って来る時間が遅くなってた」
「つまり、彼女が彼女として起きていられる時間が少なくなっていたんだね。そうしている内に、彼女の時間はほぼないに等しくなったと。まあそれは、これから彼女が目を覚ますかどうかにもよるか。ともかく、記憶は整理されてしまったんだね」
「それって」
「うん。彼女の中で、夜凪楓の記憶は、いらないものだったということ、じゃないかな」
僕は視界が塞がれたような、真っ暗な、そんな気分だった。僕との時間は、要らないものだったのか。
そう言われて、よくよく思い返せば。夜凪さんは怪しい言動をしていた。
何か焦っていたり。これから先がないようなことを言ったり。逆に、僕に悟られたくなかったのか、言い淀んでいたり。
彼女はきっと、わかっていのだ。自分の時間が短いことを。花火のとき、散歩のとき、部屋で過ごしたとき。ちょっと俯いた顔とか。歯切れが悪かったりとか。心残りだとか。もう、準備していた。
最後の言葉が「ありがとう」だった。別れを悟っていたのだ。
ともかく、彼女は。夜凪さんは。
僕との時間を忘れてしまったのだ。
その現実に、僕はちょっと、耐えられそうになかった。から、こんな無駄なことを聞いてしまう。
「なあセナ、記憶、戻るかな」
「……そうだね。正直に言っていいかな」
「いや、いい」
わかっている。一度、要らない記憶として消したのなら。それはもうわかりきっていた。
「律」
セナは、多分。励まそうとしてくれているのだろう。
「いいよ、セナ。僕は大丈夫だ」
「……そっか」
あんまり、心配させてもよくないか。
「じゃあ、僕は行くよ。今日はありがとうセナ」
「ああ、うん。また何かあったら私に聞いてくれてもいいから。それから――」
「……?」
「いや、なんでもないよ。じゃあね、律」
そう言い別れるとき彼女は、僕に手を伸ばそうとしているように見えたけれど。僕はそれに構っていられるほど、余裕はなかった。
*
僕は感情の行き場がなかった。というか、自分の感情の種類がよくわからなかった。裏切られた? 見捨てられた? それに腹が立ったのか?
そうでもない気がする。きっと夜凪さんにも、彼女なりの想いがあっただろうし。それは尊重されるべき、だろうけれど。やるせないな。少しくらい、話してくれてもよかったのに。それとも、それは僕の我儘だろうか。傲慢だろうか。でも、彼女のことなら僕は何でも知りたかった。
行き場がなくて、うろうろと。僕は街を徘徊していた。
彼女と行った場所は、無意識だろうか。避けていた。
すると、また行き場がなくて。困ったものだ。仕方ないから、帰ろうか。
「あ」
背中から声がする。振り返って、僕は固まった顔で軽く挨拶を返した。
「やあ、雪菜」
「……あんた、なんかあった?」
雪菜は訝しむ。
「なんか、きもいわよ?」
彼女はロングスカートをひらつかせて、ヒールを鳴らして僕に歩み寄る。
「きもいって、まあそうかもしれないけどさ……」
「なんかあったの? ああ、夜凪さん? あれからどうなったのよ」
「いや、それは」
察しの良いことだ。僕が一歩後退ると、その分彼女は詰めてくる。そうして僕をまじまじと見つめ、何か独りでに納得したのか頷くと僕の腕を取って何処かへ連れて行く。
「ちょっと、何処いくのさ」
「いいから」
彼女はそう言って歩みを止めない。
そうして着いた先は一軒のカフェで、僕たちは席に座ると適当にドリンクを注文する。注文したドリンクが来るまでの間、彼女は一言も喋らなかった。ただスマホを弄るだけ。
やがてドリンクが運ばれ、彼女は一度それを口にする。
「――で? 何があったの?」
彼女は聞いてきた。僕は戸惑った。どう、話すべきだろうか。
「なによ、何か言いなさいよ、あれだけ協力してあげたんだから。ちょっとくらい聞いたっていいでしょ?」
「ああ、うん。それに関しては礼を言うよ、ありがとう」
滅茶苦茶怒られたけれども。
「で?」
「んーっと。……彼女、今入院してるんだ」
「は?」
彼女は戸惑って僕をまじまじと見る。まるで僕がやらかしたみたいじゃないか。
「なに、あんたやっちゃったの?」
「なんでそうなる。僕はそこまで分別がないのかい?」
「いや、だって写真の件で絶対揉めたでしょ? だから、その流れで」
「真面目な顔で言わないでくれ」
僕に対する信頼とかないのだろうか。僕は溜め息が出てしまうのだけれども。ちょっと雪菜らしくて。話す気力も若干ながら湧いてきた。
「そういうことじゃなくてさ。彼女、ちょっと訳ありで」
「それはまあ、わかるわよ。あんた何か隠してるわよね」
「それは。うん」
「無理に言わなくていいわ。聞く気もないし」
「ありがたいよ。でさ、なんだろうな。また更に訳あって、夜凪さんとさ、話せないっていうか。僕は彼女ともう向き合うことができなくなった」
端的に伝えれば、まあ、こういうことだろう。
彼女はじっと何処か、僕以外を見つめて、言った。
「それはあんたの意思なの」
「え?」
「だから、あんたはそれでいいの?」
「……よくは、ないかな」
彼女は足を組み直し、テーブルの下から足を突いてくる。
「じゃあなんでこんなとこいんのよ」
「だから、彼女はもう……」
いないから。
僕にはどうすることもできない。
雪菜は大袈裟に溜め息をついて見せる。
「あんたのそういうところが嫌いなのよ。――いい? 夜凪さんがどんな状況か知らないけど、私から言わせてもらうわ」
彼女は一瞬息を溜めて、
「言い訳すんな、このアホ」
言い放った。
「言い訳って」
「違うの? じゃああんたはもう一度向き合う努力はした?」
「それは……」
言葉が出なかった。確かに、それはしていないかもしれないけれど。
「だからって。……もう遅いんだよ」
「また言い訳した」
「そんなんじゃ」
「ないって? じゃあなんなのよ。言ってみなさいよ」
僕は言い返す言葉を持ち合わせていなかった。
言い訳、か。確かに、僕は逃げているかもしれない。でも、だけれども。じゃあ、どうすればいいって言うんだ。
彼女はまた溜め息を吐く。
「私のときもそうだったわね。未耶ちゃんよりも優先してって言ったら、あんたは嘘をついて、挙句私を突き放した。話し合いもしなかったし、あんたの気持ちも言ってくれなかったし、二人の問題として認識していなかった。だから別れたのよ。この先、似た様なことがあったら、同じように解決でも、譲歩でもなく、逃避を選ぶんだって。――私はそれでもいいわよ、もう今更だし。でも。夜凪さんとも、それでいいの?」
彼女の言葉は、刺さった。言われた通りだから。
「……よくはないな。うん、全然よくない」
「でしょ? じゃあどうすんの」
そんなの決まっている。もう一度会うべきだ。
でも、もう会えないのだ。僕は、もう。手遅れだった。
「ごめん雪菜。もう、僕は逃げた後でさ」
薄々、僕は勘づいていたんだろう。無意識の内に。夜凪さんが何か隠していることに。でも僕は言われた通り、逃避を選んでいた。だから彼女は、いなくなった。
雪菜は太々しく腕を組む。
「で?」
「でって。だからさ」
「一度逃げたらそれで終わり? あんた情けないにも程があるわよ」
「じゃあ……」
じゃあ。
「どうしろって言うのさ。もう彼女は、僕の知る彼女は何いなくなった。僕との思い出も、語った言葉も、歩いた道のりも、全部意味がなくなってしまった。もう、僕との繋がりはなくなって、共有できるものはなくなった。僕があげたものも、貰ったものも、そんなもの消えてしまった。全部初めからなんだよ。いや、初めからですらないかもしれない。彼女は積み上げたもの全部捨ててしまった。僕のことも捨てたんだ。だからもう、どうしようもないんだよ」
僕は気づいたら捲し立てていた。息が切れ切れだった。雪菜に言ったってどうしようもないのに。堪らなかった。どうしようもなく、溜まっていた。
「なぁ雪菜。僕はどうすればいい」
彼女は黙って聞いてくれていた。そして途方に暮れる僕に、馬鹿正直そうに、柔らかく、微笑んで言った。
「信じてやんなさいよ」
「……は?」
「簡単で、難しいけどさ」
「そんな。適当言ってないか?」
「言ってない。最終、そうするしかないのよ。だって人相手だもん。手っ取り早くて簡単で、それ以外できることがないから、苦しくて難しい。そんな感じ?」
「いや、そうは言われてもさ」
「じゃあ、そうね。信じて、ついでに最大限寄り添ってあげなさい。あんたの全てで」
「……そしたら、どうなる?」
「相手も応えてくれる」
「でも、応えてくれても。今の彼女は僕の知ってる彼女じゃないから、そんなことしたって……」
「また言い訳?」
「いや、事実を述べてるだけで」
「ならもう一度知ってもらえばいいじゃない」
「そんな簡単に言われても」
「簡単よ。だって一度できたことでしょ?」
そう言われると、確かに簡単に思えてくる。
「まあ、そんなところ。後は。嫌われる覚悟をすることかしらね」
「嫌われる、か」
それは随分と。僕にはハードルの高い話だった。
「自分から動かないと、何も変わらないのよ」
彼女はそう言うと椅子から立ち上がって僕を見下ろす。
「じゃ、私はこれで」
「待てって。僕は結局」
「うるさい」
彼女は僕を遮って頭を指で突く。
「うじうじ言ってないで、さっさと行動に移せ。このバカ」
それから彼女は「じゃあね」と、去っていった。ドリンクの代金が支払われていないのは、まあ、相談料といったところか。
僕は背もたれに寄り掛かる。
彼女に言われた通りにするべき、なんだろうけれど。僕は未だ決心がつかなかった。
*
雪菜を見送って、それから家に帰って。うっかり眠りについて。僕が目を覚ましたのは夕方を過ぎた頃のことだった。もう夜凪さんはいないのに、こんなふざけた生活習慣ばかりが残ってしまっていて。やるせないな。
一階に降りてリビングに顔を出すと、未耶が寝転がっていたソファから顔を覗かせる。
「あ、兄さん。おはようございます」
「おはよう」
「起こしに行こうかと思ってました。夕飯出来てますよ?」
「悪いな、僕に合わせてもらって」
「いえ、兄さんは好きに生きていいんです。いつ何時でも、私が完璧にお世話してあげますから」
僕はついつい苦笑いが出てしまう。
未耶が手早く夕飯の準備を済ませてしまう。僕は座っているだけでご飯が出てくるのだから、大層良い身分だった。妹って最高だな。
僕も未耶も手を合わせて、黙々と食事を取っていた。
僕はそれがありがたかった。変に聞いてこないのが未耶だった。絶対、勘づいているのに。未耶は僕のことなら何でも知っているのだ。だから気になって、聞きたいだろうに。けれど僕は未耶に甘えるのに慣れ切っているから。これでまあ、いいのだ。
「なあ未耶」
「はいなんでしょう」
「ありがとな、いつも」
「いえいえ、妹ですから」
未耶は変わらず微笑んでくれていた。
そうして夕飯を食べ終えて、僕は何もすることがなく、寝るにも寝たばっかりで目が冴えて。一人リビングのソファで寛いでいた。
しばらくぼうっとしていたら、食器を洗い終えた未耶が空いているほうではなく、僕の狭い隣に身体を捻じ込んでくる。それから肩に頭を預けて、僕も未耶もまた、寛ぎ始めた。この妹は、どこまで僕を甘やかしてくれるのだろう。
僕は未耶の頭を撫でながら、思い馳せていた。こうしていると、思い出すんだ。人の温もりが、僕を刺激する。夜凪さんが僕の頭を揺らす。
相変わらず、もう一度会う決心はつかなかった。けれど、どうしても。気にはなってしまっていて。僕は、そわついているのだろうか。
「なあ未耶」
「なんですか?」
「僕、どうしたらいいかな」
「したいようにすればいいんじゃないかと。私は兄さんが何をしたってそれを応援しますから」
「じゃあ、さ。僕のエゴで、一人の女の子を傷つけてしまってもいいかな」
「そこに兄さんなりの理由があれば。私は兄さんを信じていますから」
どこまでも、未耶は甘かった。
「じゃあ未耶。僕は行くよ」
「はい。行ってらっしゃい」




