18
昼間に起きて、僕は放心していた。とにかく、心が空っぽだった。だってそうだろう。もう三日経った。夜凪さんと別れてから。
僕は。何か間違えただろうか。彼女の言葉は、いまいち理解が追いつかなくて。なんとなく、僕の至らないところで、彼女は独り何かを抱えているのだろうけれど。それを推し量ることはできなくて。ただ、だからといって。そういうものだと、自分の中だけで消化することもできなくて。
会えないというのは、ただそれだけでここまで自分をすり減らすものだっただろうか。ベッドに潜り込んで、彼女の声が頭を反響する。僕はしょうがなく孤独だった。
僕は起きてすぐで、夢現で。連日の稼働で疲れているんだろう。どうせ彼女に連絡したところで、返事は帰ってこないのだし。僕はもうひと眠りすることにした。
瞼を閉じれば、彼女の顔がちらつく。
……眠れない。
眠れないけど、目を瞑る以外することもなくて。というか、できる気がしなくて。
溜め息しか出ない。
そんなとき、部屋の扉をノックする音。未耶が心配そうに顔を覗かせてきていた。
「兄さん……?」
「ああ、未耶。どうした?」
未耶は部屋に入ってくると僕のベッドに潜り込んでくる。
「ごめん未耶。今兄さんあんまり余裕がなくて」
「わかってます。だから兄さんはただ私で暖を取っていればいいんです」
「……そっか。ありがと」
「いえ、兄さんの妹ですから」
それから暫く、未耶はただ隣にいてくれた。特に何か聞いてくることもない。それがありがたい。僕は無心で、未耶の頭を撫で続けた。
それでどうだろう。僕はどうにも、このやるせなさを吐露したくなっていた。
「なあ未耶」
「はい兄さん」
「……なんて言ったらいいかな」
「どうせ楓さんのことでしょう?」
「まあそうなんだけど。えっと。あれだな。軽い小競り合い? みたいな。気まずくなってさ。どうしたらいいと思う?」
「ざっくりしすぎててわかりません。とりあえず、兄さんの技量が足りなかったんだと思います。いつものことです」
「手厳しいな……」
未耶は何事かもぞもぞとすると、スマホを取り出した。それから、僕にメッセージを送ってくる。確認すると、僕は嫌な予感がした。一つ、連絡先が送られて来ていたのだけど。その番号に見覚えがあって。
「なあ未耶、これって」
「雪菜さんの番号です。あの人ほど面倒な女性もいませんから。そういう問題事解決にはぴったりです」
「僕が気まずいというのは?」
「この際考慮しません」
「……」
なかなかとんでもない妹がいたものだ。
「でも僕たち、もう別れたわけで。今更こんなことで連絡できるわけないし。雪菜も僕と話したくなんかないでしょ」
「それがですね兄さん。私偶に雪菜さんと連絡とってるんですけど。あの人普通に兄さんと話したがってますよ?」
「……え?」
……え?
「雪菜さん的には普通の友人でいたいそうなので。この機会にどうでしょうか」
そう言われて。僕は全く納得はできなかったのだけど。この間会ったときもそんな素振りなかったし。いや、あの場で僕の隣に留まったのがそういうアピールだったのだろうか。
まあそれでも。確かに、彼女ならすっぱりと何か言ってくれそうではあって。
僕は数十秒悩んで、通話をかけてみた。いきなりかけていいものかと悩んだが、過去、散々迷惑をかけられたのだ。彼女はそんな風に思ってないだろうが。だから、これくらいは許してほしい。
何回かのコールの後。雪菜は通話に出てくれた。
『……』
彼女は無言だ。
「あの、雪菜」
その瞬間、通話が切れた。
「……なあ未耶。どう思う?」
「いい嫌われっぷりです」
僕はむかついたので、もう一度通話をかける。長い間コール音が鳴り、駄目かと思ったところでようやく彼女は通話に出てくれた。
『はい』
「なあ雪菜、そこまで無愛想じゃなくてもよくない?」
『出ただけどもありがたいと思え』
「はい、すいません」
『今未耶ちゃんといるでしょ』
「よくわかったな」
『むかつくから離れて』
「残念ながらそれはできないな」
舌打ちが飛んできた。
『で? なんか用?』
「ああ、うん。ちょっと相談事があってだな」
僕は未耶と同様に、掻い摘んで事情を説明する。雪菜はその間、黙って聞いていてくれていた。
『ふーん』
聞いた後で、開口一番。雪菜は全くもって興味が無さそうだった。
「もうちょっと気を遣った返事しようよ」
『黙れ。要はカップルの痴話喧嘩でしょ? そんなんで私に話聞いてくんな』
「そう、簡単な話でもなくてだな……」
『何言ってんの? 簡単な話よ。あんたが誠心誠意真心こめて謝れば解決するんだから』
「それは君の場合だろ?」
『そうだけど?』
……話にならないな。
「雪菜、僕は今自分の選択を後悔している」
『あっそ、どんまい』
「あのさあ、誰のせいだと思って」
『お前のせいだよ』
「……はい、すいません」
しまった。つい癖で謝ってしまった。これで二度目だ、悔しい。
『まあ、そうね。真面目な話』
「今まで真面目じゃなかったの?」
『あんたが悪いのは大前提として』
雪菜は溜め息を挟む。
『……あんた、その子とまあまあ仲良いのよね?』
「まあ、それなりに」
『なら、やっぱり簡単な話よ。意地でも捕まえにいきなさい。その子、私とは別ベクトルで面倒そうだけど、一回会っちゃえばこっちのもんよ』
「そうかな」
『そうよ。ていうか、その子も会ったらあんたに擦り寄っちゃうから距離置いてるんじゃない? 私の勘がそう言ってるわ』
「擦り寄るって、言い方悪いなあ……」
『なんで私が他の女に気遣わなきゃいけないのよ』
「はい、すいません」
しまった。また謝ってしまった。大変悔しい。
「でも会うって、向こうも意識して距離置いてるなら難しくない?」
『そこはまあ、あんた次第よ』
「そんな無茶をおっしゃって」
『じゃあ、そうね。あんた、インスタはその子と繋がってる?』
「え? うん」
『なら……。今からそっち行くから。ちょっと待ってなさい』
そう言って、雪菜は通話を切る。
……僕は戦慄していた。
「未耶、大変なことになってしまった」
今から来るだって? 僕は平静を保つために未耶の頭を撫で繰り回す。
「聞いてましたよ兄さん。それより髪がくしゃくしゃです」
「未耶、僕は胃が痛くなってきたから雪菜が来たら追い返してくれ」
「それは……。私には無理ですね」
いい笑顔が返ってくる。
「だよねえ……」
*
僕は対応を決めあぐねていた。今、僕の部屋には緊張した空気が漂っていて。それは誰のせいかと言えば、僕の目の前でスマホを弄る雪菜のせいだった。
彼女が僕の部屋に来るのは久方のことである。彼女は相変わらず、派手な恰好だった。胸元の大きなリボンに、薄いカーディガン。なんとも短いスカートを履いて、僕の目の前に座っている。彼女が座るクッションはいつも決まっていて、来て早々、そこに座ったのだ。
「……なあ、雪菜」
「ちょっと黙って」
彼女はメッセージの返信に忙しいのか、僕のことはそっちのけだった。勝手に押しかけておいて、これは如何なものだろうか。
僕は黙って待つしかなかった。
それから、幾許かして。彼女は一呼吸置く。
「……よし」
「やっと終わりましたか」
「その眠そうな顔やめて、むかつく」
「誰のせいだよ」
「は?」
「……なんでもないです」
なんて高圧的な態度だろうか。
「それじゃ。匂わせるわよ」
「……どういうことで?」
僕の理解が足りないのか、彼女は不満げだ。
「あんたが例の子にそっぽ向かれたから私が仲を取り持ってやるのよ。主に匂わせて」
「その、匂わせてっていうのはさ。まさかとは思うけど」
「そのまさかよ。というわけで、今からお家デートを開始します」
彼女はスマホのカメラを構える。
つまり、僕に女がいると匂わせて夜凪さんの気を惹こうというのか。
「あのさ雪菜。そんな単純な手に彼女は引っかからないと僕は考えるわけだけど」
「甘いわね。私の読みでは九割の確率で引っかかるわ」
「その読みの自信は何処からくるのさ」
「だってその子、あんたのこと嫌いなわけじゃないんでしょ? なんなら、良い感じだったわけでしょ? じゃあ取られたくないわよ」
「そういうものかね」
「あんたのそういうところ、ほんとゴミ。ちょっとはあんたに惚れた女を信じなさいよ」
「それは雪菜も含めて?」
「……まあ、ね」
雪菜は髪をかきあげて、照れ臭そうにする。なんだよ、その反応は。
「とにかく、今日は私に付き合いなさい。匂わせ写真取るから。多分彼女、三日くらいで音を上げるわ」
また、適当な読みだろうか。でもそれも馬鹿に出来ない。彼女はよく、こういうことを言い当てるほうだったから。
「で? 僕はどうすればいい?」
「あんたお昼まだ?」
「ああ、うん」
「じゃあまず。お昼にしましょ。私の分も用意して」
僕は言われた通り、リビングで昼ごはんを用意した。未耶が冷蔵庫に作り置きしておいてくれてある。それを電磁レンジで温めただけだが、未耶は何を作らせても美味しいから。僕は早く食べたくて適当に皿を並べる。
「駄目」
雪菜から駄目出しが入る。
「何が」
「いい? 女の気配を匂わせるのよ?」
そう言って彼女は皿を丁寧に並べ替えたり、マットだなんだと敷いたり。カメラ越しに眺めて、画角がどうこう言っている。そうしてやっと満足がいったのか「これでよし」と、微笑み顔だった。
それから彼女はあれこれ写真を撮る。僕に撮るようにも命じてきた。なんでも、女の手が入ってないと駄目らしい。
一通り撮り終わると、彼女は座って一人勝手に食べ始める。
「私より美味しいのがむかつくのよね」
「おい。未耶にけちつけるな」
「つけてないわよ。褒めてるの」
僕も手を合わせて食べ始める。こうして彼女と並んでご飯なんて、いつぶりだろうか。
「なあ雪菜。今日はさ、どうして」
彼女は僕を遮る。
「どうもこうもないわよ。ちょっとあんたの為にって、それだけ」
「ええ……?」
どうにも怪しかったけれど。これ以上追及すると殺されそうなので、僕は黙った。
「ねえ、あんた例の、夜凪さん? だっけ。彼女とは具体的にどうなの」
「具体的にって。……言わない」
「これは結構いってるわね。キスくらいはしたかな」
だからなんで言い当てるのか。
「私とどっちがよかった?」
「なあ、女の人ってそれ聞きたいの?」
「さあ。興味本位よ」
「うざいなあ……」
「あんた、それ夜凪さんにも言ってないわよね?」
「言うわけが……」
でも僕のことだ。口が滑りそう。
「まあ。言ったっていいよ。言わないけど」
「へえ」
雪菜は僕を睨みつける。
「なんだよ」
「別に。仲が良さそうでむかつくだけ」
彼女はスマホを手に取るとスプーンに乗ったご飯を僕の口に運ぶ。そんな食べさせられているところを、彼女は写真に収めた。
「なにすんだよ」
「記念写真。それより。夜凪さんと出かけたとこ、教えなさい」
「なんで」
「お家デートが終わったら行きます。夜凪さんへの当てつけよ」
「なんか、彼女に悪い気がする」
「そう? 手放したのは彼女じゃない」
「そうかな」
「そうよ」
僕はやっぱり悪い気がしながら、夜凪さんとの時間を振り返って、雪菜に伝えた。雪菜は、神妙な顔つきだった。嫌そうで、嬉しそうで。情緒が不安定だ。
僕たちがそうして未耶のご飯を食べ終えて、一通り片づけると部屋に戻る。
雪菜は僕のベッドに寝転がると僕を手招きする。僕はそれを渋った。
「なによ」
「そこまでする気はない」
「あんたのそういうところ、好き」
「試すような真似しないでくれよ」
僕は呆れ気味に返す。彼女は。どこか物足りなさそうで。
だから。僕は次に、自分の浅はかさを知った。
彼女は。雪菜は、僕の腕を掴んで無理やりベッドに引き込む。
「おい……」
ベッドで隣り合って、僕と彼女は触れていた。彼女は僕の顔に手を添える。けれど、彼女にしてはそれは遠慮気味で。
「律」
名前を呼ばれても、前ほどの、もっと触れあっていた頃ほどの熱量はなかったから。別に、彼女はそういう気でいるわけではなさそうだった。
彼女はそんな僕たちは写真に収めると、それから。僕の頭を一撫でする。
「ねえ、私。むかついてもいるんだよ」
「何に」
「別の女作ったことに」
「もう雪菜には関係ない話だろ」
「突き放すような言い方しないでよ。傷つく」
それ、特に君は人に言えないだろうに。
「関係ない話じゃないの、私からすれば。あんたは、いつまでも私に未練たらたらじゃなきゃ駄目なのよ」
「独占欲ってやつ?」
「そうかも。――そんなあんたが、私に頼ってまで手放したくない子なんだからさ。大事にしなきゃね」
「それは。勿論そのつもりだけどさ」
なんだろう、これは。
多分。彼女なりの励ましというか。一種の別れの、やり直しの儀式なのかもしれない。
雪菜は僕の頭を胸に抱え込む。
「ごめんね、夜凪さんじゃなくて」
「別に、いいさ。君がそういう、……寂しがりなことは、僕はよく知っている」
「ここまでしてあげてるんだから。ちゃんと夜凪さんとは仲直りしなさいよ?」
「ああ。結構、元気出てきたから。ありがと」
僕たちはそれから暫く、そうしていた。
彼女は。流石と言うべきか。見抜いていた、僕が空虚だったことに。いつもは刺々しいくせに、こういういところがあるから。僕は彼女のことが嫌いになれなかったのだ。
*
僕たちは街をふらついていた。夜凪さんともそうだったから。彼女との足取りを追うと、こうなってしまうのだ。いくつか場所を巡って、何枚も写真を取って。
今は公園で一休みしているところだったが。僕たちは相も変わらず写真を取っていた。
「いい? ちょっとだけ私の服写して」
「指示が細かい……」
こうしていると、夜凪さんとの思い出を上塗りしているみたいで。やっぱりちょっと申し訳なくなってくる。
「なあ雪菜、そろそろさ」
「終わりになんてしないわよ? これは私から夜凪さんへの当てつけ、そして忠告だから」
「なんの忠告だ」
「うっかりしてるとあんたを取られるっていう忠告」
「なあ雪菜、君はそれでいいのかい?」
「別に。よくないけど。もうあんたのことなんて好きでもなんでもないけど。取られるとやっぱりむかつくから。これを機に言っておくわ。もし夜凪さんと破局したら私があんたを貰う。いい?」
「……」
それは勘弁してほしかった。
「いいって言いなさい」
「はい、いいです」
無理やり言わされた。
「じゃ、休憩終わり。次行くわよ」
僕たちはまた歩く。
なんだろうか。違和感だった。夜凪さん以外とこうしていることに、だろうか。
同じ人間の後ろ姿のはずなのに、歩き方も、肩の揺れ方も違くて。この夏で、僕の目には夜凪さんが焼きつけられていたらしい。
思えば色々巡った。昼間も夜も関係なく。おかげで僕は深刻な睡眠不足に陥ったわけだけれども。それも悪くないと思えていた。
こうして雪菜といるから、よくわかる。夜凪さんは――。
そうだな。きっと、僕の思い違いでなければ。彼女は僕のこと、そう悪くは思っていないのだ。多分。だから、やっぱりもう一度会わなければいけないなと。改めて雪菜に思い知らされた。
「なあ雪菜」
「なによ」
振り向く彼女は、夜凪さんとは違って、下から覗き込むように振り返ってくれる。
「今日はありがと」
「なによ今更。私のためでもあるんだからいいの」
「そっか」
そんな道中、僕は聞いてみたくなった。雪菜なら何か、芯を食ったことをいってくれそうだったから。
「あのさ、雪菜は他人になりたいって思ったこと、あるか?」
「なに急に。ないわよ。私は私で最高だから」
彼女らしい答えだ。
「じゃあ。他人の真似事をする理由って、なんだと思う?」
「そんなの簡単よ。羨ましいから」
至極単純明快だ。
「なら、そんなことを続けた結果、他人にそのまま乗り替わったとしたら?」
「それは最悪ね。私が私として積み上げたものが消えそうで嫌」
……そうか。そう捉えることもできるのか。
だとしたら。逆にだ。彼女は消したい、のかもしれない。
「ねえ、今の、夜凪さんのこと?」
「まあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「じゃあそうだとして話すわ。夜凪さん、迷ってるんじゃない?」
「何に」
「自分を消そうとしてる物好きなんでしょ? ならあんたが邪魔なのよ、多分」
僕は数舜置いて、納得がいった。
「……そっか」
僕がいるから、彼女は僕を突き放した。
途端に事柄が紐づいていく。あのときのキスも、やけになっているわけではなくて、純粋に、僕との関係を綺麗に終わらせたかったから? 僕は受け入れられたんじゃないだろうか。
あの別れた日も、僕は僕のままでと言っていた。今のままで、残したかった。思い出として。
……なんだか。僕は呆然としてしまった。どれ、なのだろうか。この感情は。
簡単に言ってしまえば、寂しいが妥当だろうか。
「あんた、相当夜凪さんに入れ込まれてるのね」
「……ああ。そうなのかもしれない」
雪菜は僕のもやつきなんて知りもせず、ぐっと伸びをする。
「まあ? 上手くいかなかったらまた私に泣きついてくればいいわよ」
「そうならないことを願うよ」




