戦雲暗流[3]
金沢城下、宝円寺のほど近く。市街を見下ろす高台に、加藤主計頭の下屋敷はあった。
卯辰山を借景に、庭の向こうには柔らかな稜線が重なり、その裾をなぞるように浅野川が流れている。水音はかすかに、しかし絶えず耳に届き、風に乗って草の匂いとともに運ばれてくる。
喧噪から切り離されたその場所は、まるで別の世界のように静かだった。
清正はこの静けさを好んだ。
小早川家家老筆頭──その肩書きは重い。だが、平時において彼に課される務めは驚くほど少ない。政務の多くは他の者が担い、清正はほとんど登城することもなく、この屋敷に身を置いている。
理由は明白だった。
金沢城は、今や力を求める者たちの坩堝である。急激に膨れ上がった家中には、有象無象の思惑が渦巻き、言葉の端々にすら毒が混じる。
それを、清正は嫌った。
──余計な声は、耳を濁す。
戦場では、ただ一つの判断の遅れが命取りとなる。ならば、日常においても同じこと。雑音を遠ざけ、思考を澄ませることこそが、己の刃を鈍らせぬ術だった。
だからこそ、この場所にいる。
風の音と、水の音だけが届くこの屋敷に。
そんな静寂を、時折、踏み破る足音がある。
井伊兵部少輔直政。
彼は特に用もなく、ふらりと現れる。そして碁盤を挟み、言葉少なに石を打ち、やがて酒を酌み交わして去っていく。
それだけの関係。
だが、それで十分だった。
この日もまた、二人は対座していた。
縁側に面した座敷。開け放たれた障子の向こうで、庭木の葉がわずかに揺れている。陽は傾きかけ、盤上に落ちる影が長く伸びていた。
ぱち、と碁石の触れ合う乾いた音が、静けさの中に響く。
「そういえば主計頭殿……いよいよ飛騨攻めの日取りが決まったらしい」
直政の声は低く、どこか気楽さを装っていたが、その奥には微かな緊張が滲んでいる。
季節は夏の終わり。
蝉の声も途絶え、風にはわずかに秋の気配が混じり始めていた。
あの理不尽な通達──帰雲城の埋蔵金を掘り出せ。叶わねば弓月姫を差し出せ。
それが突きつけられてから、ほぼ一年。
答えは、最初から決まっていたようなものだ。
「……やはり、内ヶ島は立つか」
清正は盤上から視線を外し、庭の向こう、卯辰山の稜線へと目をやった。
山は何も語らず、ただそこに在る。
その静けさの中で、胸の奥に沈んでいた感情が、わずかに波立つ。
──金吾め……。
主君の名を思い浮かべるたび、胸に重いものが落ちる。
人の上に立つ者は、民と家臣に慈悲を持て。
かつて仕えた豊臣秀吉の言葉が、今も耳の奥に残っている。
だが、その甥はどうだ。
慈悲ではなく、欲と威をもって人を縛る。
それを知ったときの失望は、いまだ消えていない。
──ならば、去ればよい。
そう何度も思った。
だが、そのたびに浮かぶのは、己と共にここへ来た旧臣たちの顔だった。
彼らを見捨てることは出来ぬ。
ゆえに、留まる。
留まり、目と耳を塞ぐ。
この件には関わらぬと決めて。
内ヶ島に勝ち目はない。
それでも抗う。
その覚悟の激しさを思うと、胸の奥に、鈍い痛みが走る。
「飛騨攻めは主計頭殿が率いるものと思うていたが……」
直政が石を置きながら言う。
「そのような話はなかったな。儂はてっきり兵部殿が受けるものと思うていた」
「それがしにも話はない。どうやら……此度は典膳が仕切っているらしい」
その名に、空気がわずかに変わる。
栢谷典膳。
秀秋の寵を一身に受ける男。
評定の場に顔を出し、身の程を越えた物言いをするその姿を、清正は幾度となく苦々しく見てきた。
「城中で会うても、目も合わさぬ。よほど嫌われておるらしい」
直政が肩を竦める。
だがその目は笑っていない。
「……典膳か」
清正は短く呟いた。
思い浮かぶのは、あの男の底の見えぬ笑み。
いずれ牙を剥く。
そう確信させる何かがあった。
「どうやら人事も奴が握っている。屋敷には功を焦る者どもが群がっているそうだ」
直政の言葉に、清正は鼻で笑った。
小早川家中には、四つの流れがある。
譜代、直政率いる旧徳川、清正を戴く旧尾張衆、そして新参の浪人たち。
中でも浪人は、最も飢えている。
武功を立て、地位を得るためならば、どこへでも牙を向ける。
「連中に餌を与え、儂らを牽制する気か……典膳らしい」
吐き捨てるような声だった。
今回の飛騨攻め、負ける要素はない。
だからこそ、功は分配される。
そして、その配分を握る者が力を持つ。
──小賢しい。
だが同時に、戦というものを軽んじている気配も感じる。
そのことが、清正には引っかかっていた。
「そうなったら、ここへ来ることも減りそうだな」
直政がふと呟く。
縁側の外では、風が少し強くなり、木の葉がざわめいた。
「なあに、碁などどこでも打てる」
そう言いながらも、清正は盤上の石に視線を落とす。
二人の間にあるのは、敵意ではない。
むしろ、戦場を知る者同士の、言葉を要さぬ理解だった。
だが、周囲はそうは見ない。
双璧と呼ばれる者同士が、密かに顔を合わせる。
それだけで、余計な憶測を生む。
──面倒なことだ。
内心でそう呟く。
「これで典膳が功を立てれば、いよいよ増長するな」
「……果たして、そう上手くいくか」
清正は、静かに石を置いた。
「内ヶ島に望みがあると?」
「わからぬ。だが……奴らとて、無策ではあるまい」
盤上の石が、微妙に均衡を崩す。
「戦は水物だ。手こずれば、思わぬ波が立つ」
その言葉に、直政はわずかに目を細めた。
それは、幾多の戦を潜り抜けた者だけが知る感覚だった。
勝つと決まった戦ほど、足元をすくわれる。
その気配を、二人は知っている。
だからこそ、どこかで引っかかる。
典膳は、それを理解しているのか──と。
やがて、風がひときわ強く吹き抜け、庭の木々を揺らした。
季節が、確かに動いている。
慶長八年十月末。
刈り入れの始まる頃。
花房助兵衛を総大将に、小早川の軍勢三千が、金沢城を発った。
その背を見送る者たちの胸に、まだ名のない予感が、静かに広がりつつあった。
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