戦雲暗流[1]
「誰かと思えば、眸海か……」
金沢城北丸の勝手口。十畳敷きの板の間は、雑然と積み上げられた荷の影に沈み、昼なお薄暗い。干し草と油の匂いが混じり、湿った木の香りが鼻をつく。人ひとりがやっと通れる隙間を、外気がかすかに這い込み、土間の冷えを運んでいた。
女中からの言付けを受け取った佐助は上がり框に腰を落とし、無造作に胡座をかく。その視線の先、土間の奥に、影のように控える眸海の姿があった。
その佇まいに、ふと胸の奥が引き締まる。
──相変わらず、隙がない。
軽口を叩いたつもりだった。だが、返ってきたのは舌打ちと、氷の刃のような一言だった。
「金沢での儂は権助だ。お前は素人か?」
声は低く、押し殺されている。それでもなお、空気がぴたりと張り詰めた。わずかな物音すら、敵に聞かれているのではないかと錯覚するほどに。
佐助は肩をすくめ、わざとらしく周囲を見回した。
「こんなところで聞き耳を立ててる奴なんていないさ」
だがその言葉を口にした瞬間、自分の中のどこかがわずかに軋む。
──油断、か。
「誰もいないからこそだ。己が甲賀者であることを忘れたか? ……松永殿」
最後の呼び名に、佐助の顔が一瞬だけ曇る。
間者として潜入してひと月。名も立場も偽り、他人として生きる日々。気を抜けば、本来の自分が顔を出す。
それは死を意味する。
「……悪かったよ」
軽く笑ってみせるが、その笑みの裏で、意識はすでに引き締まっていた。
──やはり、この男には敵わない。
伊達政宗の影として動く眸海と、真田源次郎に仕える自分。同じ忍でありながら、その研ぎ澄まされ方は明らかに異なる。
自分はまだ、どこかに「人」を残している。
だが、眸海は違う。
佐助は懐から小さな紙折を取り出し、指先で軽く弾いた。紙の感触とともに、この一月の潜入の日々が脳裏をよぎる。酒席での世間話、下働きの愚痴、何気ない噂話──それらを繋ぎ合わせて得た断片が、ようやく形を持った。
「これが北蔵に積まれた具足だ。ざっと三千。飛騨攻めの数と見て間違いない」
差し出した紙を、眸海は一瞥しただけで受け取る。その目はすでに内容を読み終えたかのように静かだ。
「雷振筒は?」
間を置かず飛んできた問いに、佐助は小さく息を吐く。
「数までは掴めん。だが……十は持ち出すだろう」
その言葉に、土間の空気がわずかに重くなる。
雷振筒──戦の流れを返る異次元の代物。
「どこから持ってきたのやら……」
眸海の呟きは、風に溶けるほどに小さい。
「さあな。そればかりは、栢谷典膳に聞くしかない」
「典膳……?」
「金吾様の側用人だ。元は宇喜多の人間らしい。最近は家老衆の評定にも顔を出してる」
「元宇喜多が雷振筒を……」
理屈の合わぬ話だ。だが戦とは、往々にして理屈の外側で動く。
「深い事情はわからん。ただ、奴が持ってくる。それだけは確かだ」
沈黙が落ちる。
外では風が松を鳴らし、遠くで誰かの足音が響いた気がした。
佐助は無意識に息を潜める。
こういう一瞬が、一番危ない。
「ならば探るほかないな」
眸海の声は変わらない。だがその奥に、わずかな決意の色が滲んでいた。
「守りは堅いが……やってみるさ」
「飛騨攻めの大将は?」
「名乗りは多いが……花房若狭が本命だとよ」
「……助兵衛か」
その名に、空気がさらに冷える。
歴戦の武将。油断の通じぬ相手。
だが、佐助はあえて肩を竦めてみせた。
「なあに、若がいれば恐るるに足らん」
軽口。しかしそれは、ただの虚勢ではない。
あの男ならば──という確信が、どこかにある。
「別に恐れてはおらぬ。だが、用心に過ぎるということはない」
淡々とした返答に、佐助は小さく笑う。
「戦が始まれば、あとは白雲城任せだな」
「松永殿は引き続き典膳を探られよ。儂は一度、飛騨へ戻る」
短く、無駄のない指示。
それを最後に、眸海は紙折に火を点けた。
ぱち、と小さな音がして、炎が走る。
紙は瞬く間に黒く縮み、灰へと変わっていく。その様子を、佐助はじっと見つめた。
これで証拠は消えた。
同時に、この場で交わされたすべての言葉も、なかったことになる。
それが、彼らの生き方だった。
灰が土間に落ちきるころ、ふと気配が消える。
顔を上げたときには、もうそこに眸海の姿はなかった。
風だけが、わずかに揺れている。
佐助はしばらくその場に座ったまま、空になった土間を見つめていた。
胸の奥に残るのは、わずかな緊張と、言い知れぬ昂り。
戦が、近い。
そう思った瞬間、唇の端をほんの少しだけ噛みしめた。
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