天女[5]
夜になると、白雲城は昼とはまるで別の顔を見せた。
松明の火がゆらゆらと揺れ、廊下や庭先に橙の光を落とす。山の夜気はひんやりと澄み、遠くで虫の音が絶え間なく続いている。その静寂を打ち破るように、座敷の一角からは笑い声と杯の触れ合う音が絶えず響いていた。
久方ぶりの賑わいだった。
浪人衆に加え、川尻平馬や内ヶ島の重臣たちまで顔を揃え、山奥の城とは思えぬほどの熱気が渦巻いている。
その中心にいるのは賀津たちだ。
「内匠頭殿はどのようなお方だ!」
「雷振筒はどうやって扱う!?」
「どれほどの距離まで当てられるのだ!?」
矢継ぎ早に飛んでくる問い。
賀津と藤四郎は、それを受け止めるだけで精一杯だった。目の前の膳には、湯気を立てる料理が並んでいるというのに、箸を伸ばす余裕すらない。
だが不思議と嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
こんなにも。
こんなにも、多くの人間が、あの人を知りたがっている。
工藤内匠頭。
雷振筒という、常識を打ち破る兵を生み出した男。
いつも傍にいたから、わからなかった。
当たり前のように言葉を交わし、当たり前のように背中を追ってきたその存在が、どれほど大きなものだったのか。
今、ようやく実感する。
誇らしい──その思いが、自然と口を軽くする。
「タクミサマはな、風呂が大好きでさ──」
「意外とおっちょこちょいなとこがあって……」
語った逸話は、英雄譚とは程遠い。
むしろ、人間臭く、どこか抜けている。
だが、それでもいい。
いや、それがいい。
その実像を知る者として、語れることが嬉しかった。
宴が深まるにつれ、空気はさらに緩む。
酒が回り、声は大きくなり、やがて誰かが下品な芸を始める。笑いが爆ぜ、場はすっかり無礼講の様相を呈していた。
その喧騒から、賀津はそっと身を引いた。
障子を静かに開け、外へ出る。
ひやりとした夜風が、火照った頬を撫でた。
胸の奥に溜まっていた熱が、ゆっくりとほどけていく。
中庭の縁台に腰を下ろす。
見上げた空には、息を呑むほどの星。
漆黒の天幕に、無数の光が散りばめられている。その中央に浮かぶのは、端正に欠けた上弦の月。凛とした白光が、庭の砂や木々を淡く照らしていた。
思わず見入る。
時を忘れるほどの美しさ。
そのとき──ふわりと、香りが届いた。
花のようでいて、どこか清らかな匂い。
「この場所は私も大好きなんです。ここから眺めるお月様は格別に美しく見えますから」
柔らかな声。
振り返る。
そこに立っていたのは、月光に照らされた、一人の姫君。
黄金色の髪が、光を受けてほのかに輝く。青く澄んだ瞳は、夜の空気をそのまま閉じ込めたように透き通っていた。
言葉を失う。
(天女……)
思わず、そう思った。
現実離れしたその姿に、ただ見入るしかない。
そして──ふと、記憶がよみがえる。
チサの声。
あの無邪気な笑顔。
──あのねあのね、あたし天女さまにもこのお石あげたんだぁ。
胸が、強く打たれる。
あれは、夢でも、戯れ言でもなかった。
目の前に、確かにいる。
「あ……あの……」
言葉がうまく出てこない。
「ああ、突然驚かせてごめんなさい。私は弓月と申します」
静かに名乗るその仕草も、どこか現実味を欠いている。
「あ、あの、賀津です……俺の名は……」
「お賀津さん。村を助けてくださったんですってね。ありがとうございます」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで。
賀津の胸に、ずしりと落ちた。
「助けたなんてそんな……町屋村の人達は沢山死んで……チセまで……」
口にした瞬間、空気が変わる。
「えっ……チセちゃんが……」
弓月の顔から、血の気が引いた。
月明かりの下でもはっきりとわかるほどに。
瞳が揺れ、やがて大粒の涙がこぼれ落ちる。
「この石、チセちゃんからいただいたの。お守りだって。私、チセちゃんのお守りを取り上げてしまったんだわ……」
震える手で、袱紗に包まれた蛍石を取り出す。
淡い光を宿したその石は、まるであの少女の面影そのもののようだった。
「お、おれも、チセから石をもらって……なのに……」
言葉が詰まる。
悔しさと、無力感と、喪失が絡み合う。
「チセちゃんと約束したんです。来年もまた会いに行きますって……なのに……」
弓月の声が途切れる。
涙が止まらない。
その姿を見た瞬間、賀津の胸の奥で、何かが燃え上がった。
これは怒りだ。
理不尽に対する、どうしようもない怒り。
こんなにも心の澄んだ人を、奪おうとしている者がいる。
小早川秀秋。
その名が、炎に油を注ぐ。
そして同時に、運命を感じた。
チセが繋いだもの。
この出会いは、偶然ではない。
自分がここにいる理由。
守るべきもの。
それが、はっきりと形を持つ。
(……俺が守る)
決意は、静かに、しかし揺るぎなく胸に根を下ろす。
たとえ、それが何を意味しようと。
たとえ、すべてを敵に回すことになろうと。
構わない。
もし露見すれば、ただでは済まない。
そのときは──出る。
石田家を。
背負ってきたものを。
すべてを捨ててでも。
又蔵の顔が、一瞬よぎる。
胸が痛む。
だが、それでも。
(もう、決めた)
この姫を守る。
最後まで。
あの荒くれどもと共に。
この理不尽に、抗うために。
夜風が、静かに吹き抜けた。
星は変わらず瞬き、月はただ静かに、二人を照らしていた。
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