天女[2]
「う……うそだろ……七郎さんが……お大名!?」
賀津の声は、乾いた空気の中でひどく頼りなく響いた。
先ほどまで笑いに満ちていた座敷が、一瞬で別のものへと変わっていく。畳の目の一つひとつまでがやけにくっきりと見え、誰もが息を詰めたまま、七郎──その男を見つめていた。
「嘘ではないさ。そこに座っているのは日州佐土原の城主、島津中務大輔で間違いない」
政宗の声は静かだったが、断定には微塵の揺らぎもなかった。
かつて伏見や大坂で、何度かすれ違った記憶がある。群れの中にあっても、自然と目を引く男。薩摩隼人の典型と呼ばれながら、どこか芝居役者めいた整った顔立ち。廊下を行き交う侍女たちが、ひそかにざわめく様子すら覚えている。
いま目の前にいる男は、確かにみすぼらしい身なりをしている。だが、それでもなお消えないものがある。
立ち居振る舞いのわずかな隙。声の張り。人の上に立つ者だけが持つ、言葉にできぬ「格」。
それは、どれほど隠そうとしても滲み出る。
「関係なかっ! オイはもう島津義久どんと袂ば分かっ! 島津ん家と、縁ななかっ!!」
七郎──いや、豊久は叫ぶように言った。
その言葉には、強がりのような勢いと、押し殺しきれない何かが混じっている。
拳を握りしめる手。視線を逸らす一瞬の動き。
それがすべてを物語っていた。
慶次郎はその様子を、ただ静かに見ていた。
──島津豊久、出奔。
その話は、かつて兼続から聞いている。収集した情報をぶつけてくるあの男にとって、慶次郎は思考を研ぐための砥石のような存在だった。
事実は知っている。
だが、理由は知らない。
そしておそらく、ここで語られることもない。
慶次郎は小さく肩をすくめた。
「まあいいさ、ここにはいろんな奴がいる。昔のことは詮索せんよ」
その一言は、場に張り詰めていた緊張を、わずかに緩めた。
逃げ場を与えるような、あるいは踏み込まぬための線引きのような言葉。
慶次郎の視線が、ゆっくりと賀津と藤四郎へ移る。
「それよりもこっちだ。持っているのは雷振筒だな。なぜお主らが持っている?」
問いは軽く放たれたようでいて、鋭く核心を突いていた。
賀津は一拍置き、迷いなく答える。
「俺達は龍仙寺衆だからな。雷振筒は商売道具だ」
その瞬間、空気が揺れた。
どよめきが畳を伝い、壁に反響する。
龍仙寺衆──石田家の秘中の秘。名だけは知られていても、実態に触れた者はほとんどいない。
目の前にいる少女と若者が、その一員だという現実に、誰もが即座にはついていけなかった。
「何か証はあるのか?」
政宗の視線が細くなる。
藤四郎は静かに懐へ手を入れ、一通の書状を取り出した。その動作には無駄がなく、どこか儀礼めいた確かさがあった。
「こちらが我が殿の御免状でございます──」
差し出された紙に、政宗は目を落とす。
見慣れた筆跡。
石田三成の名。
それだけで十分だった。
偽りであれば、ここまで整った形にはならない。これは本物だ。疑いようもなく。
政宗の胸中で、静かに認識が塗り替えられていく。
ただの流れ者ではない。
この二人は、確かな意志と命を背負ってここにいる。
「龍仙寺衆には女もいるのか?」
ぽつりと漏れた源次郎の疑問は、この場にいる誰もが抱いていたものだった。
藤四郎が、わずかに賀津へ視線を向ける。
「賀津殿は龍仙寺衆の火薬方。工藤内匠頭様の直弟子です」
再び、どよめき。
視線が一斉に賀津へ集まる。
幼さを残した顔立ち。細い肩。だがその奥にあるもの──火薬を扱い、戦場を知る者の目。
見ようとすれば、確かにそこにあった。
「どんな理由で龍仙寺に帰ってこなかったのかはわからねえけど、タクミサマなら俺に話してくれるはずだ。だから会いに来た」
賀津の言葉は、まっすぐだった。
疑いも、迷いもない。
ただ一人の男を信じている、その一点において揺るがない強さがあった。
その声音に、場の者たちは自然と納得していた。
──この少女が選ばれた理由。
それは技だけではない。
信頼だ。
「そうか……ところで書状のは鈴木秀勝とあるが、なぜ雑賀孫市を名乗っている?」
政宗の問いは続く。
藤四郎はわずかに背筋を正した。
「拙者の父は雑賀衆で、そのご縁で三年前、孫三郎様より直々に名乗りを許されました」
静かな声。
だが、その内にある誇りは隠しきれない。
雑賀孫市──ただの名ではない。継ぐに値する者にのみ許される、重い名だ。
政宗はゆっくりとうなずいた。
「あの腕ならば然もありなん」
その言葉に、源次郎と六左も深くうなずく。
彼らは見ている。
あの一射を。
常識の外側にある、あまりにも正確な一撃を。
「六左までうなずくとはな。それほどの腕前なのか?」
又兵衛の声には、半ば疑い、半ば期待が混じっていた。
「兄ぃ、見てねえから言えるんだ。コイツぁバケモンだぜ」
軽口の裏に、確かな実感がある。
「三百間はありましたな」
源次郎の言葉に、又兵衛の顔色が変わる。
「三百間!? おいおい……」
信じがたい。
だが、嘘を言う男たちではない。
「それが当たったんだよ」
現実が、常識を押し流す。
「いくら雷振筒でも三百間は無理だろ!?」
いまだに信じられない又兵衛を横目に、藤四郎は静かに答えた。
「あれは長竿という、遠当て専用の雷振筒です」
「タクミサマが藤四郎さんのために特別にこさえたんだ。天下に二挺しかねえ筒なんだぜ」
賀津は胸を張る。
その誇らしさは、自分のことのようでいて、同時に師への絶対的な信頼の表れでもあった。
皆が息を呑む。
それは単なる驚きではない。
欲望に近い感情が、場に広がっていく。
──欲しい。
これから始まる戦に、この力があれば。
誰もが、同じことを思っていた。
だが同時に、理解もしている。
この二人は石田の者。
白雲城に従う義理はない。
ならば、どう動く。
視線が、自然と一人の男へ集まる。
慶次郎。
彼は腕を組み、わずかに目を細めていた。
笑っているようにも見える。
だがその奥では、すでに幾つもの策が巡り始めているのが、誰の目にも明らかだった。
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