死線[2]
「ひっ、引け! 引けっ!!」
馬上の男が、喉を裂くように叫んだ。
その声を合図に、村へなだれ込んでいた野伏せりたちが一斉に向きを変える。
さきほどまでの獰猛さは消え失せ、そこにあったのは露骨な恐怖だった。
踏み荒らされた土を蹴り上げ、血に濡れた者も、武器を取り落とした者も、我先にと木柵の外へ駆け出す。
──逃げる。
それだけが、彼らの頭を支配していた。
さして、侵入者たちが村を抜けると、大将格の怒声が、混乱に楔を打ち込む。
「矢をつがえ!!」
街道に待機していた弓手たちが一斉に弓を引き絞る。
ギリッ……と弦が軋む音。
次の瞬間──。
ヒュンッ!!
矢が空気を裂いて飛んだ。
「矢だ! 盾に隠れろ!!」
藤四郎の叫びが響く。
男たちは一斉に竹盾へ身を押しつけ、女たちは戸板の陰へ転がり込む。
バシッ!
バシッ!
バシッ!!
矢が盾と戸板に突き刺さり、乾いた音を立てた。
だがすべては防ぎきれない。
「ぐあっ!」
「……っ!」
何人かの肩や脚に矢が食い込み、血がにじむ。
それでも致命傷ではない。
──まだ戦える。
だが、次の瞬間。
空気が変わった。
野伏せりの群れの中から、細い煙がいくつも立ち上る。
じりじり……と火縄が燃える音。
火縄銃。
賀津の背筋に、冷たいものが走る。
この距離で撃たれれば──。
竹盾も、戸板も、意味をなさない。
空気が凍りついた。
その一瞬を──。
七郎が叩き割る。
「行っど、孫市どん!! チェストォォーッ!!」
「おう!!」
二人は同時に駆け出した。
木柵を飛び越え、敵陣へ突っ込む。
常識外れの行動だ。
だが──。
次の瞬間、その意味が分かる。
ドンッ!!
雷鳴のような銃声。
七郎と藤四郎の雷振筒が、同時に火を噴いた。
ドドドドドンッ!!
連続する爆音。
空気が震え、衝撃が肌を叩く。
七郎は弓を構える者を。
藤四郎は火縄銃を持つ者を。
それぞれ狙い撃つ。
弾丸は、まるで吸い込まれるように敵へ突き刺さった。
バンッ!!
頭が弾ける。
血と骨片が空中に飛び散る。
撃ち手が引き金を引く前に、次々と崩れ落ちていく。
「な、なんじゃ……!?」
「なにがおこったんじゃあ!?」
野伏せりたちの顔が、恐怖に歪む。
雷振筒。
その存在を知る者はほとんどいない。
関ヶ原でわずかに披露されたのみ。
その威力を知った者の大半は、すでにこの世にいない。
つまり──。
未知の死だった。
「流石なごわす、孫市どん!」
七郎が叫ぶ。
「鉄砲撃っどんは、皆ん死に果てもしたッ!!」
藤四郎は何も答えない。
ただ、次の標的へと視線を移す。
引き金を絞る。
ドンッ!!
また一人、頭を撃ち抜かれて倒れる。
距離は二十メートルもない。
藤四郎にとっては、外す方が難しい。
その正確さは、もはや異様だった。
「オイも負けっおられんッ!!」
七郎も弾を込め直し、すぐさま撃つ。
ドンッ!!
胸を撃ち抜かれ、男が後ろへ吹き飛ぶ。
ドンッ!!
肩口を砕かれ、悲鳴を上げて倒れる。
銃声のたびに、確実に一人が消えていく。
もはや戦いではない。
一方的な蹂躙だった。
その中で──。
「こいつぁ土産だ!!」
賀津が飛び出した。
手にしているのは、炸裂弾。
火をつけ、全力で投げる。
放物線を描いたそれが、野伏せりの足元に落ちた。
次の瞬間──。
ドォォォンッ!!!
爆音が炸裂した。
土が吹き上がり、衝撃波が周囲を薙ぎ払う。
馬がいななき、前脚を跳ね上げる。
「ひ、ひぃっ!?」
騎馬武者がバランスを崩し、宙へ放り出された。
地面に叩きつけられる。
そこへ──。
ドンッ!!
雷振筒の一撃。
逃げ場はなかった。
野伏せりの隊列は完全に崩壊する。
誰もが恐怖に顔を引きつらせ、我先にと逃げ出した。
「にっ、にっ、逃げろぉーー!!」
誰かが絶叫する。
その声が引き金だった。
残った者たちが、一斉に南へと走り出す。
もはや振り返る者はいない。
土煙を巻き上げ、命からがら逃げていく。
その背を、誰も追わなかった。
──勝った。
静寂が、遅れて訪れる。
やがて。
「やった……」
誰かが呟いた。
「やったぞ!!」
歓声が上がる。
「勝った! 野伏せりを追っ払った!!」
その声は瞬く間に広がり、広場を震わせた。
泣き出す者、抱き合う者、空に向かって叫ぶ者。
恐怖に押し潰されそうだった村人たちの顔に、ようやく生の実感が戻る。
賀津はその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。
手の中には、あの蛍石。
かすかに震えていた。
──チサは無事か?
そう思った瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が、じわりと溢れ出した。
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