山影騒然[1]
加納宿を発った賀津たちは、芥見、上有知、八幡、白鳥と関を越え、やがて山深い飛騨へと踏み入った。
賀津、藤四郎、七郎に加え、上有知で雇った二人の馬借。馬二頭に人が五人。山路をゆくには心許ないほどの小さな一行である。
季節は春の終わりかけ。
峠の雪はすでに消え、谷という谷に若葉が萌え出していた。柔らかな新緑が山肌を覆い、風が吹くたび梢がさざめく。湿った土の匂いと、まだ冷たい山の空気が胸の奥まで沁みてくる。
だが、その歩みは遅かった。
険しい山道という理由もあるが、それ以上に、賀津たちは村を見つけるたび足を止めていた。
工藤内匠頭──その噂を、ひとつでも拾うためである。
一日に三つ、四つの村を巡る。
歩く距離は五里ほど。
だが尋ね回っても、多くは首を振られるばかりだった。
山里の人々にとって、他所の武士の名など風と同じ。聞いたこともない、という答えがほとんどである。
それでも賀津は、あきらめる気にはなれなかった。
胸の奥にある焦りを、歩くことで誤魔化している。
──どこかにはいる。
──必ず、どこかに。
そう言い聞かせるように、村から村へと足を運ぶ。
だが、飛騨へ入ってほどなく、その苦労はようやく報われた。
「白雲って城があるのか?」
賀津が身を乗り出すように尋ねると、話してくれた百姓は土のついた手を拭きながら頷いた。
「へえ。この街道を北へ行くと、御母衣って村にありやす」
「聞いたかい七郎サン! 七郎さんの言ってた白雲って、お城だってよ!」
藤四郎が弾けたように声を上げる。
その横で七郎は、ぐっと拳を握りしめていた。
「まこて良かごわした! オイの聞いた噂は、嘘じゃなかっだ!!」
胸の奥で張りつめていたものが、ふっとほどける。
話してくれたのは町屋村の百姓、善兵衛という男だった。
年は二十を少し過ぎたばかり。日に焼けた顔には働き盛りの精気があり、家の軒先では幼い娘が土遊びをしている。
妻と、娘のチサ。三人暮らしだという。
町屋村は白川街道と高山街道が交わる場所にあり、旅人の往来もわずかながらある。
東へ行けば高山、北へ進めば御母衣村。ここで確かな話が聞けたのは、賀津たちにとって大きかった。
これで進むべき道は決まった。
北だ。
しばらくすると、娘のチサが小さな足でぱたぱたと駆け寄ってきた。
「おねぇちゃん、これあげる」
差し出された小さな手のひらに、ころりと石がひとつ乗せられる。
「うわっ! なんだこの石! キラキラしてんな!」
賀津が目を丸くすると、チサは得意げに胸を張った。
「おばちゃんにもらったの」
「へへ、あっしの妹が金山に奉公に出てやしてね。土産で何個か持ってきたんでさ。あっちじゃ、この石がよく採れるとかで」
善兵衛が照れたように頭をかく。
賀津の掌にある石は、蛍石だった。
菱形に割れた面へ斜めから光が差し込むと、半透明の青と緑がゆらりと溶け合い、山の清水をすくい上げたような色を浮かべる。
ひんやりとした感触が、掌の皮膚に静かに伝わってきた。
子どもの宝物にふさわしい、不思議な輝き。
賀津はそれをそっと握りしめ、目の前の小さな頭をくしゃりと撫でる。
細く柔らかな髪は陽を浴びて温かく、そこには干した布や若草のような、春の匂いがかすかに混じっていた。
「あのねあのね、あたし天女さまにもこのお石あげたんだぁ」
唐突に言い出したチサの声は、秘密を打ち明けるように弾んでいた。
「天女様?」
賀津は思わず聞き返す。
「天女さまってすっごいきらきらまぶしくてね~、このお石みたいにお目々が青いの」
チサは蛍石を指さしながら、目を丸くして語る。
その瞳は、まるで本当に見てきたものを思い出しているように、きらきらと輝いていた。
「本当かい? だったら俺も天女様に会いてえなあ~」
わざと大げさに言うと、チサは得意そうに胸を張る。
「前にこの村に来たんだぁ。だから、おねぇちゃんもきっと会えるよ」
子どもらしい作り話だろう。
あるいは母親から聞いたお伽噺が、いつの間にか本当の記憶になってしまったのかもしれない。
まだチサは、夢とうつつの境目がやわらかく溶け合う年頃だ。
青い瞳を持った輝く天女など、この世にいるはずがない。
それでも──チサは疑いもなく信じている。
その無邪気さが、賀津には眩しかった。
夢のような話を、心から大切にできる子なのだ。
そう思うと、胸の奥がふっと柔らいだ。
この小さな命が、どうしようもなく愛おしくなる。
「タクミサマが見つかったらさ、帰りもここに寄るよ」
気づけば言葉が、ふいに口をついていた。
「ほんとう!」
チサの顔がぱっと明るくなる。
曇り空に急に陽が差したような笑顔だった。
「ああ。そのときゃ、おもしれえ話をうんと聞かせてやる」
そう言いながら、賀津は胸の奥で小さく苦笑する。
本当にそんな日が来るのか──それは、自分にも分からない。
これから向かう先に、どんな運命が待っているのかも。
それでも、子どもの前では口にできなかった。
この子には、まだ知らなくていい世界がある。
怖い話より、楽しい話を聞いて笑っていてほしい。
「だから父ちゃんと母ちゃんの言うことをよく聞いて、いい子にしなよ」
「うん!」
元気よく頷くチサ。
その真っ直ぐな返事を聞いたとき、賀津は胸の奥に張りつめていたものが、ほんのわずか緩むのを感じた。
春の光の中で、チサは無邪気に笑っていた。
まるで、この小さな村にはまだ、何ひとつ不安など存在しないかのように。
だがその穏やかな時間は、長くは続かなかった。
日が西へ傾き、山影がゆっくりと村を覆い始める頃。
賀津たちは町屋村を後にした。
今夜の宿は牛丸村。
ここから一里も離れてはいない。
だが、少しでも白雲城へ近づいておきたかった。
その一心で、賀津は出立を決めた。
夕暮れの山道に踏み出したとき、背後の村では犬が遠く吠えていた。
その声が、妙に耳に残った。
──このときの判断を。
賀津は後になって、骨の髄まで悔いることになる。
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