将星相逢[3]
宿の裏庭。
勝手口の戸が、きしりと小さく鳴った。
そこから玄舜坊が静かに姿を現す。
墨染めの衣をまとい、顔の半ばを布で覆ったその姿は、夜の闇に溶け込む影のようだった。星明かりがかすかに庭を照らしているが、月は雲に隠れている。灯りもない裏庭は、深い闇に沈んでいた。
この時刻になると町は完全に眠りにつく。
道に人影はなく、店はすべて雨戸を下ろし、家々の灯も消えている。虫の声と、遠くを流れる川の音だけが夜を満たしていた。
玄舜坊は周囲を一度見回し、ゆっくりと歩き出す。
足音はほとんどしない。
それでも歩を進めるたび、視線は影から影へと滑るように動く。
──慎重すぎるほどに。
「こんな時間におでかけかね?」
不意に背後から声がした。
玄舜坊の身体が反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、白髪の老人──無苦庵こと前田慶次郎。
星明かりの下で、慶次郎は腕を組み、どこか面白そうな顔でこちらを見ていた。
「この近くに知り合いの寺があってな」
玄舜坊は一瞬の間も置かず答える。
「挨拶がてら顔を出しに行くのだ」
「なにも黙って行くことはなかろう」
「宴に水を差すのも申し訳なかったのでな。なに、明け方には帰ると伝えてくれ」
言葉は流れるようだった。
一息で作り上げた嘘とは思えぬ自然さである。
慶次郎は「うん、うん」と頷きながら、しばし黙って聞いていた。
やがて、くつくつと喉の奥で笑う。
「いや……さすがと言うべきか」
目が細くなる。
「息を吐くように嘘をつく。梟雄とはそうあらねばならぬ」
「拙僧が嘘? 一体何のことか……」
「こんな山奥に知り合いの寺などあるものか。そもそも」
慶次郎は一歩踏み出した。
「坊主ですらないのに」
空気が、わずかに張り詰める。
「無苦庵殿は少し酒を召し過ぎたようだ」
玄舜坊は静かに言う。
「酩酊して前後不覚と見える」
「この程度で酔うかよ」
慶次郎の口元が歪む。
「目の前に大崎の少将がいるというのに」
その名が夜気に落ちた瞬間だった。
玄舜坊の手が動く。
六輪を外し、槍の穂先がまっすぐ慶次郎の喉元へ走った。
だが──届かない。
慶次郎は身を半歩外へ滑らせると同時に柄を掴んでいた。
老人とは思えぬ膂力で、槍をひねり上げる。
玄舜坊の手から武器が離れ、宙を舞った。
「ぐっ……!」
しかし玄舜坊は怯まない。
正体を見破られた以上、この男を生かしておくわけにはいかない。
半開きの掌が、慶次郎の顔へ伸びる。
指先が目を抉り取る寸前──。
慶次郎の頭が沈んだ。
掌は額で弾かれ、そのまま腕を取られる。
次の瞬間、世界が反転した。
玄舜坊は地面に叩き伏せられ、背に重みが乗る。右腕は逆手にねじ上げられ、関節が悲鳴を上げていた。
戦場を渡り歩いてきた慶次郎と、御殿暮らしの長い玄舜坊。
組み手の差は歴然だった。
「大人しゅうせい」
慶次郎は低く言った。
だがその姿勢は容赦がない。玄舜坊はうつ伏せに押さえつけられ、腕を極められ、まともに動かせるのは指先くらいだ。
「殺せ……!」
玄舜坊は歯を食いしばる。
「俺の首で禄にありつくといい」
「はぁ?」
慶次郎が呆れた顔を浮かべた、その時だった。
闇の奥から、何かが飛ぶ。
鋭い風切り音。
だが慶次郎の右手が動いた。
顔に当たる寸前、それを掴み取る。
掌に収まったのは一本の飛苦無。
慶次郎はその刃を、玄舜坊の背へ──心臓の真上へ突き立てた。
「出てこい!」
夜を裂く怒声。
「出てこぬなら此奴を殺すぞ!」
刃がわずかに沈む。
「貴様の刃は、此奴の心の臓に当たっておる! 儂が死ねば、重みで諸共よ!」
状況は一瞬で理解できた。
第二の攻撃を仕掛ければ、慶次郎が倒れた瞬間、刃が玄舜坊の心臓へ沈む。
飛苦無を投げた者は間違いなく玄人。
玄舜坊の護衛──おそらく黒脛巾衆。
慶次郎はそこまで読み切っていた。
「参りました!」
闇の中から一人の男が現れ、地面に額をこすりつけた。
「どうかご容赦を!」
「眸海……!」
玄舜坊が叫ぶ。
「俺のことは構わぬ……! 此奴を始末しろ!」
「なりませぬ玄舜坊様!」
眸海は顔を上げ、必死に言う。
「貴方様のお命こそ第一でございます!」
慶次郎はその二人を見下ろし、鼻で笑った。
「勘違いするな」
苦無の柄を軽く押し込む。
「儂は別に少将をどうこうするつもりはない」
夜の空気が、わずかに緩む。
「大坂の布令を守る義理もないしな」
「……では……」
玄舜坊は呻くように問う。
「一体……何が望みだ……」
慶次郎の口元が、ゆっくり吊り上がった。
「簡単な話よ」
そして、あっさりと言う。
「お前も白雲城の戦を手伝え」
「はぁ?」
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