化物[10]
屋敷を離れた二人は、月明かりの下を歩いていた。
森の中を抜ける道は暗く、頭上では木々の枝が風に揺れている。
遠くから、まだ屋敷の燃える音が聞こえていた。
化物は、肩越しに振り返った。
「おい」
「どうした?」
「どこまでついてくるんだ」
「安全な場所までだ」
「安全な場所って……」
化物は、呆れたように笑った。
「お前は俺を心配してるのか?」
「御家老様に申し付けられたからな」
「やれやれ、面倒くせえ奴だな」
化物は、肩をすくめた。
だが、勘兵衛は足を止めなかった。
左近の命令だから。
それは確かに理由のひとつだった。
けれど、それだけではない。
この男には、聞きたいことが山ほどあった。
だが、どれも口にすることはできなかった。
相手は、こちらが何を尋ねようと、まともに答える気などないように見えたからだ。
「じゃあ、ここでいいさ」
森の出口が近づいたところで、化物が足を止めた。
「俺は消える」
「なれど……」
勘兵衛は、言葉を濁した。
もう少し話していたい。
せめて名くらいは知っておきたい。
そう思っている自分に気づき、勘兵衛は戸惑った。
化物は、そんな勘兵衛の顔をしばらく眺めていた。
そして、深々とため息をついた。
「……弾九郎」
「は?」
「俺の名だ」
弾九郎は、面倒くさそうに頭を掻いた。
「来栖弾九郎」
「来栖……弾九郎……殿」
勘兵衛は、その名を確かめるように繰り返した。
ようやく、名前を知ることができた。
それだけのことなのに、不思議と胸のつかえが下りたような気がした。
「覚えんでもいい」
弾九郎は、そっぽを向いた。
「どうせもう、二度と会わんのだからな」
そう言って、片手をひらひらと振る。
だが、勘兵衛は、もうその言葉を額面どおりには受け取らなかった。
この男は、他人と深く関わることを避けている。
助けた相手から感謝されることにも、名前を覚えられることにも、慣れていないのかもしれない。
そう思わせる何かが、その仕草にはあった。
「弾九郎殿」
勘兵衛は、背筋を伸ばした。
「此度の助勢、真に助かり申した。貴殿がおられなければ、私はとうに命を落としていたでしょう」
心からの言葉だった。
弾九郎は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ顔を背けた。
「ジジイに頼まれた仕事をしただけさ」
「されど……」
「じゃあな、勘兵衛」
弾九郎は、勘兵衛の言葉を遮った。
「達者でな」
それだけ言うと、背を向けた。
その歩き方は、先ほどまでの飄々とした態度に比べて、どこか落ち着きがなかった。
勘兵衛は、その背中を見送った。
やがて弾九郎の姿は木々の間へ入り、月明かりの届かぬ闇へと溶けていった。
最後まで、振り返ることはなかった。
勘兵衛は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夜風が頬を撫でる。
遠くでは、屋敷を焼く炎が、まだ赤く揺らめいていた。
来栖弾九郎。
その名を、勘兵衛は決して忘れないだろう。
これが、垣屋勘兵衛と来栖弾九郎が出会った、最初で最後の夜であった。
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