化物[5]
男は、完全に場を支配していた。
広間の中央には、血に染まった畳と四つの死体。そして、只中に立つ一人の男。
その姿を前にして、勘兵衛は言葉を失っていた。
つい先ほどまで、この広間を支配していたのは典膳の側だった。三十人を超える手練れを揃え、逃げ道を塞ぎ、獲物を追い詰めたつもりでいた。
ところが、蓋を開けてみればどうだ。
人が斬られ、血が流れ、命が消えていく。その中心にいる男だけが、まるで縁側で日向ぼっこでもしているかのように、泰然としている。
典膳は、目の前で何が起きているのか、まだ理解しきれていない様子だった。
だが、ひとつだけはっきりしていることがある。
人数では、依然として典膳側が圧倒しているのだ。
いくら目の前の男が化物であろうと、三十人を超える手練れを相手にできるはずがない。一人や二人ならともかく、四方から同時に襲いかかられれば、どれほどの達人であろうと対処しきれるものではないからだ。
それが常識というものだ。
そして、この場にいる者の大半は、まだその常識にすがっていた。
「な、何をしている!! そいつから始末しろっ!!」
典膳が金切り声を上げた。
指さした先にいるのは、化物ではない。
垣屋勘兵衛だ。
この男さえ始末してしまえば後はどうにでもなる。そう悟った典膳は、必死に声を張り上げた。
そして、その命令に反応した用心棒が、一人、勘兵衛へと飛びかかった。
「ぐっ!」
頭上から振り下ろされた刃を、勘兵衛は咄嗟に刀で受け止めた。
ガキンッ!
鋼と鋼がぶつかり合い、火花が散る。
相手は力任せに押し込んできた。腕にずしりとした重みがかかり、勘兵衛の足が畳を滑る。
だが、真正面から力比べをする必要はない。
勘兵衛は相手の刀を斜めに受け流した。
刃が逸れ、男の身体が前のめりになる。
その瞬間、勘兵衛は一歩踏み込み、腰を回した。
「ぎゃあっ!」
水平に薙いだ刃が、男の腹を深々と切り裂いた。
男は腹を押さえ、苦悶の声を上げながら畳に崩れ落ちた。
勘兵衛は、その姿を一瞥することもなく、すぐさま刀を構え直した。
敵はまだいる。
気を抜けば、次の瞬間には自分が死ぬ。
それだけは、嫌というほど分かっていた。
「貴様ぁっ!」
二人目の男が斬りかかってきた。
勘兵衛は、相手の刀が振り下ろされる寸前に身体を沈めた。
刃が頭上を通り過ぎる。
そのまま相手の攻撃線から身を外し、死角へと滑り込む。
浮舟から山陰へ。
新陰流に伝わる技の理合を、勘兵衛は実戦の中で体現していた。
相手が体勢を立て直すより早く、勘兵衛の刀が走る。
死角から斜めに斬り上げた刃が、男の脇から胸へと抜けた。男は声を上げる間もなく、畳へ倒れ込んだ。
鉄砲方の家に産まれた。いずれ跡を継ぐ身であれば、槍や弓を修めても使い道はない。だからこそ、勘兵衛は剣術を選んだ。
幼い頃から刀を握り、諸国の兵法者に教えを請い、やがて柳生石舟斎の門を叩いて、新陰流の目録を得るに至った。
槍と弓、そして鉄砲が主役のこの時代、剣術一本を極めた武士は、決して多くはない。
その修行の積み重ねが、今この修羅場で、勘兵衛の命を繋いでいた。
「ほう、ほう」
少し離れた場所で、化物が感心したように声を漏らした。
用心棒たちの動きを警戒しながらも、その視線は時折、勘兵衛の剣筋を捉えていた。
──石舟斎先生にきっちり仕込まれたようだな。
これなら、そう簡単には大怪我をするまい。
もっとも、それと生き残れるかどうかは別の話だ。
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