化物[2]
浪花橋を渡り、土佐堀川沿いの道を西へ進む。
夜の大坂は、昼間とは別の顔を見せていた。川面には月が浮かび、夜風が吹くたびにその姿を細かく揺らしている。
左手には中之島の屋敷が連なり、月明かりを受けた屋根瓦が暗闇の中で白く浮かび上がっていた。だが、窓に灯りはなく、船宿の提灯も落ちている。これほど多くの屋敷が集まっているというのに、人の気配は薄い。遠くから、犬の鳴き声が聞こえるだけだ。
橋を境に、景色は大きく変わった。
屋敷が軒を連ね、人の暮らしが密集する大坂の町。それに対して、こちら側には深い森が広がっている。木々の間から差し込む月明かりは弱く、足元には濃い影が幾重にも重なっていた。
森の向こう、遠くに、か細い明かりがひとつだけ見える。
お初天神の灯りだ。
その小さな光だけが、ここが完全な闇ではなく、まだ人の暮らす土地であることを知らせていた。
勘兵衛は無言で歩き続け、やがて森を抜けた。
視界が一気に開ける。
月明かりの下、少し離れた場所に大きな屋敷が姿を現した。黒々とした木立を背に、静かに佇んでいる。
──あれが典膳の屋敷か。
勘兵衛の足が、ほんのわずかに緩んだ。
その瞬間、後ろを歩いていた男が、何気ない口調で声をかけてきた。
「ところでアンタ」
「ん?」
「剣術は、どれくらい使えるんだ?」
あまりにも唐突な問い。
勘兵衛は振り返った。
「今、それを聞くのか?」
「今だから聞くんだよ」
男は淡々としている。冗談を言っている様子でもない。
勘兵衛は少し考えてから答えた。
「大和の柳生道場で手ほどきを受けた」
男の眉が、わずかに動いた。
「新陰流の目録も頂戴している」
「……そうか」
男の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「石舟斎先生に学んだか……」
先ほどまでより、声が低かった。
勘兵衛は男を振り返った。
「貴殿は、石舟斎先生をご存じなのか?」
男は答えなかった。
月明かりを受けた横顔が、一瞬だけ遠くを見る。
だが、それもほんの一瞬だった。
「いや」
男はいつもの調子に戻った。
「俺のことなんざ、どうでもいい」
「……」
「アンタが新陰流の目録持ちなら、少しは楽できそうだ」
そう言って、男はニヤリと笑った。まるでこれから酒でも飲みに行くような顔をしている。
勘兵衛は目を細めた。
「……随分と余裕だな」
「そうか?」
男は首を傾げた。
勘兵衛は小さく息を吐くと、刀の柄にそっと手を添えた。冷たい金具の感触が、指先に伝わる。
「行くぞ」
「ああ」
男は軽く答える。
二人は再び歩き始めた。
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