化物[1]
曾根崎は、かつて淀川の砂州に過ぎなかった。
秀吉による大坂城の築城からおよそ二十年。淀川の治水と開発が進むにつれ、湿地は近郊の耕作地へと姿を変え、大坂の胃袋を支える農村となった。
人と物が集まれば、金も動く。だが同時に、人目につかぬ場所も増える。船も使え、それでいて表通りから少し外れれば人通りが絶える。
そんな一角に、栢谷典膳の屋敷はあった。
元は西国大名の別宅。関ヶ原で持ち主が没落し、空き家となっていたものを、典膳が手に入れたのは二年前。周囲は森に囲まれ、屋敷の裏手には船着き場もある。
人知れず何かを運び込む。あるいは、運び出す。
そのどちらにも、これほど都合のいい場所はそうそうない。
そして今夜、その屋敷へ向かう男がいる。
垣屋勘兵衛。
勘兵衛は浪花橋のたもとに立ち、川面を眺めながら、約束の相手を待っていた。
夕暮れの大坂。橋の上を人々が行き交い、荷を積んだ船がゆっくりと川を下っていく。町にはいつもと変わらぬ喧騒がある。
この橋を渡れば、曾根崎はもう目と鼻の先。その先に、典膳の屋敷がある。
昨夜、喜平が殺された。他の証言者も消息が途絶えた。こちらが一歩踏み込むより先に、典膳は動いたのだ。
今夜、決着をつける。
「あんたが勘兵衛さんかい?」
不意に、背後から声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、四十過ぎの男だ。
蓬髪。無精髭。顔つきだけを見れば、どこかくたびれた浪人にも見える。背丈は、それほど高くない。
だが、勘兵衛は一目見ただけで、妙な違和感を覚えた。
衣服の上からでも分かる。余分な肉が一切ない。肩、腕、胸、腰。長年鍛え抜かれた身体が、無駄なくこの男を形作っている。
そして何より──目だ。
鋭い。いや、鋭いというより静かだった。凪いだ水面のように何も映さず、それでいて、すべてを見ている。
「いかにも。それで、貴殿は?」
勘兵衛が尋ねる。
「俺か?」
男は鼻で笑うと、懐から何かを取り出し、口へ放り込んだ。
小魚の丸干しだった。歩きながら齧っていたものらしい。
「腹が減ってはなんとやら。物騒な仕事の前は、いつも何か食っとくことにしてる」
その気の抜けた仕草に、勘兵衛は一瞬拍子抜けした。
先ほどまでの気配は、嘘のように消えていた。
「俺のことなんて、どうだっていい」
そして、勘兵衛を値踏みするように一瞥する。
「今日はアンタの身を守るよう、左近のジジイに頼まれただけさ」
「……御家老様を、ジジイだと」
勘兵衛は思わず眉をひそめた。
「ジジイだからな。あいつはいっつも面倒ごとばっかり押し付けてくる。ジジイと呼んだくらいじゃ罰は当たらんさ」
文句を言いながらも、口元にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「名は?」
「好きに呼びな。『おい』でも『お前』でもいい。どうせ今日限りの縁だ」
男は干し魚の残りを噛みちぎった。
「そうか」
勘兵衛は短く答え、男へ背を向ける。
「では、行くぞ」
浪花橋へ足を踏み入れた。板を踏む足音が、乾いた音を立てる。川から吹き上げる風が、二人の間を抜けていった。
勘兵衛の前には、曾根崎へ続く道がある。
男は最後の一切れを飲み込むと、何も言わず、その後ろを歩き始めた。
その足取りには、焦りも緊張もない。
ただ、獲物へ近づく獣のように、先ほどまでの飄々とした気配を消し、静かに勘兵衛の背中を追っていた。
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