先手[3]
「先手を打たれたな……」
夕暮れの光が、障子越しに細く差し込んでいた。
その薄暗い部屋で、島左近は腕を組んだまま、重く息を吐いた。
「申し訳ございませぬ。拙者の手抜かりにございます」
向かいに座る垣屋勘兵衛が、深々と頭を下げる。
その声には、いつもの落ち着きがなかった。
喜平が殺された。
それは単なる寺男の死ではない。
昨日まで手の中にあった、重要な証言そのものが消されたということだ。
「儂らが考えていたよりも、典膳は甘くなかったということだな」
左近は苦い顔で呟いた。
「まさか、あの男が喜平の顔を覚えていたとは……」
勘兵衛は唇を噛んだ。
あの時、喜平を連れて行かなければよかった。
そんな後悔が、胸の奥に何度も湧き上がる。
「それを悔いても仕方あるまい」
左近の声は静かだった。
「実はな。荷駄方の二人とも、連絡が取れなくなった」
「なんと!」
勘兵衛が顔を上げる。
嫌な予感が、胸の底からせり上がった。
「それでは今ごろ……」
「さすがに小早川の家士だからな。喜平と違って、手荒な真似はせんさ」
左近はそう言ったものの、表情は晴れない。
「ただ、金を掴ませたか……脅したか」
それだけで十分だった。
証言する者がいなくなれば、こちらの手は一気に狭まる。
誰が、いつ、どこから雷振筒を持ち出したのか。それを裏付ける人間が消えれば、喜平の持っていた弾丸一つだけでは、典膳を追い詰める証拠にならない。
「もはや、一刻の猶予もございませぬ」
勘兵衛が低い声で言った。
「どうするつもりだ」
「拙者が奴の元へ行き、力尽くでねじ伏せます」
勘兵衛は平然と言い切った。
左近は、思わず苦笑した。
「……随分と勇ましいな」
だが、その笑みはすぐに消えた。
冗談ではない。
勘兵衛は本気なのだ。
左近は黙り込み、目を伏せた。
──このままでは、掴みかけた尻尾を切られる。
それが何より恐ろしかった。
あと少しだった。
典膳が犯人であることは間違いない。
それを裏付ける証言も揃っていた。
だが、敵はこちらが手を伸ばすより早く、その証拠を一つずつ消し始めた。
このまま何もせずにいれば、最後には何も残らない。
そうなれば、雷振筒強奪の真相は闇に葬られる。
そして、そのツケを払うのは石田家だけではない。
小早川と内ヶ島の戦いが始まれば、飛騨の山中にある内ヶ島は滅亡の憂き目を見ることになる。
それを防ぐために、ここまで動いてきたのだ。
ここで手を止めるわけにはいかなかった。
左近は、思わず額に手を当てた。
勘兵衛も左近も、警察ではない。
証拠を揃え、裁きを待つような仕組みが整っているわけでもない。
いざとなれば、武力に訴える。
それ自体は、この時代の武士として不自然なことではない。
だが、そうだとしても、大雑把すぎる。
「手向かいされたら、どうするつもりだ?」
左近は呆れたように尋ねた。
「奴は腕利きの浪人を集め、用心棒にしていると聞くぞ」
「承知しております」
「承知していて言っているのか……」
左近は深いため息をついた。
今の典膳は、もはやただの側用人ではない。
小早川秀秋から絶大な信頼を寄せられ、大坂ではまるで秀秋の代理人であるかのように振る舞っている。
上役でさえ、典膳の専横を目にしながら、容易には手を出せない。
その権勢を支えているものは、秀秋からの信頼だけではない。
金だ。
莫大な金。
典膳は雷振筒と弾丸の対価として、小早川から巨額の金を引き出している。
雷振筒の入手先は、秀秋にすら明かしていない。
自分と繋がりのある闇の商人から手に入れた──そう偽っているのだ。
秀秋はそれを信じ、大金を惜しみなく注ぎ込んだ。
そして、その金はすべて典膳の懐へ流れ込んでいる。
栢谷家の金蔵には、今や数万両もの金が積み上がっている。
現代の貨幣価値に直せば、数十億円にも相当する莫大な財だ。
金があれば、人も集められる。
口も塞げる。
そして──命さえ買える。
典膳は郊外の曾根崎に屋敷を構え、そこを拠点として動き回っている。
その屋敷には当然のように用心棒が置かれていた。
二十人を超える腕利きの浪人たち。
そんな場所へ、勘兵衛は乗り込もうとしている。
無謀という言葉では足りない。
ほとんど自殺行為だ。
「それでは、こちらも人数を集めて乗り込みます」
「馬鹿なことを言うな!」
さすがの左近も声を荒らげた。
「御城下で戦を始めるつもりか!?」
大坂城下で二十人、三十人もの武士を動かせば、ただでは済まない。
ましてや相手は小早川家の重臣格。
下手をすれば、石田と小早川の対立そのものへ発展しかねない。
勘兵衛も、それくらいは分かっているはずだ。
「それでは拙者ひとりで行きます」
勘兵衛は静かに言った。
「もし帰らなければ、それを名分として典膳を捕らえてください」
左近の目が見開かれた。
ただ無謀なだけではない。
勘兵衛は勘兵衛なりに、典膳の身柄を押さえる方法を考えていたのだ。
仮にも石田家の家老が、典膳の屋敷へ出向いたまま行方をくらましたとなれば、ただでは済まない。
殺されたのであれば、なおさらだ。
それを大義名分として、左近が典膳の屋敷へ踏み込み、その身柄を拘束する。
筋は通っている。
理屈の上では。
だが、そのために自分の命を差し出そうという勘兵衛の覚悟は、もはや狂気に近い。
「よせよせ」
左近は、力なく首を振った。
「典膳とお主の命では、到底釣り合いが取れぬわ」
「しかし──」
勘兵衛は真っ直ぐに左近を見た。
「機を逃せば、取り返しが付きませぬ」
その目に、迷いはなかった。
喜平が殺された。
証言者も消された。
ここでさらに時間を与えれば、典膳は証拠をすべて消してしまうだろう。
そうなれば、もう二度と手は届かない。
左近はしばらく黙り込んだ。
障子の向こうでは、夕暮れの町が静かに夜へ沈み始めている。
遠くから、人の声が聞こえる。
馬の蹄が鳴る。
いつもと変わらぬ大坂の夕暮れ。
だが、その静けさの下で、いくつもの思惑が蠢いている。
左近はゆっくりと顔を上げた。
「……わかった」
勘兵衛が目を向ける。
「典膳の屋敷へ行ってこい」
「はっ」
「ただし、ひとりだけ連れて行け」
勘兵衛の眉が動いた。
「連れて行くとは、一体誰を……」
「お主の知らぬ男だ。が、腕は立つ」
左近の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
それは先ほどまでの苦笑とは違っていた。
何かを決めた男の顔だった。
「その時は、儂も人数を連れて近くまで行く」
左近はそこで言葉を切った。
「後は……相手の出方次第だな」
勘兵衛はしばらく左近を見つめた。
やがて、その意図を察したように深く頭を下げる。
「承知いたしました」
こうして、栢谷典膳捕縛のための計画が動き始めた。
それはまだ、誰にも知られていない。
典膳自身も。
そして、この先に待ち受けるものを、勘兵衛たちもまだ知らなかった。
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