先手[2]
「これはこれは、垣屋様。ご機嫌麗しきご様子、何よりのことと存じます」
大坂城の廊下に、よく通る声が響いた。
勘兵衛が足を止める。
向こうから歩いてきたのは、栢谷典膳だった。
「貴殿もな。随分忙しい様子だが、例の件はどの程度まで進んでおるのだ」
勘兵衛は、何食わぬ顔で問いかけた。
その声にも、表情にも、わずかな揺らぎすらない。
だが、胸の内では別の思いが渦巻いていた。
──よくもまあ、ぬけぬけと。
しかし、それを顔に出すほど勘兵衛は未熟ではない。
「はは、それはもう。出所の絞り込みは随分と進みました。これでお約束通り、秋までには良いお知らせが出来るかと思います」
典膳は、いかにも人好きのする笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、勘兵衛の胸の奥に、冷たいものが走った。
白々しい。
これほどまでに、白々しい笑顔があるものか。
三月。
加藤清正率いる二万の軍勢が金沢を出陣した頃、栢谷典膳もまた大坂へ上ってきていた。
そして今日、大坂城内の廊下で、二人はこうして顔を合わせた。
典膳は知っている。
目の前にいる垣屋勘兵衛が龍仙寺衆の総帥であり、雷振筒紛失の件について責任を負う立場にあることを。
だからこそ、顔を合わせるたびに、こうして愛想よく話しかけてくる。
雷振筒を盗み出した者の捜索は、典膳に一任されている。
それは、雷振筒紛失の事実を公表すると脅し、五大老の一人である石田三成に飲ませた条件だった。
猶予は一年。
その進捗を確認する役目を担っているのが、勘兵衛である。
つまり典膳にとって、勘兵衛は自分の仕事ぶりを報告しておくべき相手なのだ。
だから、こうして会うたびに追従を交えた笑顔を浮かべ、もっともらしい進捗を語ってくる。
だが勘兵衛は知っている。
雷振筒を奪ったのは、目の前にいる男だ。
その確信がある。
にもかかわらず、当の本人は何も知らぬ顔で笑っている。
それどころか、自分が盗人を追っているかのように振る舞っている。
その笑顔が、勘兵衛にはひどく醜悪なものに見えた。
人の皮を被った蛇。
そんな言葉が脳裏を過る。
しかし、それも一瞬のことだった。
勘兵衛は胸の内に生じた嫌悪を、静かに押し殺した。
今ここで感情を露わにすれば、すべてが水泡に帰す。
怒りを見せる必要はない。
嫌悪を悟らせる必要もない。
必要なのはただ一つ。
この男に、最後まで自分を欺いていると思わせることだ。
「それでは、その知らせが早く来ることを待っている」
「はい。近江宰相様にも、よしなにお伝えください」
典膳は最後まで笑顔だった。
そして軽く一礼すると、そのまま廊下の先へと歩いていく。
衣擦れの音が遠ざかり、やがて人の往来に紛れて、その姿が見えなくなる。
それを確認してから、勘兵衛の表情が変わった。
眉間に深い皺が刻まれる。
先ほどまでの穏やかな顔が嘘のようだった。
苦虫を噛み潰したような顔。
いや、それだけでは足りない。
まるで目の前で汚物を見せつけられたかのような、不快そのものの表情だった。
「喜平」
「へえ」
勘兵衛の後ろに控えていた男が、小さく返事をする。
今日は従者の身形をしているが、その正体はあの山寺の寺男、喜平である。
「今の男を見たか」
「へえ。間違いございませぬ」
喜平は、遠ざかっていく典膳の背を見つめた。
「──あのお方こそ、小山様にございます」
その言葉を聞いた瞬間、勘兵衛の中で最後の疑念が消えた。
やはり、そうだった。
山中村から雷振筒を運び出した男。
喜平が山寺で見た「小山某」。
それと同じ顔が、今、目の前にあった。
「では……これで決まりだな」
勘兵衛は低く呟いた。
長かった。
ここまで来るまでに、幾つもの手掛かりを拾い、幾つもの可能性を潰してきた。
そして今、その最後の一片が嵌まった。
「喜平、大義であった」
「へっ……へえ」
喜平は恐縮したように頭を下げた。
その横顔を見ながら、勘兵衛は静かに息を吐く。
あとは、どう落とし前をつけるか。
そこから先は、勘兵衛一人の独断で決められることではない。
幸いにも、今は島左近が大坂にいる。
石田家の下屋敷にて政務を執っている左近の判断を仰ぎ、けじめを付ける。
しかも、証言は喜平だけではない。
もう二人いる。
小早川家で荷駄方を務め、かつて典膳の下についていた者たちだ。
左近は家中の伝手を総動員し、二人を探し出した。
そして、表立ってではなく、内々に探りを入れた。
その結果、二人とも典膳の命によって荷運びを手伝ったことを認めた。
これで、逃げ道はほとんど残っていない。
喜平の目撃証言。
喜平が持っていた弾丸。
荷駄方の証言。
そして、典膳自身の行動。
ひとつひとつは決定打に欠けても、それらを繋ぎ合わせれば、一本の線になる。
内堀は、すべて埋まった。
あとは典膳を捕らえ、その口から悪行のすべてを吐き出させるだけ。
勘兵衛は、そう考えていた。
この時までは。
*
翌日。
東横堀川を渡る風は、まだ冷たかった。
春の気配はそこかしこに感じられるものの、冬の名残は消えていない。
川面には朝の光が揺れ、八ツ橋を行き交う人々の足音が響いていた。
そんな何気ない朝を破ったのは、八ツ橋のたもとで見つかった、一人の男の遺体だった。
凄惨な有様だった。
その男は喜平。
前日に勘兵衛の従者を装い、典膳の面通しをした男である。
喜平の死は、即座に勘兵衛に知らされた。
遺体の袂に、石田家の御用札が残されていたからだ。
その知らせを受け取った瞬間。
勘兵衛たちが積み上げてきた計画は、思いもよらぬ方向へと舵を切ることになる。
読んでくださり、本当にありがとうございます!
この作品を「続きが気になる」と思っていただけたら、
ぜひブックマークとポイント評価をお願いしますm(_ _)m
応援が増えるほどヤル気が爆上がりします……!
感想も一言でもくれたら即返信+X(旧Twitter)で感謝ポストします!
次回もよろしくお願いします!




