糸口[2]
きっかけは、ほんの些細な出来事だった。
それが、絡み合った謎の糸を一気に手繰り寄せることになるとは、この時の勘兵衛は知る由もなかった。
正月。
豊臣秀頼への年始の挨拶に訪れた諸大名とその家臣たちで、大坂城は朝からごった返していた。
廊下には色とりどりの家紋を掲げた武者たちが行き交い、そこかしこで新年の挨拶が交わされている。
大坂城の大廊下ともなれば、その幅はもはや廊下というより広間に近い。それでもなお、人の波が途切れることはなかった。
勘兵衛もまた、石田家の家老として主君に随伴し、登城していた。
ひと通りの儀礼を済ませてしまえば、あとは今夜催される酒宴の席次を確認するくらいしか用はない。
供の者を従え、廊下を歩いていた、その時だった。
「いやいや、お久しゅうござる。貴殿は、垣屋勘兵衛殿ではござりませぬか?」
不意に背後から声をかけられた。
「……貴殿は」
勘兵衛は足を止め、振り返った。
見覚えのある顔だった。
だが、勘兵衛は人の顔を覚えるのが得意ではない。記憶の底に引っかかるものはあるのだが、目の前の男の名が、どうしても出てこなかった。
返答を濁していると、男は困ったように笑った。
「お忘れですか。宇喜多家の高橋でござるよ。高橋主膳。前にお会いしたのは大垣城でしたから、もう四年も前になりますかな」
「……ああ!」
その名を聞いた瞬間、勘兵衛の脳裏に、かつての光景が鮮やかに蘇った。
関ヶ原へ向けて出陣する直前。
大垣城の廊下で、彼と交わした会話。
そして、そのさらに二年前。
太閤秀吉が亡くなる二日前、勘兵衛は伏見でひとりの男を斬った。
あの男は、宇喜多家の内紛に関与し、高橋主膳に追われていた。
拓真を守るためとはいえ、勘兵衛がその男の命を奪ったことに、主膳は深く感謝した。
それが縁となり、主膳とは知己となったのである。
「いやはや、まさか垣屋殿が、あの高名な龍仙寺衆を率いておられたとは。後になってそれを知った時は、拙者も仰天いたしましたぞ」
「いや、それほどのことでは……」
勘兵衛が苦笑して手を振ると、主膳はふと表情を曇らせた。
「あの時、一緒におられた方が、工藤内匠頭様だったのですな。いやあ……そうと知っておれば、もっとお話ししておくのだった。それが叶わぬとは、まことに残念にござる」
主膳の顔に、心からの悼みが浮かんだ。
勘兵衛は、そんな主膳を見つめながら、ふと大垣城で交わした会話を思い出した。
供の者に目配せして、数歩下がらせる。
「そういえば……大垣でお話ししたこと、覚えておられますか?」
「ん……ああ、たしか……」
主膳は視線を斜め上へ向け、記憶の底を探るように眉を寄せた。
しばし考えた後、突然、ぽんと手を打つ。
「そうそう、影武者の話でしたな」
周囲をちらりと見回し、声を落とす。
「あの将監の一族に、さる御方と瓜二つの者がおりましてな。それが影武者として召し抱えられた、という……」
「……将監」
勘兵衛は、その名を口の中で繰り返した。
そうだ。伏見で斬った男は、確かにそう呼ばれていた。
栢谷将監。
その名は、かつて島左近にも報告している。
「その一族の長というのは、どなたで?」
「典膳でござる。栢谷典膳」
主膳は、あっさりと答えた。
「宇喜多家を出奔したのは、栢谷の一族で間違いありませぬ」
栢谷典膳。
小早川家の側近として耳にしていた名と、遠い過去の名が、ようやく重なった。
顔には出さなかったつもりだった。
だが、ほんのわずか、目の色が変わったのだろう。
「おや……典膳をご存じでしたか」
主膳が意外そうに目を丸くする。
「いや、少し小耳に挟んだというだけで……」
勘兵衛は、何食わぬ顔で答えた。
だが、胸の内では、自らの不覚を激しく悔いていた。
なぜ、今まで思い出せなかったのか。
なぜ、栢谷という名を聞いた時に、将監の顔が浮かばなかったのか。
過ぎたことを悔やんでも仕方がない。
そう思おうとしても、己の迂闊さが腹立たしかった。
そんな勘兵衛の内心には気づかぬまま、主膳は話を続けた。
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