糸口[1]
白雲城は、初戦に勝利した。
だが、その勝利に浮かれている者は一人もいなかった。
敵は二十倍の兵力を擁している。
一度の勝利で戦局が変わるほど、現実は甘くない。
戦争全体の勝敗は、始まる前からほとんど決まったようなものだ。
もちろん、小早川軍の前線指揮官、井伊直政に油断がなかったとは言えない。
先鋒の任を務めた渡辺重綱が率いたのは一千八百の兵。これだけで白雲城側の戦力のおよそ二倍。少数の敵など、圧倒的な兵力をもって押し潰せる。そんな思いが、どこかにあったのだろう。
しかし、初戦における敗北は、単なる一敗として片づけられるものではなかった。
想定を超える損害と、予想だにしなかった抵抗。
その現実を突きつけられたことで、直政はようやく目を覚ました。
敵は、容易に踏み潰せる相手ではない。
ならば、どうやって崩すか。
直政が当初構想したのは、岩にノミを打ち込むような戦術であった。
一度に大きく削ろうとはしない。
前線に部隊を次々と投入し、敵と対峙する兵を絶え間なく入れ替えていく。
白雲城が一千の兵で迎え撃つなら、こちらは常に新たな一千の兵を送り込むことができる。
損耗した兵を下げ、新規の兵を前へ出す。
その繰り返しによって、敵の体力と精神力を少しずつ削り取っていく。
まるで、岩肌にノミを当てるように。
一打ちごとにノミを新しいものへと取り替えれば、どれほど頑強な岩であろうと、いつかは大きな穴が穿たれる。
敵が地形を利用し、少数対少数の戦いに持ち込むのであれば、こちらは兵力の差を最大限に活かす。
休むことなく攻め続け、敵を疲れさせ、守りの綻びが生じる瞬間を待つ。
それが、井伊直政の描いた戦場であった。
だが──。
その第一手を任せた渡辺重綱が、大敗を喫する。
白雲城の防衛線は、直政が想定していた以上に強固だった。
最初の一打ちで、ノミの方が砕け散った。
そんな有様である。
敵の守りは、ただ堅いだけではない。
こちらの攻め方を見極め、その力を逆手に取ってくる。
このまま同じ戦術を繰り返せば、兵力の差を活かすどころか、こちらが一方的に消耗することになる。
直政は、戦略の見直しを余儀なくされた。
次の手を考える。
それには、どうしても時間が必要だ。
そして、その時間こそが、白雲城の最も欲していたものであった。
彼らの目指すところは、小早川家に勝利することではない。
いや、勝利できるのであれば、それに越したことはない。
だが、二十倍もの兵力差を覆し、敵を完全に退けることなど、現実的には不可能だ。
必要なのは、ただ一つ。
大坂からの調停が入るまで、持ちこたえること。
そのために、一日でも長く。
一刻でも長く。
小早川の進撃を食い止める。
少なくとも現時点において、その目論見は成功したと言ってよい。
敵は足を止め、次の手を探るために時間を費やしている。
その間にも、白雲城は守りを固め、次なる攻撃に備える。
大坂からいつ調停が入るのかは、誰にもわからない。
明日かもしれない。
数日後かもしれない。
ひょっとしたら間に合わないかもしれない。
それでも、今は待つしかなかった。
大坂にいる川尻平馬に、すべてを託して。
白雲城は、吉報が届くその日を、一日千秋の思いで待ち続けている。
*
その一方、大坂でもまた、この戦いを止めるため、奔走する男がいた。
垣屋勘兵衛。
龍仙寺衆の総帥にして、拓真の盟友。
勘兵衛は今、石田家から紛失した雷振筒の行方を、必死に追っていた。
なぜ、どのような経緯で失われたのか。
その全容はいまだ闇の中にある。
だが、紛失した雷振筒の大半が、小早川家へと流れていることだけは判明した。
そして、その事実を利用し、石田三成を脅迫している者がいる。
栢谷典膳。
闇に流れた雷振筒の行方を突き止めるため、一年の猶予を与えよ。
そして、その一年の間は、小早川家と内ヶ島家の紛争に対する調停にも手を出すな。
その要求を受け入れなければ、雷振筒紛失の事実を世間に公表する。
典膳は、そう言って三成を脅した。
雷振筒六十挺。
石田家が、それほどの兵器を紛失したと世間に知られれば、いったいどれほどの衝撃が走るのか。
想像するだけでも、勘兵衛の胸には重いものがのしかかる。
石田家に対する信用は、地に落ちるだろう。
それだけでは済まない。
兵器の管理すらままならぬ家に、天下の政を任せてよいのか。
そんな疑念が諸侯の間に広がれば、政権の根幹そのものが揺らぎかねない。
下手をすれば、それが大乱の火種となる可能性すらある。
この国の統治者である豊臣秀頼は、まだ幼い。
国政を支える大老たちが、互いに手を携え、政を動かしている。
その中心にいる三成が、世の信任を失えばどうなるか。
権力の空白を狙い、各地の群雄たちが動き出す。
徳川家康が滅んだ今も、天下は決して安寧を取り戻したわけではない。
むしろ、一人の巨星が消えたことで、均衡はかろうじて保たれているに過ぎなかった。
それが崩れれば、次に何が起こるのか。
考えるだけで、背筋が冷える。
だからこそ、三成は雷振筒紛失の調査を、典膳の手に委ねるわけにはいかなかった。
関白への野心をいまだ棄てられぬ小早川家に任せれば、事実がどのように利用されるか、わかったものではない。
自らの手で、真実を突き止める。
その任に、最もふさわしい男。
それが、垣屋勘兵衛だった。
龍仙寺衆の総帥として、雷振筒を知り抜く男。
勘兵衛は、自らに託された使命の重さを理解していた。
石田家の信用も。
豊臣の天下の行く末も。
そのすべてが今、垣屋勘兵衛の双肩に重くのしかかっていた。
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