残酷[4]
攻撃を止める。
敵との間合いを切る。
そして、迷いなく水堀へ向かって駆け出す。
重綱は目を見開いた。
「なっ……!」
敵兵たちは、三本の列を作っていた。
互いの間隔を保ち、先頭から順に堀へ入っていく。
水深は、せいぜい足首ほど。
岸から見れば、まるで水面の上を歩いているかのようだった。
兵たちは慣れた足取りで水中を進み、次々と対岸へ上がっていく。
重綱の兵たちは、あまりにも鮮やかな撤退に呆気に取られていた。
逃げるのか。
このまま、逃がすのか。
だが、呆然としていたのは一瞬だった。
重綱が怒鳴る。
「追え! 奴らを逃がすな!!」
その声に、兵たちは我に返った。
「追えーッ!」
「逃がすな!」
我先にと水堀へ駆け寄り、勢いのまま飛び込んでいく。
その瞬間だった。
大地が、兵たちの足元を裏切った。
「うわぁぁっ!!」
「な、なんだッ!」
「落ちる! 助けてくれッ!!」
水面が大きく波打つ。
ひとりの兵が姿を消したかと思えば、別の場所でも悲鳴が上がった。
水の下に潜んでいた無数の穴。
それは、敵を逃がさぬための仕掛けではない。
不用意に踏み込んだ者を、二度と立ち上がらせぬための罠だった。
足場は大小の石に覆われ、まともに踏ん張ることすら難しい。
そのうえ、鎧を身につけた兵たちにとって、背丈ほどもある縦穴は、単なる窪みではなかった。
落ちれば、這い上がるだけでも命懸けとなる。
「引き上げろ! 俺が引っ張る!」
穴に落ちた仲間を助けようと、別の兵が水中へ手を伸ばした。
だが、足元の石が崩れた。
「うわっ!」
助けに向かった兵まで、別の穴へと転落する。
冷たい雪解け水が、鎧の隙間から容赦なく入り込んだ。
水は冷たく、しかも流れている。
穴の底でもがけばもがくほど、壁面に積まれた石が崩れ、足元へと落ちてくる。
鎧が重い。
手足が動かない。
水が肺へ入り込む。
誰かの手が水面から伸びる。
しかし、それを掴む者もまた、足場を失って沈んでいく。
「助けてくれぇっ!」
「誰か、引き上げろ!」
悲鳴が重なり、濁った水面に消えていく。
六左の兵たちは、そんな地獄を横目に、迷うことなく進んでいた。
彼らは知っている。
どこに足を置けばよいのか。
どの石を踏めば沈まないのか。
どの場所を避ければ、穴に落ちずに済むのか。
この堀を渡る訓練を、幾度となく繰り返してきたからだ。
対岸へ続く安全な経路には、あらかじめ縄で印が付けられていた。
縄を常に跨ぐように進めば、穴に落ちることはない。
昼間だけではない。
六左の兵たちは、夜の闇の中でも安全に渡れるほど、この道に習熟していた。
だが、そんなことを知らぬ重綱の兵たちにとって、水堀は底の見えない地獄だった。
何とか穴から這い出した者もいた。
だが、そこへ助けに入った者がまた落ちる。
先に進んだ数名は、運よく対岸へたどり着いた。
しかし、後続は来ない。
孤立した兵たちは、待ち構えていた六左の兵にたちまち討ち取られた。
やがて、重綱の兵たちも追撃を諦めざるを得なくなった。
これ以上進めば、敵を追うどころか、自分たちが水底へ引きずり込まれる。
兵たちは次々と岸へ這い上がった。
水に入った者のうち、岸へ戻れなかった者は、およそ八十名。
その大半は、穴に落ちたことによる溺死だった。
「馬鹿な……!」
重綱は水堀を睨みつけた。
濡れた兵たちが、岸辺で荒い息をついている。
対岸では、六左の兵たちが悠々と隊列を整えていた。
「奴らは渡れたというのに……!」
歯ぎしりする。
同じ水堀を渡ったはずなのに、なぜ自分たちだけがこれほどの損害を受けるのか。
重綱には理解出来ない。
敵は、この堀を戦場にするために、何度も訓練を重ねていた。
水の下に潜む穴の位置も、安全な通路も、すべて把握していたのである。
対して重綱の兵たちは、何も知らずに飛び込んだ。
勝敗は、足を踏み入れる前から決まっていたのだ。
六左の襲撃によって、重綱の軍が被った損害は、これで三百を超えた。
一方、白雲城側の損害は十名程度。
手負いの兵を数名捕らえられたものの、軍としてはほぼ無傷と言ってよい。
そして──。
その直後だった。
大牧村から、百名ほどの兵が血相を変えて駆け込んできた。
「忠右衛門様! 敵が後ろから迫っております!」
又兵衛と七郎の殺しの間から、命からがら逃げてきた兵たちだ。
顔は青ざめ、息は上がり、手にした武器を握る力すら残っていない。
その背後から、土煙が立ち上がる。
又兵衛率いる騎馬隊が、追いすがってきた。
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