残酷[1]
政宗らが白雲城にやって来たのはおよそ一年前。
その時から、対小早川の防衛構想は本格的に練り上げられていった。
敵は、いずれ大軍を率いて押し寄せてくる。
その時、限られた兵力で城を守り抜くには、どうすればよいのか。
政宗と慶次郎を中心とする軍議では、幾度となく地図が広げられ、山々の稜線や川の流れが指でなぞられた。
そして出てきたのは、領内最大の平地である白川郷を前線基地とした場合、手持ちの兵力では守り切れないという結論だった。
ならば、守るのではなく、敵を誘い込むための罠として利用する。
花房助兵衛との戦いでは、その戦略が見事に功を奏した。
敵を白川郷へ引き込み、思惑どおりに叩く。
結果は、ほぼ完勝と呼べるものだった。
だが、それで終わりではない。
白川郷を突破した敵が、さらにその先へ進んだ時、どうやって食い止めるのか。
城へ至る道はおよそ三里。距離にして十二キロメートルほど。
高低差は約百三十メートル。
険しい山々に挟まれたその道は、単なる通路ではない。
見方を変えれば、白雲城へ到達する障害にもなる。
ならば、区間ひとつひとつを曲輪に見立て、地形そのものを防壁へと変える。
それが、防衛構想の基礎となった。
そのための仕掛けのひとつが、荘川の水堀化である。
荘川は、季節によって水量が大きく変化する。
雨が続けば川は膨れ上がり、雪解けの時期には奔流となる。反対に、渇水期には流れが細り、川幅の広い場所では、石だらけの河原が姿を現す。
高低差の少ない場所ほど、河原の幅は大きくなる。
無数の石が転がる河原は、騎馬が入るのは不可能でも、歩兵であれば進むことができる。
大軍がそこへ展開すれば、いかに地形を利用した防御であろうと、押し切られる危険があった。
ならば、河原そのものを、水の底へ沈めてしまえばよい。
発想は単純だ。
川の狭隘部に堰を築き、水をせき止める。
選ばれたのは、大牧村の先にある橋の手前。
川幅は七十メートルにも満たない。
ここならば、広い河原を抱えた荘川の流れを、人工的に変えることができる。
工法の要となったのは、船沈めだった。
豊臣秀吉が備中高松城攻めで用いた、水をせき止めるための工法である。
石を詰めた駕籠を船に積み込み、その船ごと川へ沈める。
ひとつ、またひとつ。
大量の石を抱えた船が川底へ沈み、やがて堰の土台となる。
駕籠には、武田家の治水で知られる信玄堤に用いられた蛇籠の技法が採用された。
その製作を指南したのは、真田源次郎である。
幾度も試行錯誤を重ね、川の流れと地形を見極めながら、石を詰めた蛇籠を積み重ねていく。
そうして完成した堰の高さは、およそ二メートル。
水門などの複雑な仕掛けはない。
堰を越えた水は、そのまま下流へと流れ落ちていく。
現代の言葉でいえば、自由越流式ダムだ。
堰の完成後、荘川の水位はゆっくりと上昇する。
かつて石がむき出しになっていた河原は、次第に水の下へと姿を消していった。
浅い場所でも三十センチほど。
深い場所では、一メートル近く。
それだけならば、歩いて渡れそうに思える。
だが、白雲城側は、そこにさらなる仕掛けを施した。
河原の各所に、人の背丈ほどもある縦穴を、無数に穿ったのである。
水面からは、その存在をうかがい知ることができない。
水深そのものは浅い。
しかし、一歩踏み外せば足を取られ、身体ごと落ち込む。
流れに足をすくわれ、身動きが取れなくなる危険もある。
大軍が一斉に渡ろうとすれば、先頭が立ち往生し、後続が次々と詰まる。
整然と進んでいた隊列は崩れ、兵たちは水の中で互いに押し合い、身動きすらままならなくなるだろう。
浅いからこそ、油断する。
油断するからこそ、罠にかかる。
それが、この水堀の恐ろしさだった。
そして、その堀を挟んだ反対側。
鬱蒼と茂る森の奥に、三百の兵が息を殺して潜んでいた。
木々の隙間から、かすかに水面が見える。
風が吹くたび、葉擦れの音が響く。
兵たちは身を伏せ、槍を手にしたまま、じっとその時を待っていた。
敵の隊列が伸びきるのを。
それが最も危険な瞬間となる。
兵を率いる男は、水野六左衛門勝成。
渡辺忠右衛門重綱にとって、最も警戒すべき敵である。
六左は森の奥で、対岸をじっと見つめていた。
その眼差しに、焦りはない。
距離にして二百メートル弱。
敵の動きが手に取るように分かる。
戦鼓は対岸から鳴る。しかもとびきり派手な音が。
六左は狩人のような静けさで、ひたすらその時を待った。
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